「さて…とりあえずナニからヤってやろうか…」 翌日目が覚めて、一番に考えたのはそのことだった。新しい玩具を手にした子供のように、年甲斐もなく浮かれた気分だ。実際、こういうことを考えている時の己がひどく楽しそうな顔をしているのは知っている。その源は確かな怒りのはずなのに、こうした表情しか浮かべられないのは捻じ曲がった性根ゆえだ。 ただここで問題なのは、ゼロの意欲は十分であるが、仲間同士になってしまった今、事を荒だてずに蹂躙するのは難しいと思われることだ。いくら気に入らない相手だと言っても、ゼロはレオンが不利になるようなことはしない。レオンの臣下であるゼロが、サクラ王女の臣下に無体を働いたとなれば、敵同士だった過去とは違いレオンの立場は間違いなく危ぶまれる。それだけはしてはならないことだ。 それだとなにも出来ないではないか、と思われるが、ゼロには思うところがあった。 あの男は完璧だと自称している。昨晩、あれから白夜兵相手に少し情報収集をしたのだが、あの男の欠点が一つも出てこないあたり、あの男は己の失敗を見事に隠しおおせているのだ。隠しおおせている、と断言するのは、ツバキが人間である以上失敗をしないということはありえないことだからだ。少なくともゼロはそう思っている。 つまり、ゼロ如きにからかわれたところで、その無駄に高い矜持が邪魔をして、上に言いつけるようなことはないのではないか、というのが結論だった。よって、ゼロが上手い具合に他人にバレずにツバキを貶めることが出来れば、ことが露見することはないだろう。そうした隠密行動はゼロが得意とするところであり、きっとうまくやれるはずだ。 そう思い、ゼロはツバキに個人的に突っかかってみることにした。 「よぉ完璧超人のツバキ様」 たまたま通りかかったという風を装って、ゼロは天馬の世話をしていたツバキの元へと近づいた。早朝ゆえか厩にはツバキ以外の人はおらず、男は一人で愛馬と戯れているところだった。 その際、天馬に優しく話しかけながら、丁寧に毛並みを整える姿を眺めて、その美しさに目を奪われたという暗夜での噂を思い出す。 (…なるほど) 確かに、柔和な微笑みと整えられた容姿は、朝日を受け白銀に輝く天馬と並ぶと一枚の絵画のように美しかった。彼を妬んでいるはずのゼロでさえ、その神秘的な光景に目を奪われるほどだ。いや、妬んでいるからこそなのかもしれない。それがますます面白くない。 そんなことを思いながら声をかけたせいか、呼びかけた名前に若干の毒が混ざってしまった。これでは考えていたゼロの計画が駄目になるだろうか、と思ったが、ゼロの声に振り返ったツバキの表情に嫌悪はなく、近づいてくるゼロの姿を捉えると、おや、といったように目を見張った。この反応を見るに、ツバキは昨日のゼロの態度を思い出したのかもしれない。 (まさか会ったとしても声をかけられるとは思ってなかっただろうな) なにせ、相手の親切を始終無言で追い返したゼロである。ツバキの中では勝手に、無口で目つきが悪く愛想笑いも出来ないような冷たい男だ、という人物像が出来上がっていたことだろう。 ただツバキが瞠目したのは一瞬で、すぐにあの笑顔を浮かべてみせた。 「あ、えーと…確か暗夜のゼロ、だったかなー?」 にこり、笑うツバキの姿に、内心湧き上がる苛立ちを押さえつける。この笑顔は嫌いだ。 名を知っていたのか、と思ったが、ゼロもツバキの名を知っているのだから取り立てておかしなことではない。あるいは、昨日の非礼な態度に腹を立てて、それからゼロについて調べたという可能性もありうるが、ツバキが完璧であるというなら最初から知っていたと考えるのが普通だろう。敵を知ることは戦において重要なことであり、情報収集を怠るような男とは思えなかった。 ならばツバキはゼロのことをどこまで知っているのだろうか。第二王子直属の臣下、弓を扱う者。裏の顔を潜めれば、その程度の情報しかないのではないだろうか。あとは人の好意を無駄にするような男だ、と懇親会で新たな情報を刻んだかもしれない。 内心では色々と考えながら、それを表には出さずに、ゼロはそういえば、と切り出した。 「昨日は折角俺のこと悦ばせようとしてくれたのに、悪かったな」 「え?」 この場合の疑問は、ゼロの口調に対するものか、何の話なのかと聞き返したのか、どちらであっただろうか。ゼロと喋るのに慣れていない人々で、その個性的な発言に対しすぐさま嫌悪感を露にする者は稀だ。大体が理解が追いつかず、あるいは理解が出来たからこそ、今何を言ったのかと聞き返してくることが多い。その時点でもはや話のペースはゼロのものだった。そうしてゼロは対人関係の主導権を握っていく。 この反応であればツバキに対しても主導権を握れそうだ、とゼロは己の優勢に笑みをこぼした。 「料理に手をつけなかっただろう。少し機嫌が悪くて、考え事をしていた」 「…あ、あぁ、そのことかーいいよいいよ気にしなくてー!俺の方こそいきなりで申し訳なかったしー」 付け足された内容に、話の内容を理解したツバキの表情がぱっと明るくなった。随分と嬉しそうに見えるのは、ゼロの見間違いではない。 先ほど考えていたとおり、ツバキの中で勝手に作り上げられたゼロという男の人物像は、非礼を謝罪する人間ではなかったのだろう。だから、あの時は機嫌が悪かっただけで悪い人ではないのかなと、ゼロの評価を修正し、この男となら親しくなれるかもしれないとの希望を抱いたのだ。ゼロのたった一言で。 あまりに単純で、想像通りで、思わずにやついてしまった口元を隠すためにゼロは一度俯いた。 (やはりお前が知っているのは、「敵」としてのゼロという男だ) 残念だがゼロという男はそんな単純な男ではない。その本質も、性質も、白夜の者にまで伝わっていないのだろう。だからゼロという男にそんな希望を抱くのだ。それが偽りの希望だとも知らずに。 そう、嘘だ。ツバキの作り出した人物像は見事に正しい。ゼロには非礼を詫びるつもりなどは一切なかった。嘘をつくことで、わざとツバキの中のゼロの評価を持ち上げてから――。 「だが正直なところ、お前の顔は不愉快だ。見ているだけで苛々するな、どうにかならないか?」 一気に、落とす。 にやっと唇の端を上げ嘲るように笑いながら、昨晩も感じたままの感想をぶつけると、ぴし、と空間にヒビが入った音を聞いた気がした。もちろん、それはツバキの側のだ。ゼロへの評価がまたしても180度一転したに違いない。笑顔のツバキが、一瞬固まった。そのまま怒れ、と願ったが、思ったような反応は得られなかった。 「…わーひょっとして俺って喧嘩売られてるー?」 「そう思うならそうなんだろ」 怪訝そうな声を上げながらも、ツバキはにこにこと笑ったままだった。あれだけ明らかな嫌味を言われれば不機嫌になっても良いはずなのに、完璧な男はこうした対応もそつなくこなすのか、と内心舌打ちをこぼした。同時に、そうでなくては面白くないとも思う。ツバキが完璧であればあるほど、その鉄壁を崩した時の快感は計り知れないものがある。 たた、明らかにツバキの纏う空気が変わったのがわかった。天馬の鬣のようにふわりとした柔らかな雰囲気が、警戒を孕んだ、肌を刺すような鋭さを伴うようになったのだ。 その感覚はゼロにとっては心地良く、少しツバキの本質を引き出したようで、唇の端を上げた。 「なにー、それって昨日からそう思ってたのー?」 「あぁそうだ、不愉快で仕方なかった。そんな奴から渡されたものに手をつけるはずがないだろ?」 「うーん…そんなこと他の人から言われたことないんだけどなー」 ツバキの間延びした口調からは、果たしてこれは怒っているのか、困っているのか、本心を悟ることが出来なかった。ちくちくと肌を刺すような感覚はあるものの、ツバキの表情は初めて見た昨日の笑みから何も変わっておらず、ゼロの言葉に対しどんな感情を抱いているのかわからないのだ。これまでゼロが相手にしてきた者達は、もっと顕著な反応を見せていたため、これは厄介な相手かもしれない、と僅かに眉をしかめる。 だがこの短時間で何がわかるわけでもない、ゼロは責めの手を緩めなかった。 「強いて言うならその態度だ」 「えぇーこの俺の完璧な態度に何か問題があるー?」 「完璧ねぇ…」 理解できないものを見るような目でゼロはツバキの自信に溢れた表情を眺める。 全てにおいて完璧な人間などいないことをゼロは知っている。あの知的で冷静なレオンですら、法衣を裏返しに着るなどという失態をおかすのだ。それは愛すべき欠点ではあるが、マークスであろうがリョウマであろうが、彼らですら完璧ではない。だというのに、このツバキという男が何の根拠にそれほど完璧を自称出来るのかゼロは不思議でならなかった。 「俺はな、お前のその余裕かました表情を歪ませてやりたいんだ」 泣かせるか、怒らせるか、絶望させるか、方法は問わない。ただツバキの、このどうしようもなくゼロを苛立たせる笑みを消してやりたかった。 わざと殺気に近いものを出して威嚇する。ただし殺意ではない。ゼロの抱く憎悪や嫉妬は、相手を殺したいというものではなく、いかに相手を不愉快にさせて苦しめるかというものだ。相手の心を大きく揺さぶることが出来れば出来るほど、ゼロは悦びを感じるのだった。 (さぁ…こいつはどう出る) まずはこの笑みが消えればいい。そう期待していたゼロだったが、またしてもそれは見事に裏切られてしまった。 「…へへー残念だけど無理だよね、君には」 「!」 にこりと笑った瞬間、ツバキの姿が視界から消えた。早い、と思った時には、すでにゼロの首元にひたりとツバキの指先が突き付けられている。すっと真っ直ぐにゼロに向かって伸ばされている指は、槍を握っているとは思えないほどに美しかった。 「っ…!」 「だって俺、完璧だし。ゼロより強いよねー?」 「…どうだかな」 挑発的に笑いかけてくるツバキに対し、ゼロもまた声を震わせずに挑発的な態度が取れた己に讃美の言葉を送った。もしこれが武器を持った敵であれば、ゼロは今頃喉を掻き切られこの世にいなかっただろう。敵でなく、ツバキであったとしても同じだ。今は味方同士だから良かったものの、あまりにあっけなく訪れる死の予感に、改めてツバキという男の実力を評価する。 ただし、ゼロも隠したナイフに手をかけている。本当にツバキが殺意を持っていたら、反応するだけの反射神経はあったのだ、というのは相手を見くびっていた言い訳になってしまうだろうか。 (流石は白夜の天才、か…) 二人して殺意の伴わない殺気を振りまきながら、しばらく睨みあう。 そんな中、最初に動いたのはゼロでもツバキでもなく、厩に繋がれていたツバキの天馬だった。二人の殺気に身を縮こまらせていたが、ようやくその呪縛が解けたらしく、ばたばたと羽を羽ばたかせる。それにはっとしたツバキは、数歩下がってゼロから距離を置き、すっと殺気を消した。そして、まるで二人の間には何もなかったかのように、笑みを浮かべるのだ。 「…なんてねー?冗談はこのぐらいにしよっかー」 「俺は本当にヤる気だが?」 「あららー…」 なぁなぁで済まそうとしているのが目に見えて、冗談になどさせるかと牽制すると、ツバキはへらっと笑った。 「えーとさぁ…折角仲間になったんだし、カムイ様だって仲良くしようっていう話になったんだから、出来れば手荒なことはしたくないんだけど…ゼロはそれじゃ気が済まないのかなー?」 「あぁ、そうだ」 「そっかー…困ったなー…」 この言葉だけは、真実味を帯びて聞こえた。ツバキとしては、事を荒立てず穏便に済ませたいのだろう。対人関係も完璧でいたいのに、ゼロがそれを受け入れてくれないことに困っているのだ。 ただ、ゼロとしては好都合である。ゼロがこの態度を貫き通すことが出来れば、とりあえずそれだけでツバキを困らせることに繋がるらしい。 「困ってるとこ悪いが、しばらく付き合ってもらうぜ」 「…うーんこれはどうしたものかなー」 首をかしげるツバキを背中に、ゼロはとりあえずツバキの記憶に己の存在が刻まれたであろうことに満足して、その場を立ち去るために歩き出した。ある程度遠のいてから、ちらりと後ろを振り返ると、ツバキはまだ困ったように口元に手をあてている。あの男がどういう結論を出すのか、次に合う時が楽しみだ、とゼロは一人笑った。 歪んだ笑みをしているという自覚はあった。 翌朝ツバキを見かけたのは、まだ人もまばらな鍛錬場だった。今日は本当に、たまたま通りかかっただけなのだが、早起きの兵たちに紛れて、流れるような美しい動きで槍を振り回すツバキを見つけて、ゼロは足を止めた。 最初に抱いた感想は、こんな朝早くから熱心にご苦労なことだ、というものだった。同じ時間に起きているゼロだったが、それは鍛錬をするためではない。睡眠時間が短くても体調を維持できる身体のため、過去の習慣から早く起きてしまうだけの話だった。だから、ツバキもそういう体質なのだと言われれば、この話はそれまでだ。 次に思ったのが、随分と真面目な表情をしているものだ、ということだ。最初にゼロに話しかけてきた時の、あの苛立たせるような笑顔ではなく、虚空をまっすぐに見据えて、凛とした顔つきをしている。それだけ集中しているということなのだろう。ただ、口元には微かに笑みが宿っており、それが鍛錬中だというのにあの男の悠然とした態度に拍車をかけている。兵士たちの目には大物だと映るのだろう。 そう思いながら眺めていると、ふと、ツバキと視線が合った。ゼロはゼロで、あぁ気付かれたか、と思い、ツバキはツバキで、見られていたのか、というように動きを止めた。二人の距離は決して近くない。視力の悪い者であれば、お互いの姿を発見することも出来ない距離だ。 (さて、今日はどうする) 次の反応を待つゼロの瞳に映ったのは、にこりと笑うツバキの姿であった。見せ付けるように笑ったツバキは、まるでゼロのことなど気にしていないかのごとく、そのまま鍛錬を再開する。 その反応は気に食わなかった。何が気に食わないかと言えば、やはりその笑顔だ。 (取り澄ましたわざとらしい笑顔浮かべやがって…そうか、それが答えか) つまりツバキは、ゼロと真っ向から対決することを決めたのだ。何をしに来たのかと不快感を露にするなり、相手をするだけ無駄だと無視をすることも出来ただろうに、あえてゼロが不愉快だといったその顔をしてみせたというのは、そういうことだろう。完璧にあしらってあげるよー、というあの間延びした声が聞こえた、気がした。 非常に気に食わない――が、悪くない。 (ますます苦痛を与えた時の反応が楽しみだ) そんな悪意に満ちた考えをしながら、ゼロはツバキが鍛錬を終えるのを待った。 「やあゼロー、早いねー?」 あまり待たず、ツバキが鍛錬場から出てきた。今まで鍛錬をしていたとは思えぬほどに涼しい顔をしており、こいつの身体はどうなっているんだ、と少し疑問に思う。よほどの精神力で色々なものを押さえ込んでいるのかもしれないが、そこまで何を抑え込むのかとそれもまた疑問であった。 まるで普通の友人に話しかけるがごとくかけられた言葉に対し、ゼロも同じ様に、うっすらと笑って応える。 「この時間になっても起きないような奴は、夜にナニをしてるのかね」 「そうだねー夜更かしは美容と健康の大敵なのにね」 そんなことは一言も言っていない、と喉まで出かけたが、そんなことに反応を返すのもバカらしくて、そうだなと適当に相槌を打っておいた。これがツバキの話術だとしたら、危うく乗せられるところであった。 「お前はいつもこの時間に鍛錬しているのか?」 「そうだよー朝の時間は有効活用しないといけないからねー」 その答えを聞いたからこそ、ならばこれから毎日見に来てやろうと、ゼロが決めたのだから、ツバキも迂闊な言葉を返したものだ。明日またしても同じ場所でゼロを見かけて、初めて自分の受け答えを後悔することになるのだろう。 「ふぅん…天才のくせに、真面目にヤるもんだな」 先ほどの光景を思い出して口から出た言葉は、素直な感想だった。何をさせても軽々やってのけると評判の男が、早朝から汗を流して誰よりも真面目に取り組んでいるなどと誰が想像しただろうか。ゼロは、ツバキは己の才覚の上にふんぞり返っているものだと思っていたため、そんな光景を想像していなかったのだ。 ゼロのつぶやきに、ツバキが一瞬目を逸らした気がしたが、ゼロが確認した時にはツバキはもう笑みを浮かべている。 「あー…と、確かに俺は天才だって言われるけどねー、それで鍛錬サボってたら他の人たちに示しがつかないでしょー?」 確かにそれもそうだろう。鍛錬にも参加しないような人間に身をまかせる兵などいない。それを見越した上での鍛錬であったなら、随分と打算的なことだ。ただ、他の人間へのアピールであるというならもっと人の多い時間にやった方が効率的だと思うのだが、こんな早朝に人に見られないようにやっている、という伝聞の方が立派に聞こえるのを思ってのことであれば、やはり相当打算的だな、とゼロは裏を読む。 「いざって時に信頼されてないと困るし、完璧な俺としては見過ごせないっていうか、まぁそういうとこも完璧だからさー俺は」 「完璧だと他人から思われるのがそんなにイイかねぇ」 完璧完璧という男に、冷たい視線をなげかけた。 その感覚がよくわからない。他人によく思われたい、という気持ちは人であればある程度は持っているものだが、結局は他人だ。特に、一般の兵など交流することのない相手であり、そんな相手にどう思われようと、己の価値が上がるも下がるもないと思っている。 ゼロの言葉に一瞬ツバキの笑みが引きつった。だがそれと確認する前に、ツバキは肩をすくめて首をかしげてみせる。 「うーん…ゼロにはわからないよねー」 その突き放したような物言いに、ゼロの目がすっと細くなった。まるで二人の違いを突きつけられたようで、不愉快だった。 (――わかるはずがない) 相手の考えていることなど、親しい相手ですらわからないものだ。ましてゼロとツバキとでは根本的なものが違うのだから、お互いの考えを理解し合えるはずがない。こんな奴の考えがわかってなるものか、とさえ思う。 (お前だって、俺のこの歪んだ思いなんてわからないだろ?) 恵まれた人間が心底羨ましくて、妬ましくて――目が焼けるほどに眩しいと思うときがある、その感覚が。 「あぁわからないね、陽の当たるところでロクに努力もせず、ぬくぬくと育ってきたお前の考えなんて」 わざと嫌みたらしく、キツイ口調で投げかける。急に場の雰囲気が険悪なものになった。思い出した、わけではないが、この関係こそゼロがツバキに要求しているものだ。ツバキがあまりに普通に話しかけてくるものだから、つい馴れ合いが過ぎてしまった。 (ほら、わからない俺を蔑めよ。俺より多くのものを持ち合わせているお前は、それをするだけの権利があるんだ) 嫌いな相手から向けられる憎悪はきっと格別だ。それでまた、ゼロはツバキへの負の感情を増加させることが出来るだろう。だから笑顔など早くやめてしまえばいい、とゼロはツバキの様子を窺った。 だがまたしてもゼロの目論見は外れてしまう。ゼロの言葉を聞いたツバキは、少しだけ考えるように間を置いた後で、にっこりと笑うのだ。 「へへーそうだね、俺は必死に努力なんてしなくても槍術だって出来ちゃう完璧な人間だからねー!」 (なんでそこで笑うんだこいつは…!) ツバキの思考回路がわからず、肩透かしを食らったゼロは、強敵の出現にぎりぎりと奥歯を鳴らすのであった。 それからというもの、早朝必ず鍛錬場に訪れ稽古をしていくツバキの習性を利用し、ゼロは毎朝用もないのに鍛錬場を訪れるようになった。元々早く起きる習慣があり、それがちょうどツバキの鍛錬時間と同じぐらいであっただけの話だが、非常に都合の良い事だと思っている。 わざわざ会いに行くなど執着しすぎではないかと自分でも思うが、この際細かいことは気にしていられない。今のゼロにとって、ツバキを責めることだけが快楽を導く手段なのだと信じており、他の事には興味が持てなかった。 まずゼロが行ったのは、訓練するツバキの姿を遠巻きにじっと観察することだった。よく考えてみれば、ゼロはツバキのことを伝聞でしか知らない。もちろん、伝聞といってもある程度信憑性のあるものを取捨選択し、自分なりに納得した情報で構成しているが、それだけでは足りないのだ。先日の事を顧みればわかるだろう、人の表情を読むのが得意なはずのゼロが、ツバキに限っては何を考えているのかがわからなかった。それはツバキが笑顔の下に感情を隠しているからでもあるが、ゼロがツバキの事を知らなさすぎるのも原因だったのだ、と思う。 敵を貶めるにはまず敵を知らねば、効果的に苦しめる言葉をかけることも出来ない。それを実感し、とにかく情報を集めることが重要だという結論を導き出し、現在の行動に至っている。 (何かちょっとした失敗でもいいし弱点でもいい、見つけ出してやる…) そうと決めたら、ゼロの行動は徹底していた。用事がない日は必ず鍛錬場へと足を運び、槍を振るう際の癖や技など、どんな些細なことでもいいので、ツバキに関する情報を集めるために一挙一動を見守った。元より他人を観察することは無意識の内に行っていることであり、見ているだけというのは苦にならなかった。 また、朝以外も時間の許す限りツバキの言動をチェックし、その姿を追った。嫌な言い方をするならば、付き纏った。他人にはそれと悟られぬように、もちろんツバキにもバレないことが最良ではあったが、流石に本人にはすぐに感づかれてしまうので、それは早々に諦めている。見つからないように、などと、ゼロはそこまで完璧を目指すつもりはない。むしろ、常にその存在をちらつかせていた方がツバキの嫌悪感を煽ることが出来るので好都合だろうと思っていた。 現に今、鍛錬中のツバキを観察している時でも、ツバキはゼロの存在を疎んでいるだろう、と確信している。自信があるのにはわけがあった。 (…お、今、見たな) 本日何度目だったろうか、と考えながら、ゼロはにやりと目を細める。 鍛錬中のツバキと視線が合うのである。それは偶然ではなく、誘発的なものだ。観察中のゼロの視線は、ツバキを貫くように真っ直ぐ、逸らすことがない。普通の人間であれば気がつくことのないものだが、気配を感知するのに長けたツバキだからこそ痛いほどに体中に突き刺さる感覚があるのだろう。そのため、おそらくツバキも無意識なのだろうが、視線が時々合うのだ。 知らずゼロと視線を合わせてしまったツバキは、少しだけ目を開いた後、視線をすぐに逸らす。ゼロも経験があるためよくわかるが、集中を乱されることほど煩わしいことはない。他人の気配に敏感なのは決して良いことばかりではなかった。 それでもツバキは、他人にわかるほど表情を崩すことはなかった。何食わぬ涼しい顔で、淡々と鍛錬を続ける。ただ、時折ゼロの視線を感じて、ゼロほうを見てしまうのだけはどうしようもないらしく、視線だけはしばしば合うことがあった。 (とりあえず気にはされているみたいだな) それだけでもこの間突っかかった意味があるというものだ、とゼロは現状に満足していた。本当は少しだけ、全く無視されるかもしれないという可能性も危惧していたのだが、ツバキが律儀な男で良かった。などと、口先だけの感謝を思う。 ゼロが最初に見立てたとおり、ツバキはゼロとの関係について、誰かに相談したり助けを求めたりはしていないようだった。なにやら彼なりに色々と考えた結果、一人で完璧に対応しようとしているらしい。大事にはしたくないゼロにとってはありがたいことだ。 だが、初めこそゼロが近づくと少しだけ警戒しているような素振りを見せたが、今ではほとんど気にしていないように見えるのが気になっている。ゼロがどれだけ悪意に満ちた言葉を発しようとも、ツバキの浮かべる笑みによって場の空気が中和されてしまうのか、あまり険悪な状態が続かないのだ。繰り返されるゼロとの会話に慣れてしまい、ツバキが適切なあしらい方を覚えたのも理由の一つだろう。 それはそれで面白くないのだが、騒ぎ立てられてレオンにゼロの行動が筒抜けになってしまうのは問題だったので、それよりはマシだろうと思うことにしている。そう思うことで、自分の思い通りに行かない現状を無理矢理納得させている、というのが正しいのだが、悔しいのでそれは認めたくなかった。 (何を言うのが一番、あいつにとって辛いのかわかればいいんだが…) 何を言っても笑顔でかわしていくツバキの様子を思い出し、ゼロは唸る。 例えば、サクラに危害を加える、と言えば間違いなくツバキは激昂するであろう。だがあまりにそれは現実的ではなかった。最初からわかっているように、周囲を巻き込んでしまっては事が荒立ってしまう。あくまで、ゼロとツバキとの間で繰り広げられる内容でなければならない。 幸いと呼ぶべきか、不幸と呼ぶべきか、白夜と暗夜との共闘はすぐに終わるようなものではない。まだまだ時間は沢山あることだ、弱点の一つや二つすぐに見つかるだろう、と自分に言い聞かせて、ゼロは黙々と日課をこなすのであった。 そのように、朝の鍛錬場に通い始めてしばらくは情報収集と称して遠巻きに眺めていることが多く、ゼロはツバキとあまり言葉を交わすことをしなかった。 しかし最近では、鍛錬の後には必ず声をかけるのが常になっている。観察するだけでは飽きたというのが一つと、観察しているだけでは状況は変わらないと改めて思ったからだ。悔しいことに、力ではツバキに適わぬだろうことは身をもって承知済みだった。ならばゼロは、その良く動く口を使ってツバキに対するしかない。 話しかける内容は、鍛錬中のツバキの姿を揶揄ってみたり、この後の予定を探ってみたり、いつものようにゼロ特有の口調で世間話を持ちかけてみたり、色々だ。ただし身になる話は一つもない。ゼロが己の欲求を満たすためだけに、すらすらと言葉を並べ立てるのである。 そのどれもに、ツバキは笑顔で対応した。これに関しては律儀だ、という問題ではなく、面倒くさいゼロの相手も完璧にこなしてみせるというツバキの決意の表れだったのかもしれない――が、実際のところツバキがどう思っているのか、その笑顔からは測りかねていた。おかげで、ゼロはますますツバキの笑みが嫌いになっている。 (もうちょっとしかめっ面するなり、怒るなり、馬鹿にするなりすればわかりやすいのに) 内心愚痴ったところでツバキに伝わるわけもなく、どうしようもならなかった。 とにかく、意味のない言葉の応酬は毎日のように繰り広げられた。ほぼ毎日毎朝、飽きもせずに続けられた。よくもまぁお互いに飽きずに続けているものだ、と張本人のゼロが呆れるほどに続けていた。 そのせいで兵たちの一部では、ツバキとゼロは仲が良いのだ、と誤解する者も出てきている。真実は正反対であるのだが、会話さえ聞こえなければほぼ毎日一緒に話をしている間柄に見えるのだから、そう思われても仕方のないことだった。 「なぁ聞いたか、俺たちは仲良しなんだそうだ」 その日もゼロは、わざとらしく仲良しの部分を強調して、ツバキに声をかけた。誰が仲良しなものか、と嫌がってくれればいいと思っていたが、それは望み薄であることも薄々わかっていた。 案の定、ツバキはにこーと笑うのだ。 「らしいねーこの間もサクラ様に、ツバキさんは暗夜の方ともう仲良くなられたのですね、って褒められちゃってさーこんなに仲悪いのにね?」 「まったくだ、ナカがイイなんてぞっとしてイっちまいそうだ」 「相変わらず気持ち悪い物言いするよねーっていうかそう思うなら話しかけないで欲しいなー」 場所は相変わらずの鍛錬場にて、手を伸ばせばその頬に触れられる、という誤解を更に加速させそうな距離で二人は話している。距離感についてはゼロがわざと近づいてやっていることだが、ツバキはツバキで距離を置こうともしていなかった。明らかに逃げるような態度は取らないつもりらしい。 ツバキの言葉は割合と辛辣だが、表情はいつもどおりの笑顔で、やはりゼロにはツバキの本心が読み取れなかった。以前よりもこうした刺々しい発言が目立つようにはなってきたが、それでもツバキが笑みを崩すことがないのが腹が立つ。そうしていればいずれゼロが諦めると思っているのだろうか。だが実際はその逆で、絶対その笑みを崩してやる、というゼロの闘争心にますます火をつけていた。 「お前もそう言いながら鍛錬の場所とか時間を変えないのは、俺に相手をしてほしいからじゃないのか?」 「あははーゼロって前向きだよねーすごいなー」 遠まわしに馬鹿にされている気もするが、ツバキの表情からはそんな感情は見られない。こういった言葉も、周囲が聞けばただの賛美の言葉に聞こえるのだろう。 そんな具合に、ゼロもツバキもお互いに仲良く見えるように振る舞っているのだから、周囲の者が二人は仲が良いのだと誤解しても仕方のないことなのであった。ゼロも、そしておそらくツバキも、それを知った上でやっているのだ。 (…あー馬鹿らしい…) この見せ掛けの友人関係に対し、内心ではそう吐き捨てる己がいるのも事実だった。一体そうまでして張り合って、貴重な時間を費やして、何の意味があるのか、と強く思う時がある。もっと有意義な時間の使い方があるはずだ。 (だが…今更引けるか) 散々ゼロのほうから絡んでおいて、表情を歪ませてやりたいと宣言までしておいて、ゼロの方から引くというのは絶対にあってはならないことだ。それはゼロの完全な敗北を意味する。貧しく辛かった生い立ちだけでなく、成長し力を手に入れたはずの現在までこの男に負けてしまえば、ゼロはツバキという男も、そしてゼロ自身も一生許せそうにない。 切っ掛けは不公平すぎる過去についてだったが、今ではもう過去のことは関係なかった。今のゼロが、今のツバキに勝つことでようやくこの思いは昇華されるだろう。 (だから早く、笑顔なんてやめちまえ) そうしなければ、いつまでたっても平行線だ。離れることも近づくことも出来ず、この距離を保ち続けるという、両者にとって好ましくない状況が続くだけだ。 (…まぁ、それはそれとして) こんなゼロの相手をしてツバキも大変なことだ、と他人事のように思いながら、ゼロは改めてツバキのことを眺めた。自分の思考があまりに幼稚で、くだらないと理解している部分があるだけに、その相手を完璧にこなしているツバキは大変だろうと思うのだ。 (――ある意味、哀れな男かもな) ふと、ツバキに対してそんなことを思った。相手を貶めることで己の優位性を得たかったわけでなく、客観的に眺めた結果そう見えてしまった。そして、それはあながち間違いでもないのだろう。 完璧でいたいがために、完璧を崩そうとしている男と付き合っている、というのがツバキの現状だとゼロは考えている。完璧にゼロの相手をこなそうと決めた手前、ゼロの存在を無視することも出来ず、かといって完璧を崩さないように憎悪を剥き出して邪険に扱うことも出来ず、結果としてゼロの相手をせざるをえない。それを哀れと言わずなんというのだろう。 (何をそこまで完璧であることにこだわるのか理解に苦しむが…) おそらくその部分が理解出来れば、ゼロはツバキという男がどういった基準で、何を思って生きているのかがわかるのかもしれない。だが、どうしても理解出来そうにない。完璧であることにゼロは何の特別性も見出せなかった。むしろ、事あるごとに完璧完璧と口にするツバキを見ると、完璧でない己の姿が際立つようで、煩わしいとさえ思うことがある。 (…そういえば) ふと、ゼロは過去に自分が言われた言葉を思い出した。 ――他人が苦しむ姿を見て悦ぶなんて、理解出来ないな。 それはいつ、誰に言われた言葉であったか。多くの人から似た言葉をかけられることが多く、はっきりしたことは思い出せなかったが、その言葉に含まれた侮蔑と誹謗の感情は今なお明確に思い出すことが出来た。 ゼロは一般から見れば忌避すべき性根の持ち主だ。自分より恵まれた者を苦しめることで相手を自分と同じ位置まで引きずりおろす。そうして、相手が自分と同じ痛みを味わうことこそが何物にも変えがたい悦びだった。 だがゼロのその行為は、ゼロにとっては確固たる意味があったとしても、他人が見れば異常な行為として目に映るのだろう。というより、ゼロ自身自分の言動が異端であることぐらいはわかっている。そんなことはわかった上で、ゼロはそのようにしか生きられないのだから、他人である以上誰もゼロの思いなど理解できるはずがない、と気にも留めなかった。 ――ツバキも同じなのかもしれない。 そんなことを思った。その異常なまでの完璧への執着は一体どこからくるのか、その感情自体は理解出来ないのは変わらない。だが、ゼロがツバキを苦しめてやろうと執着しているのと同じ感覚で、ツバキは完璧であることに固執しているのだとしたら――。 (だとしたらこいつも…相当歪んでいるじゃないか) ただ、そのエネルギーの向かう方向がゼロとは違っているだけで。 ゼロは自分が歪みに歪んでいることを自覚している。そのゼロと同じぐらい執着しているのだというのなら、ツバキの歪み具合も相当深刻だ。ひょっとするとその歪みこそ、ゼロが最初にツバキに会った時に響いた危険信号の原因であるのかもしれない。 ゼロは改めて完璧を称する男の姿を隻眼に映した。綺麗に整えられた髪、男のクセにきめ細やかな肌、すらりとした長身、無駄な肉のない体つき、そのどれもが完璧なのに――いや、完璧だからこそ。 (完璧に縛られて、哀れな男だ…) 初めてゼロは、ツバキに対して妬みや怒り以外の感情を抱いた。決して手の届かない遥か彼方にいたはずの男が、急に身近な存在であるかのような錯覚を覚えたのだ。そして少し、おかしくて笑ってしまう。あれほど忌み嫌っていたはずの男に、そんな感情を抱く日が来るとは思わなかった。 ――哀れな。 だがその言葉は矛先を変えて、ゼロの心にも深く突き刺さった。ぐ、と抉られるような鈍い痛みを感じて、胸元に手を当てる。そして、くつくつと喉の奥で笑った。 (…そうだな、結局のところ) ゼロはツバキを哀れだと思う。もはやその感情は揺るがない。 けれど、一番哀れなのはゼロ自身なのだろう。 被害者面をしてそんなことを言っているのではない。ゼロは自分を哀れむほど価値のあるような人間だと思っていない。哀れまれるのも御免だ。 ただ、過去は自分だけのものなのに、それをいつまでも引きずって、人を不快にさせて、それでしか悦びを見出せない愚かで唾棄すべき屑のような人間である己を嘲笑って言うのだ。 レオンと出会って生まれ変わったつもりだが、その本質はすぐに変えられない。表面上は、それこそ今のツバキのようになんの問題もなく取り繕っているが、根本的なところでは過去を捨てることは出来ていない。忘れてはならぬ、などと言っているが、実際は忘れられないだけなのだ。 ――なんと哀れな男だろうか。 過去の自分は周囲の環境が陥れた哀れさだったとしても、今ゼロが哀れで愚かなのはゼロ自身の性格のせいだ。歪みきってしまった性格を甘んじて受け入れ、変えるためにもがこうともしない、ゼロの怠惰な性根のせいだ。それでは救いようがない。 (救われようなどと思ってもいないが…まぁ) そんなどうしようもないゼロに興味を持たれてしまったツバキという男は、やはり哀れだ、と笑ってしまう。完璧にこだわらず、さっさとゼロの相手を放棄していれば、これほど煩わしい日常が訪れることもなかったであろう。 「何笑ってるのー?」 「いや…」 今だって、こうしてゼロの言動に反応してしまう律儀さが愚かで、少し眩しくもあった。 <<1 3>> |