そんなことを考えていた矢先だった。
「あっ…!」
 たまたまであったが、見てしまった。
 あの完璧超人が訓練中に、うっかりぬかるみに足を取られたのを。
 昨日降り注いだ大粒の雨は、あらゆるものを瞬く間に濡らし地面には水たまりをいくつも作り上げた。雨はその日の夕方にはあがり、今朝になってある程度水分がひいたのを確認した上で野外の訓練場を使用することにしたらしいが、一部にはまだぬかるんだ泥が堆積していた。その上に、正面を見ていて気がつかなかったツバキが足を乗せたのである。
 幸いにもこけるところまではいかず、すぐに体勢を立て直したため周りの兵達には気付かれていないようだったが、ばっちりしっかりゼロは目撃してしまったのだ。しかもちょうど目が合ったというオマケつきだ。
 その瞬間ツバキの浮かべた表情は、またゼロが見たことがないようなものだった。ゼロの嫌いなあの完璧な表情ではない。焦り、戸惑い、羞恥に目を丸くしたあの表情を見たとき、ゼロは思わず嬉しくなってしまった。完璧が崩れたツバキは普段の時と違い、感情のわかりやすい表情を浮かべるものだ、と思ったのだ。
 すぐに誤魔化すように鍛錬を開始したようだったが、その構えはどこか浮き足立っていて、とても完璧な様子ではなかった。動揺しているのだ、と安易に読み取れて、ゼロは知らず唇の端をつり上げる。
(可愛い反応出来るんじゃないか…)
 あれはおそらく、ツバキの素の表情であっただろう。あの反応を隠すために今まで必死に笑みを作っていたのだとしたら、健気なことではないか。以前よりもゼロの悪意が薄まっているせいで、完璧でないことを無様だと責めるのではなく、ツバキの本性に迫るための重要な情報に胸躍らせている。
 どうにも調子が出ないと自分でもわかっているのか、ツバキは早々に鍛錬を切り上げてしまった。にやにやと笑いながら近づいていくと、ツバキは眉間にしわを寄せ、いつもと違い明らかに睨みつけるような鋭い視線を向けてくる。だがそれは精一杯の強がりのように見えた。
「見た…よねー…」
「あぁ見た。お前の恥ずかしいところが丸見えだった」
 言えば、くしゃりとツバキの表情が崩れ、眉尻をさげた情けない顔になった。
「あー…もう、これまで上手くやってきたのになー…」
 顔を隠すように額に手を当てて、ツバキは俯いてしまった。普通の人にしてみれば些細な事であるが、ツバキにとってはそれはもう恥ずかしい事なのだろう。いつもの凛とした態度が影を潜め、覇気のない声でつぶやかれる言葉は新鮮だ。
「随分と可愛い反応をするもんだな、そんなに恥ずかしいか?」
「恥ずかしいっていうか…違うんだよーあんな完璧じゃないとこゼロに見られるなんて…」
「俺だから嫌なのか」
「………」
「おい」
 しばらくそのままツバキは黙り込んでしまった。口に出していないだけで、心の中ではまだ呪詛のように続けられているのかもしれない。そう思うほどに、ツバキの意気消沈っぷりはひどかった。
 黙ってしまってゼロの方を見ようともしないのは、ゼロに早くどこかへ行ってほしいと思っているからかもしれないが、ゼロは動かなかった。初めて見る落ち込んだ態度が物珍しく、またそれを隠そうともしていないツバキが少し危うく見えて、ほっておけないとも思ったのだ。
(…なんだ、やっぱりこいつも普通に落ち込めるんじゃないか…)
 初めて、ツバキも自分と同じ人間なのだと感じたような気がした。同時に、別に完璧である必要などないではないか、と思う。完璧ではないツバキはこんなにも人間味があって、ゼロの心をざわつかせることがない。完璧超人のツバキではなく今のツバキなら、最初からあれほど嫌悪することもなかったかもしれないな、と思うが、それは今更であった。
「…あのさーゼロ」
 不意に顔を上げたツバキは、また例の作った笑顔を浮かべていた。落ち込んだまま話しかけてこればいいものを、と思い、自然と顔が険しくなる。
「えぇと…ちょうどいい機会だから、聞くけど…」
「なんだ」
「俺のこと嫌いなんだよね?」
「…ん?」
 問われた内容に、ゼロはすぐさま答えを返すことが出来なかった。
 以前のゼロであれば、お前のことなんて嫌いだね、となんの迷いもなく答えていたことだろう。ゼロがツバキに抱く感情に、それ以上のものなどなかった。
 だが最近はその感情に変化があることを自覚していたため、嫌いかと問われると、そうでもない、というのが本音であった。だがツバキに向かってそう言うのも気が引ける。
 口を閉ざしていると、ツバキは首をかしげた。
「え、もしかして好きなのー?」
「まさか」
 こちらに関しては即答だ。なぜそう両極端なのか、そもそもその発想はどこから出てくるのか、相変わらずツバキは読めない。
「だよねー」
 はは、と笑ってからツバキは、うん、と一人頷いた。そして、いまだ先ほどの質問に困惑しているゼロに向かってはっきりと言う。
「だったらさ、もう関わらないでもらえるとお互いに平和に暮らせると思うんだけど、それについてどう思うー?」
「――なに?」
「俺の失敗だって今見ちゃったし、もう十分じゃないかなー。これ以上どうしたいのさ」
 始めは失敗をゼロに見られたことに対する羞恥からそう言いだしたのかと思った。だが内容に反して、声のトーンがあまりに暗すぎることに気が付くと、ゼロは眉をしかめた。
 ――これは本気の声色だ。
 ツバキは本当にゼロから離れたがっているのだ。あまりに突然、脈絡もなく聞かされた真面目な内容に、ゼロはただ猜疑の目でツバキを見つめることしか出来なかった。
 確かに、最初の頃にゼロがツバキに宣言した内容は、ツバキの完璧な表情を崩すことであった。そして先ほど、ツバキが失敗をして落ち込んだ姿を目にしたこと、こうしてゼロに負けを認めるような弱気な発言を聞いたことで、大方の目的は達成されたようにも思える。
 けれどなぜか、その言葉を聞いた時にゼロが感じたのは、胸を刺すような痛みであった。
 黙ったゼロを気に留めず、ツバキはいつもよりも早口で言葉をつむぎだす。
「だってそうでしょ、どう考えてもお互いに無駄な時間じゃないかー」
「…無駄」
「そう、ゼロだって実際暇なわけじゃないでしょー?でもほぼ毎日俺と一緒にいるし…それに俺、ゼロといると最近――」
 そこで、ツバキの言葉が止まった。
 どうした、と思うのとほぼ同時に、ふらりとツバキの体が傾いた。一瞬、まさかまたこけたのか、と思ったが、そうではなかった。今度は体勢を立て直すこともなくそのまま床に倒れこんだかと思うと、ツバキの身体はぴくりとも動かなくなった。
「っ、おい!」
 さすがに慌てて、打ち所でも悪かったかと思い体を支え起こすと、ツバキは目をつむりぐったりとしている。吐く息は少し荒く、熱い。すかさず額に触れて、わずかに熱があることを確認した。思えばどこか顔色も悪いようだった。
 普段から体調管理も完璧のはずの男が風邪とは珍しい、とまず最初に思い、次にどうしたものかと考える。
(…あるいは疲労か?どちらにせよ、死ぬほど重大なものではなさそうだな…)
 顔色や熱を測って、そう判断する。杖を扱える関係上、ゼロは怪我だけでなく色々な症状の者を見てきているため、その判断には自信があった。急に倒れたのには驚いたが、今日ぬかるみにはまったことといい、ずっと調子が悪かったのだろう。
 ただ、こうなるまでゼロが気がつけなかったのは少し悔やまれる。名誉のために言わせてもらえば、ぬかるみに足を取られたこと以外、ツバキは本当にいつも通りだったのだ。
(そんなことまで隠し通せるのか、こいつは)
 そこまでして完璧であろうとするツバキの気持ちは、やはりゼロにはわからなかった。
 なんにせよとりあえず、ツバキを休めるところまで連れて行くことにした。随分とお優しいことじゃないか、と自分でも思う。しかしゼロはツバキが風邪で苦しむ姿を見たいと思っているわけではないし、風邪をこじらせて死んでもらうのはもっと困るのだ――まぁ、死ぬようなものではないのだが。
 己よりも長身の身体を背負い、少し迷った後、ゼロは自室へと連れて行くことにした。おそらくツバキは、己の不調を例え衛生兵相手でも晒したくないだろうと思ったからだ。この緊急時に何故ツバキの思考になって考えたのか、その時は深く考えなかった。ただ、これまでツバキの観察をしてきたゼロには、それが自然な行動のように思えたのだった。
 なるべく人気のない道を選び自室へとたどり着くと、ツバキの体を寝台に横にさせ、薬棚を漁る。いざという時のためゼロは自室にいくつか薬を常備している。昔は公にできない仕事もいくつか請け負っていたので、自分だけで処理出来るようにとの準備であったが、そんなことしなくてもよくなった今でもまだ癖が抜けていなかった。それが今日は幸いしたようだ。
「おい、飲めるか」
「う…、ん…」
 明確な声は返らず、ツバキは苦しそうに喉を鳴らすだけだった。ちっと舌打ちをして、ゼロはツバキの背中に手を回し、体を緩く起こした。そして手にしていた薬を己の口に投げ入れ、水差しから水を含むと、熱い息を吐くツバキの口に己の唇を重ね、薬ごと流し込もうとして――途中で我に返り動作を止めた。
(なにやってるんだか…見た感じ、こんなものは一日休めば治る)
 あまりの自分の突拍子もない言動に呆れて、ゼロは内心でため息をついた。口に含んだ状態の薬を、水だけ飲み込んで自分の手のひらに吐き出すと、そのまま近くにあった紙に包んでゴミ箱へと放り投げる。
 ひとまず濡れた布を額に置いてやり、ゼロは寝台の側に寄せた椅子に座ってツバキの様子を眺めた。胸が上下するのに従って、息が荒く吐き出される。鍛錬中でもあまり目立たない汗が額を濡らしていた。それを甲斐甲斐しく拭ってやりながら、ツバキにしろゼロにしろ、今日は本当に珍しい姿ばかりだ、と思った。
(俺がこいつの看病をすることになるとは…)
 強制されたわけでもなく自分から進んでやっている行動なのだが、なぜそんなことをしているのか、己の行動がよくわかっていない。ただ、己の欲求に突き動かされるまま面倒を見ていた。
 どうにも調子が狂っている。意気消沈したツバキを見てからというもの、いつもの嗜虐性が身を潜めていた。それどころか病人だからと心配さえしているのだから、ゼロの心も単純なものである。
(…もう関わるな、と言われたのにな)
 世話を焼きながらツバキの言葉を思い出し、ゼロは一人ため息をつく。
 昨日まで平然と続けられていた関係だというのに、まさかそんなことを言われるとは思わなかった。だがよく考えれば、そんな風に考えたことがおかしかったのだ。元々二人の関係は良好なものでなく、逆に続いているのがおかしいぐらいの間柄であった。
 それを、今後も続くものだとなぜか思い込んでしまったのは、ツバキがこれまでに完璧に対応していたからだ。ツバキを屈させたい、と思いながらも、ツバキが屈することはないだろうと心のどこかで観念し、平行線をたどり続けるのだろうと思っていたからだ。
(そうだ、こいつが完璧を捨てるなんてないだろうと薄々感じていたからこそ…)
 だが、ゼロに失敗を見られたのがそんなにも屈辱的であったのだろうか。それとも、それは引き金にすぎず、本当はずっとそう思っていて、それでも完璧でいるために口に出すことが出来なかったのだろうか。
(無駄な時間だと思いながらずっと付き合ってきたとしたなら、それがお前の目指す完璧なのか?だとしたら本当に…哀れじゃないか)
 ツバキは機転の利く賢い男だ。ゼロと同じぐらい、あるいはゼロよりも様々なことに精通しているかもしれない。ならば、もっと他にもゼロをあしらう方法があったはずだ。それこそ無駄な時間を過ごさないために、もっと早くに打つ手はいくらでもあっただろう。
(そりゃ確かに、こいつにとっては有意義な時間ではなかったんだろうな…)
 完璧を装って、嫌いな男の相手をし続けてきたのだ。だがそれはツバキの責任でもある。嫌だと思っていたならばもっと早く言えば良かったのだ――と考えて、ゼロは思わず笑ってしまった。
(完璧であるために、弱音を吐くようなことは言えなかった、か)
 結局のところはそれに行き着いて、行き詰まる。ツバキを理解しようとしても、どうしても完璧という概念がネックだった。
(大体、好きか嫌いかって、それがどうしたんだ)
 なぜツバキがそんな質問をしてきたのか甚だ疑問だ。こんなにも毎日不快にさせるような言葉を発する男を相手に、好きなのか、などという質問をぶつけるのはどうかと思う。それは、ゼロが嫌いだと即答しなかったことが原因だったとしても、好きなはずがないのだ。
 それとももしあそこで好きだと答えたなら、ツバキは関わるなと言わなかったのだろうか。
(…馬鹿らしい)
 くだらないことを考えている、と浮かんだ考えを嘲笑し、ゼロは首を振った。

「ひ、ぅ…っ!!」

 突然、悲鳴のような声がゼロの耳を打った。
 はっとして声の主に目を向けると、つい先ほどまで安定した容態であったツバキの身体ががくがくと震えていた。ぶわっと冷や汗が頬を伝い、形の良い眉が苦しげに寄せられ額にシワを刻んでいる。顔色は悪く、苦しそうなうめき声を喉の奥から搾り出しているようだった。
「っ、おい…!」
「く…っ…!」
 己の見立てが甘く病状が悪化したのだろうかと思ったが、魘される様を見ているとどうやらそうではなさそうだった。似たように魘される人を、ゼロは何度か見たことがある。そして自分自身でも経験しているため、その判断には自信があった。

 これは――心の病によるものだ。

「あ…ごめ、なさっ…お父さん、お母さ…!!」
 その考えを裏付けるように、ツバキの薄い唇から掠れた叫び声が放たれる。同時に、何かに縋るようにツバキの震える手が宙を切り、胸の前で組み合わされた。まるで祈るようなその動作に、ゼロは忌々しげに目を細めた。
 許しを請う罪人のようだ、と思った。
「すぐ、すぐに完璧にやり直すから、許して、ください…!!」
 震えるツバキの口から漏れるのは、涙交じりの苦しそうな声だった。普段のツバキからは想像も出来ないほどに弱弱しく、恐怖にまみれ、ただ慈悲を乞うかのようなか細い声だ。
「ど、うか…おねがっ、します…見捨てない、で…っ!!」
 だが生憎と、その声はゼロを興奮させることはなかった。こういう声が、言葉が聞きたくて普段から責めていたはずなのに、感情が消えうせてしまったかのようになんの悦びも感じない。むしろ心の奥に何か冷たいものがすっと入り込んだような鋭い痛みを覚えた。
(…こいつは)
 ゼロの中で、曖昧だった点と点が繋がり始めていた。
 完璧だ、とツバキは言う。いついかなる時も完璧なのだ、と自信たっぷりに言う。確かに、その動作立ち振る舞いには隙がなく、白夜暗夜問わず兵士達は皆、完璧だ、と口を揃えて言うだろう。
 だがツバキという男の完璧への執着には、病的なものを感じている。おそらくツバキはゼロが考えている以上に、完璧でないことに恐怖を抱いているのだろう。それは矜持の問題ではない。もっと本能的で、本質的な恐怖だ。
 その原因がもし今ツバキが魘されている内容であるならば、ある程度の全体像が見えてくる。
(――見捨てないで)
 それこそが答えだ。ツバキが恐れているのは、誰からも必要とされなくなることなのだ。
 それは過去には両親であり、現在でいうならばサクラやカムイを始めとする、軍の面々全てにである。完璧である状態を通常の基準として認識されているがゆえに、少しでも完璧でなくなれば周囲から見捨てられると思っているのだ。
 その病的なまでの感情を形成したのが――。
「親、か…」
 それは、ゼロにとっては馴染みの薄い単語だった。
 幼くして両親に捨てられたゼロには、親がいる者達が妬ましくて仕方のない時があった。どれだけ怒られても、鬱陶しくても、それでも親がいるならそれでいいではないか、とその存在に強い憧れを抱いていた時もあった。恵まれているくせにそれを理解せず不満だけを並べ立てる輩が憎たらしくて仕方がなかった。生まれた時から無条件に与えられる愛情に飢え、親がいれば自分はこうならなかったのではないか、と思ったことさえあった。
 けれど、それは結局、伝聞に夢を見すぎたない物ねだりであったのだ。
 ツバキの家は代々王家に仕える大層な家柄であったという。そこに名を連ねるというのは、肩書きなどなんの意味も持たない世界で生きていたゼロと違い、相当な重圧があったのだろう。その重圧に耐えうるよう、ツバキの両親はツバキを家名に泥を塗らぬ、完璧な人物として育てたのだ。そこに情はあったのかもしれないが、愛はなかったのかもしれない。
 その結果、ツバキは完璧であることに固執しなければ生きていけない身体になってしまったのではないだろうか。
 完璧であれ、完璧でなくては王家に仕える者として失格だ、いついかなる時も完璧でなければならぬ、と言い聞かせられ、健気にもその言いつけを守り従おうとしていたのが、いつしか逆転して、ツバキであるためには完璧でなければならない、という強い強迫観念に囚われてしまっているのだ。ゆえに完璧でなくなった自分は誰にも必要とされないと考えており、その恐怖がツバキを完璧へと走らせる理由の最たるものだろう。
(…そうか、こいつも…)
 ゼロはツバキの認識を完全に見誤っていたようだ。
 生まれた時から完璧で、努力もせずぬくぬくと生きてきた男ではなかった。むしろ、初めからこうあるべきだという道筋を決められてしまっているがゆえに、自由になど生きられなかったのではないだろうか。辛い幼少期が、今の歪んだ彼を形成しているのだ。ゼロと同じように。
「やだ、ごめんなさい、ごめんなさい!次は、絶対にっ…!!」
「…おい」
 気がつけば声をかけていた。これ以上、夢にうなされ傷を広げる姿を見たくなかったのだ。それは、同じようにうなされることのある己の姿を知らずに投影していたからかもしれない。
「起きろ、ツバキ」
「っ、ぅ…!」
 今度は多少強引に、頬をぺちぺちとはたいた。頬への衝撃に、うう、と低く呻いた後、ゆっくりとツバキの瞳が開かれる。いつもは澄んでいる美しい瞳が、少し濁っているような気がした。
「…ぁ…?」
「大丈夫か」
 頭が覚醒していないのか、ゼロの呼びかけに対してもツバキの反応は鈍い。こうしてみると、ツバキもただの人だな、と思う。いや、これこそが飾り立てることのないツバキの姿なのだろう。
 しばらく待っていると段々と意識がはっきりとしてきたのか、ツバキの瞳の焦点がゼロに合い、軽く瞠目した。
「え…ゼロ…?」
「そうだ」
「あれ、俺…なんで…」
「お前が突然風邪で倒れて、俺がここへ運んだ」
「ここって…」
「俺の部屋だ」
「そう、なんだ…俺、えぇと…」
 途切れ途切れの記憶をかき集めようと、頭に手を当てたツバキの視線が宙を泳いだ。そして突然はっとして、思い出したように震える身体を両腕で抱きしめた。
「…俺、何か言ってた…?」
「…いや。ただ、苦しそうに呻いていた」
「…そっかー」
 ひょっとしたらゼロが嘘をついたことに気がついているのかもしれないが、安心したようにツバキは笑った。けれど、力の無い笑みだ。頭の中にはまだ夢の残骸が漂っているのだろう。楽しい夢はすぐに忘れてしまうが、苦しい夢は嘲笑うかのようにいつまでも脳内に焼き付いているものだった。
 そう思った時、ゼロは何故か急にツバキを抱きしめてやりたくなった。
(…これは…?)
 ゼロの心の奥底から溢れてくるこの思いは、ただの同情かもしれない。きっとそうなのだろう。そうでなければ、男相手にそんなことを思うはずがない。
 だが、急に目の前の男が哀れで庇護すべき幼子のように思えて、自分と同じ境遇の人間への親しみにも近い思いが湧いてしまった。ツバキの気持ちはわかる、などと傲慢な事を言うつもりはなかったが、少なくとも孤独の苦しみは共感できる気がした。
(この感情は本当に同情か?それとも、もっと別の何かか…)
 処理しきれないもどかしい感情にゼロは翻弄されている。誰かに優しくしたい、などというのはいままでに経験したことのないものだ。大体、優しくしたいと思う心など、もう随分前になくしてしまった感情だと思っていた。
 けれど、胸が締め付けられるような切なさと、苦しみを分かち合ってやれればいいのにというこの思いは、確かに目の前の男に向けられている。ツバキが喋りだすのがあと少しでも遅ければ、ゼロはツバキに手を伸ばしていただろう。
「…ちょっと、夢をみたんだー。俺としたことが、体調も夢見も悪かったみたいで…」
 力なく笑うツバキは、ゼロの方を見ようとしなかった。ひどい有様を見られて落ち込んでいるのは勿論だが、それ以上に取り繕おうとする元気もないようだ。よほど悪夢がこたえているのだろう。
「でも、俺はまたゼロにみっともないとこ見られちゃったなー…」
「別にみっともなくなんてないだろ。風邪をひくやつは何度だってひくし、物につまずいて無様に転ぶやつなんて腐るほど見てきた」
 ツバキにとっては何の慰みにもならないとわかっていても、ゼロは声をかけずにいられなかった。自分らしくない、と思いながらの言葉だっただけに、ツバキが驚いたようにゼロのことを見てくるのも予想済みだった。
「ゼロ…どうしたのー?そういえば俺を運んでくれたことといい、いつものゼロからは考えられないぐらい…えぇと、優しいっていうのかな?変だよー」
「病人ほっといて死なれたら、それこそ夢見が悪いからな」
「あははー、そうだよねー」
 少しいつもの調子を取り戻してきたのか、ツバキは間延びした口調で笑う。このままいつものようにくだらない会話を続けていればツバキの調子も元に戻るだろうか、とゼロは期待し、夢のことは聞かないでおこうと思っていた。聞かずとも大体ゼロの想像通りで合っているだろう。ツバキほど深刻なものは見たことはないが、似たように親の教育で歪んでしまった者は何人も見てきた。
 ――だがゼロは忘れていたのだ。
「…あのさーゼロ」
「なんだ」
「うん…このタイミングで聞くのも変かもしれないけど…俺が言ったこと、考えてくれた?」
「何をだ?」
「だから――もう関わらないでって言ったこと、ね」
「っ!」
 おどおどと、しかしまっすぐに突きつけられた言葉に、ゼロはきゅっと心臓を握られたような痛みと焦燥感を覚えた。
 ――そうだった。ツバキの過去を垣間見て、ツバキに対して生まれた感情に戸惑っている内にすっかり記憶の片隅に追いやっていたが、確かにゼロはツバキからそう言われていたのだ。つい数分前まで考えていたことを忘れていたなんて、とんだ鳥頭である。
「こんな風に看病してもらっといて、ひどい言い草だとは思うけどー…」
 ツバキは申し訳なさそうに言葉尻を濁したが、ツバキの発言は決して悪くない。看病をしているのはゼロの勝手で、ゼロが勝手をする前にツバキはこの関係に終わりを告げようとしていたのだ。だからツバキが気に病む必要はないのである。
 ゼロは己のあまりの愚かしさに笑い出したくなった。
(…はは、何が優しくしたいだ)
 先ほど湧き出した感情を思い出し、手のひらをぎゅっと握り締めた。向かう先がなくなり、持て余した感情を逃がすためだ。
(そんな身勝手なこと、今更…)
 そもそも、土台無理な話であったのだ。ゼロはツバキにこれほど疎まれており、その原因を作り出したのは他でもないゼロ自身なのである。今更優しくしたいなどと思うのは、あまりに身勝手すぎる。
 ゼロとツバキの関係は、ツバキが律儀にも相手をしてくれるから成り立っていたと言っても過言ではない。ゼロが一方的に話しかけて相手を苛立たせるのでも成立はするが、結局のところは相手からの反応がなければゼロの一人遊びと同じことだった。
 待ってくれ、とみっともなく縋りそうになったが、努めて平静を装ってゼロは口を開く。
「…嫌だ、と言ったら?」
「うーん…どうしたらやめてくれるのかなー、恥を忍んで、やめてくださいお願いしますって頼めばいい?それでゼロは満足してくれるかなー」
 どうしてほしいか、と尋ねてくるツバキは、自暴自棄になっているようにも見える。そのあまりにツバキらしくない反応に、ゼロは完全に毒気を抜かれてしまい、次の句が継げなかった。
 ――何故だ。
 その問いかけはツバキに向かって発されたものではない。完璧でないツバキの発言を聞いて、心がずきずきと痛むことに対してだった。
 ゼロはツバキのこういう姿が見たかったのではないのだろうか。ゼロに屈して、頭を下げるようなツバキがあれほど見たかったはず――だった。
 だというのに今は少しも嬉しくなかった。先ほどの魘されている時の反応だってそうだ。他人が傷ついて苦しむ顔を見ることでしか悦びを見出せなかったはずなのに、むしろ、こんなツバキは見たくないというような思いさえ抱いている。
(…なぜ?)
 一体自分は、あの醜悪で忌むべき性格の自分はどこへ行ってしまったのか。
 そうして悩むフリをしながらも、本当は原因はわかっていた。認めたくはなかったが、こうまで顕著に現れていては認めざるを得ない。
 原因はおそらくひとつ、ゼロが変わったからだ。
 ツバキに対する、ゼロの感情が全く変わってしまったからだ。
 確かに、ツバキと初めて会った時のゼロであれば、今の状況はツバキを屈服させたも同然であり、完全勝利を収めたことに最高の愉悦を味わっていただろう。ツバキの心の弱い部分を抉り、表面まで引きずり出し、許しを乞わせたのだ。それで満足する――はずだった。
 けれどゼロは知ってしまった。ツバキもまた、自分と同じであると。同じように哀れで、愚かで、苦しみを知っているのだと痛いほどに理解してしまった。
 そんな相手に対し、今までどおりの対応など出来ようがない。ゼロもこう見えて、他人には理解されない信念を掲げて生きているのだ。
 ――ではゼロは、ツバキに何を望んでいるのか。
「…もうわかったでしょ、俺は完璧じゃないよー…」
 膝を抱え、背中を丸めながらツバキがぼそぼそとつぶやく。聞き漏らさないよう、ゼロは一度考えることをやめた。集中しなければ聞き取れないほどに、ツバキの声は小さかった。
「俺ね、ゼロがずっと俺のこと見てるってわかってから、ずっと完璧でいようと頑張ってたよー…でもそれって、頑張らないと完璧でいられないんだよ。ずっとゼロのこと意識して、完璧にあしらわなきゃ、って思って、無理してたのかなー…それで体調悪くしてるんだから、世話ないよねー…」
 風邪で気が弱っているせいもあるのだろう、弱音を吐くツバキにいつもの完璧な面影はない。汗で張り付きぼさぼさになった髪も、青白い顔色も、とてもあの、常に完璧であった男とは思えなかった。
「…どうしてそこまで完璧にこだわる」
「んー…王家に仕える一兵士として、常に最高の状態でいようとするのはおかしなことじゃないでしょ?」
「親の影響か?」
「…さぁ、どうだろうねー…」
 突然核心を突く問いを投げかけると、ツバキは明らかに作った笑みを浮かべた。それが証明するのは、やはりツバキの人格形成に関与しているのは両親で間違いなさそうだということだ。ゼロとしてはすでに確定事項であったそれをわざと尋ねたのは、ゼロがそのことに気が付いているのだとツバキに知らせるためだった。
(だが知らせたところでもう遅いのか…)
 ツバキは自分と住む世界の違う男ではなく、手の届く存在だと気が付いたからこそ、優しく触れてやりたいと思った。その感情は、今のゼロの素直な気持ちだ。
 だが、それも無理な話だった。自分よりも幸せそうな相手を選び、苦痛を与える。それがゼロの曲げてはならない部分だ。だがそのポリシーに反しているとわかり、なお相手に拒絶されてまでツバキに付き纏い続けるわけにはいかなかった。あれほどツバキを苦しめてきたゼロが、気持ちが変わったからといって簡単に手を伸ばしていいはずがない。
(今更…俺に何がしてやれるっていうんだ)
 優しくしたい、と思った矢先にこれだ。初めて抱いた光でさえすぐに奪われてしまうのだから、ゼロはつくづく神から見放されているらしい。もちろんこれはゼロの自業自得であるのだが、特別な情を抱いた相手からの明確な拒絶は思いのほか堪えている。じりじりと焼け付くような心の痛みがゼロを諦めへと誘っていた。その痛みはゼロがこれまでしてきたことの罰なのだから、甘んじて受け入れるしかないのだろう。
「――ツバキ、悪かった」
 思いのほか素直に、ゼロの口からは謝罪の言葉が出た。深く、ため息を吐くかのような声だった。
「お前は俺の行動を、随分と負担に思っていたんだな」
 ぴくり、とツバキの耳が動き、視線がゼロへと向けられた。ゼロがこれほど素直に諦めてくれる上、はっきりとこれまでの行為を謝るとは思っていなかったのだろう。だがゼロ自身心境の変化に驚いてるのだから、ツバキの反応も仕方のないことだ。
「それほど追い詰められていたなんて、お前がこんなことになるまで察してやれなかった。お前が倒れたのは俺のせいだ。悪かった」
「え、いや、俺が倒れたのは俺の体調管理の問題だけど…!」
 急にしおらしくなったゼロを見て、慌てたようにツバキがフォローする。だがそれは、自分の罪を自覚しているゼロには通らぬ理屈だ。
 ツバキはいつでも笑顔を作っていて、本当の顔をいつ表に出しているのかわからない、とゼロは考えていた。だが、ゼロが四六時中、いつ見ているかわからないせいで、あの貼り付けた笑みを始終浮かべていたというのなら、ツバキから本来の彼を奪っていたのはゼロということになる。その疲労から風邪を引き、弱ったところで悪夢を見たというのなら、全ての引き金はゼロだ。
 ゼロが察せなかったのはもちろん、ツバキが完璧に隠し通していたからであるが、そんなことは免罪符になどなりようがなかった。
 そんなゼロがツバキに優しくしたいと思うのならば、そのためにしてやれることは一つだけだろう。
「…お前の言う通り、もうお前には関わらない」
「…」
「話しかけないし、近寄らない。俺がお前に付きまとわなければ、お前は常に気を張る必要がなくなって、俺に出会う前のように生きられるんだろ?」
 これまで噂で聞いていた通りの、普通に完璧なツバキに戻るのだ。
「だからもう俺の目を気にする必要はない。無理をしてまでずっと完璧でいようとか考えなくていい…今まで悪かった」
 許してくれ、などと言えるはずもなく、歩けるようになれば部屋を出て行ってくれ、それまでは使っていてくれて構わない、薬もここにある、と言い残して、ゼロは自室を出て行くことにした。何か言いたげにツバキの身体が揺れた気がしたが、振り返っては未練が残ると思い、ゼロは真っ直ぐ向いた瞳を動かすことはしなかった。



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