暗夜の軍議に参加し、適当に鍛錬をして、なんでもいいから店番を代わる代わる引き受け、夜は星を眺めて過ごしてから部屋へ戻ると、もうツバキの姿はなかった。丁寧に折りたたまれた布団と、一つだけ消費された形跡のある薬を見て、確かにツバキがここにいたことを実感した。
 それと同時に感じる喪失感は、ゼロ自身の業だ。ツバキが眠っていた寝台をそっと撫で、ため息をつく。
(…仕方ないことだな)
 現状を諦観し、ゼロは喉の奥で笑った。

 話しかけない、と決めた以上、ゼロはそれを貫き通すつもりだった。それでツバキの日常が少しでも平和になり、完璧であろうとする時間が短くなるのなら、これまでの自分の行いへの贖罪になるのではないか、などと身勝手な事も思っている。
 だがそんなゼロの決意を嘲笑うように、今まで以上にツバキのことが気になって、その姿を目で追う自分がいた。軍議の際、鍛錬の時、食堂でたまたま見かけた時、天馬を駆る姿。けれど、すぐさま目をそらすようにした。見られている、とツバキに思わせてはいけない。ゼロのことは忘れてもらわなければならない。
 今になってこれほど焦がれるのは、ツバキが自分と同じ手の届く存在だったとわかって嬉しかったからだ。決して触れられない存在だと思っていたのに、手を伸ばせば届く距離にツバキがいたことで、愚かにも手に入るかもしれないと錯覚してしまった。一度希望を見てしまったせいで、そのは光を忘れられず未練がましく思っている。
 だが、もともと暗闇を這うように生きてきたゼロに、日向の中で生きてきたツバキという男は眩しすぎたのだ。同じように歪んでいたとしても、その感情の向かう先は全く違っていた。ゼロが卑劣で唾棄すべき思考に至ったのと違い、ツバキはひたすらに己の中でその歪みを昇華させようとしていた。その時点で二人の溝は歴然としている。
(結局は手の届かない存在であるのに変わりはなかった、ってことか…)
 こんなことなら馬鹿みたいな妬みなどしなければよかった。最初から親しくなろうと話しかけていれば、違った未来もあっただろう。今になってそんなことを思うが、全て遅い。失ったものは手に入らない。そんなことは昔からわかりきっていたはずなのに、この歳になっても理解出来ていない自分に腹がたつ。
 結局、ゼロが欲しいものは砂のようにさらさらと手から零れ落ちていく。優しい両親、恵まれた生活、そして今で言うならば、ツバキ。どれほど渇望しても手に入らない理不尽な世界で、ゼロは生きている。昔から何も変わらなかった。
 ――屑のような自分にはその程度の結末がお似合いだ。
 ゼロは鼻で笑った。今まで自分がやってきたことを考えれば、当然の事象、因果応報。
(一人は慣れてる…前に戻るだけだ)
 しばらく経てばこんな思いも消え去るだろう。執念深いのは否定しないが、関わり合いにさえならなければ思いはいつか色褪せる。じくじくと心の片隅でくすぶり続けていたとしても、やがてその火種も尽きる。それまでは、己の業を悔いながら生きていくしかなさそうだ。
(あいつの邪魔にならずに生きていくことだけが、せめてもの…)

 ――そう思っていたゼロの瞳に飛び込んできたのは、足元に落ちていた訓練用の木刀につまずいて、顔面から見事にすっ転ぶツバキの姿であった。



「――っあぁもう、いい加減にしろよお前!」
 ついに耐え切れずに、ゼロはツバキに詰め寄ってしまった。
 近づかない話さない、という誓いは決して軽い気持ちで言ったわけではなかったが、それでもここ最近のツバキの行動には口を出さずにいられず、城内を歩いていたツバキをとっ捕まえて無理矢理自室に連行したところだ。
 ゼロの憤りの原因は、完璧であるはずのツバキがそれはもうひどい失敗っぷりを発揮していることだった。しかも連続で。
 鍛錬中に集中力を切らしてつまづく姿は度々、食事を作らせれば焦がしてしまう、髪の毛を木の枝にひっかけたり、どこか上の空で人の話を聞いていなかったりその他諸々、続々とゼロの耳にツバキの失敗談が届くのである。さすがにフェリシアには遠く及ばないが、普段の行動と比べるせいで、ツバキの方が酷いのではないか、と感じてしまうほどだった。
 ちなみに、それらの失敗は軍内に広く知れ渡っているわけではない。そこは流石のツバキといったところだろうか、情報規制をうまくやっているらしい。そんな中ゼロに情報を届けてくれるのは、過去にゼロがツバキの情報を収集していた時に声をかけた部下などで、そういえばまだ情報集めてるんですかね、とこっそり教えてくれるのである。
 なになにーと慌てふためくツバキを椅子に座らせて、まるで説教をするようにゼロは指をつきつける。
「なんで俺が話しかけなくなった途端にそんな色々ヤっちまうんだよ!俺がどれだけそれを待ってたか…じゃなくて、俺に見られ続けてたから気を抜く暇がなくて失敗したんじゃなかったのか!」
 論点はそこだ。ゼロのせいで始終神経を研ぎ澄ませていて疲れてしまった、と言うものだから、ツバキが心置きなく普通に過ごせるようにと身を引いたはずなのに、これでは意味がないではないか。ついでにこっそりと本音を言うと、是非ともその場に居合わせたかった、という個人的な感情も混ざっている。
 以前ぬかるみに足を取られた際に見たツバキの焦り、戸惑った表情は、正直なところ物凄くゼロの興奮を煽った。簡単に言えば、好きな表情であった。その表情を、ゼロが見ていないところで何度も浮かべているというのは納得いかなかった。
 それでも、誓いがある手前始めは無視していたのだが、何度もなんども聞かされると、いてもたってもいられなくなったのだ。
 早口でまくし立てるゼロを見てぽかんとしていたツバキだったが、思い出したようにえへへーと笑う。
「だ、だって…ゼロに見られてないと思ったらなんか気が抜けちゃってさー…」
「それにしたって気を抜きすぎじゃないのか?!」
「そうなんだけど…俺だってこれは由々しき問題だと思ってるんだよー!このままじゃ俺、みんなから完璧の名を剥奪される日が近い…!」
 それは困る、それは困るよーと急に慌てだしたツバキに、そもそも今のお前がすでに完璧じゃないから大丈夫だろ、と言いかけた言葉を飲み込んで、ゼロはため息をついた。
「ちなみにゼロ、誰かにそれ言いふらしたりとかした…?」
「言ってない」
「良かったー…」
 はぁぁあと力を抜いて肩を落とすツバキの様子に、本人にとってはそれこそ死活問題であるのだから、その反応も仕方ないことだ――と考えていて、ゼロはふと気がついたことがあった。
(…こいつ…)
 ――ツバキが笑顔ではない。
 この場合の笑顔とは、もちろん例のあの完璧を装った笑顔のことである。ツバキの表情から、以前に嫌というほどに見せ付けられた完璧さが抜け落ちており、一喜一憂する姿からはあの違和感が感じられなくなっていた。完璧でいることを放棄しているように思えるのだ。
(なんだ、出来るんじゃないか普通に)
 ゼロの予想としては、これほどの度重なる失敗をしてしまったツバキは、今にも自殺でもするのではないかという状況に追い込まれかねないほどに、完璧でないことを深刻に受け止めていると思っていた。それがどうだ。困る困るとは言っているが、そこにそれほどの凄惨さはない。せいぜい、あんな失敗するなんて穴があったら入りたい、ぐらいの反応だ。
 完璧でいなければ死んでしまう、などということはなく、そうやってゼロの前で己をさらけ出すことも出来る。そもそもあれだけ失敗しておいて、今更ゼロの前では取り繕うもなにもないのかもしれないが、完璧でい続けなくてもツバキは己を許すことが出来る、ということが今証明されているのだ。
(じゃあ俺は何のために身を引いたんだ?)
 ゼロがいなければ、ツバキは確かに気を抜けるのだろう。だがそれで失敗を繰り返して完璧ではないと嘆いているようでは、むしろゼロが見ていた時よりも状況は悪化しているのではないだろうか。ツバキが完璧を目指したいというなら、いっそゼロが見張っていてやったほうがツバキのためになるのではないだろうか。
 そう思ったら、なんだかもう色々と疲れてしまった。自分が身を引いた理由も、ツバキから完璧さが消えている現状の疑問も、考えるのが億劫になった。
「…はぁ、もうやめだ」
 吐き捨てるようにつぶやくと、ツバキがびくと体を揺らした。ゼロが何を思っているのかわからない、というのもあるだろうが、少し怒っているかのように聞こえたからだろう。
「お前がそんな風なら、関わらないって言ったのは無しだ」
「え、急に何を…」
「大体俺らしくなかったんだ、やめろと言われてすごすごとやめるなんて…」
 思い返せば、ツバキが倒れたのは自分のせいだ、という罪悪感のせいで、あまりに聞き分けが良すぎたのだ。これまでならば、手に入るものであればゼロはなんだって手に入れるために力を尽くしてきた。生きるための食料、寝床、金。両親はさすがにどうにもなからなかったが、ツバキに関してはまだ諦めるのは早いのではないだろうか。
 実際、今こうして――話しているのだ。関わってくれるなと言ったはずの相手と、平然と。ならばあの、関わってくれるなという発言の裏には、何か理由があったに違いない。
「お前今、全然完璧じゃないの気付いてるか?」
「えっ」
「完璧じゃなくても、お前はお前ってことだ。そうやって生きられるんだ。だから俺が付きまとったとしても、そうやって生きればいい」
 ゼロの指摘を聞いたツバキは、明らかにうろたえた様子でゼロから視線を逸らした。それが何を意味するのかゼロにはわからなかったが、その態度もまた、完璧な様子とはかけ離れていた。
「…でもゼロは俺のこと嫌いなんでしょ?」
「いや、好きだ」
「…へ?」
「失敗して全然完璧じゃなくて、今みたいにいやらしく思い悩んでる姿はたまらない」
「…また人のことからかってるー」
「だとしても、気持ちは本当だ」
 正面から告げれば、ツバキは困ったように視線を逸らした。普段のゼロの態度がアレだったからか、真面目なゼロへの対処に戸惑っているのだ。
「…ちなみに聞くけど、それってどういう意味での好き?」
「実践してやろうか」
 言うが早いか、ぐ、と手を引いてツバキのことを引き寄せた。気を抜いているツバキは碌な抵抗もせず、驚くほど簡単にゼロの腕の中に納まってしまう。片方の手を腰に回し、その唇が触れるか触れないかの距離で、ゼロは笑ってみせた。
「俺達はナカがイイらしいが、そんなのよりももっと深く繋がりたい」
「っ…」
「そういう意味だ」
 言い終えて、ぱっと手を離すと、ツバキは即座にゼロから距離を取った。ゼロの言葉の意味を正しく理解してくれたらしい。警戒心を強めてこちらを見てくるツバキを見てゼロは楽しげに喉を鳴らす。
「心配するな、無理やり襲ったりしない」
「…説得力ないよねー」
「確かに、これまでにお前にしてきたことを考えれば、俺の言葉は嘘に聞こえるだろう。初めは本当に、お前の事が憎くて疎ましくて仕方がなかった」
 真面目に話し出すと、ツバキも真面目に耳を傾けてくれた。人との付き合い方も完璧に叩き込まれた彼は、なんだかんだと他人を無下に扱うことが出来ないのだろう。
「親に捨てられ、貧民街で育ち、盗賊に身をやつし生きてきた俺と違って、何もかも手にして恵まれているお前の表情を歪ませてやることだけが生き甲斐のような日々だった」
「…ゼロってほんと歪んでるよねー」
「あぁ、だけどそれはお前も同じだろ?」
「…俺も?」
 ぴたりと動きを止めて怪訝そうに聞き返すツバキに、ゼロはうっすらと笑って頷く。
「あぁ、あそこまで完璧にこだわってるのは、どう見ても歪んでいる。でなきゃ、自分を貶めようとしている相手に対して、完璧に対処してやろうなんて思うものか」
「…まぁ、そうなのかもねー」
 ツバキは否定しなかった。歪んでいることが異常であると他の人に言われればツバキは否定したかもしれないが、同じく歪んでいるゼロ相手だからこそ、否定は無意味であることを察しているのだろう。
「それで?歪んでる俺のどこがゼロのお気に召したのー?」
「同族意識か、同情か、憐憫か…わからないが、歪んでいるからこそ気になった。それがどんどんと発展していって、まぁ、今に至るって感じだ」
「ちょっと最後雑すぎじゃない?」
 ツバキから鋭くつっこみを入れられるが、そのあたりを説明しだすと色々と複雑なゼロの心理を語らなければならないため、あえて割愛した。とにかく、ゼロはツバキが気になって仕方ないし、それが愛だの恋だのいう感情なのだろうと考えている。
「もちろんお前が本当に嫌ならやめてやってもいいが、こうして話してくれてるってことは、俺はお前に嫌われたわけじゃないんだな?」
 そこは確認しておかなければならなかった。ここで再度、本当に疎まれているのだと言われれば、ゼロは諦めるだろう。だが少しでも可能性があるとするならば、諦めきれない程度にゼロはツバキを手に入れたいと思っている。
 ゼロの問いにツバキはあろうことか、うーんと首をかしげた。
「…っていうかそもそも俺、嫌いなんて言ったかなー?」
「話しかけるなってのはそういうことだろ」
 違うのか。それ以外の意味があるのか。ここへきてなお理解できないツバキの思考に、若干苛々してきた。
「あー、あれね…」
 ゼロの追求に、ツバキが言葉を濁した。何か隠している、とすぐに悟り、ゼロはじとりとツバキを睨み付ける。
「言わないとお前の失敗全部紙に書いていたるところに矢文飛ばす」
「わぁ待って待って!ゼロならやりかねない…」
 ぞっとしたように体を震わせたツバキは、うぅんと唸った。けれど、ゼロの視線が外されず逃げ道などないとわかったのか、もう一度椅子に座ると、ようやく観念したように話を始めた。
「俺が関わらないでって言ったのはさー、失敗したところを見られていたたまれなくなった、ってのはもちろんあるんだけど…」
「だけど?」
「…怖くなったんだよー、ゼロにこれ以上、完璧じゃない俺を見せるのが」
 あれだけ悠々とゼロを手玉に取っていた男が、自分のことを怖いと思っていたとは初耳だ。語られるツバキの独白に対し、ゼロは黙って続きを促した。
「正確には、ずっと恐かったんだけどねー…ゼロにはいつか本当の俺が見抜かれるかもしれない、って初めから思ってたんだ。ゼロは最初のときから俺の完璧さを疑ってたでしょ?笑顔が気持ち悪いとか誰にもそんなこと言われたことなかったのに、ほぼ初対面のゼロにそう言われてすごく焦ってた、この人は本質を見抜く力があるかもしれないって」
 結局のところ、それはツバキから同類の臭いを嗅ぎ取っていたからだったのだが、ツバキはツバキで同じように何か危険なものを感じ取っていたのだろう。
「俺が努力しないと完璧じゃない人間だっていうのを悟られたくなくて…大丈夫、ゼロの前でだっていつもどおりやればきっと完璧でいられる、って必死で完璧に対処してたんだ。本当の俺が見抜かれないように。実際、俺うまくやれてたでしょー?」
「あぁ、俺がどれだけ責めても全く崩れなかった」
「うん、だよね。俺も完璧にやれてたと…思ってたよ。でも少しの失敗でもゼロには全てを見抜かれちゃいそうで、完璧に完璧に、って思うほどに、その考えこそが完璧じゃない証拠なんだなーと思ってたら疲れちゃって、結局…あの有様だよ」
 倒れた時のことを言っているのだろう。本来、人前で倒れるなどツバキにとってはあってはならぬことだ。だがそれすらコントロール出来ない程に疲弊していたようだ。
「それでもう、早く離れないと本当に全て見抜かれちゃうって思って焦って、関わらないでっていう言い方になっちゃったんだよ。だから嫌いっていうよりは、俺が恐怖に耐えられなくなっただけで…でもね、それならもっと早くに切り出せば良かったんだけど、…」
 ほとんど淀みなく話していたツバキが、そこで言葉を切った。何か言いづらそうにしている、とわかったが、ここまできて情報を止められるのは困るため、ゼロは無言のままじっとツバキのことを見つめ続けた。その圧力に押され、ツバキはまた言葉をつむいだ。
「…でも、ゼロに全部見抜かれるのが恐い、って思うのとは別のところで、ゼロと話すの楽しいかもって思ってる部分があったんだ」
「楽しい?」
「ゼロみたいな人って今まで俺の周りにはいなかったからさー」
 それはそうだ、こんな最低な男がそう何人もいてもらっては困る――ではなく、それが楽しいと言うのはおかしいのではないか、とゼロは目を細めた。
 言葉を選びながら、ツバキは続ける。
「あまりゼロみたいに堂々と敵意ぶつけてくる人って少なくてね。どちらかというと陰口叩かれるんだよ、知識でも武術でも勝てないから、せめて陰口でも叩いて満足しようって人たちにねー」
 その姿は簡単に想像がつく。貴族達というのは、吐き気がするほど陰湿な生き物だ。白夜のことは知らぬが、大体どの国でも変わらないだろう。
 金と権力に固執し、気に食わぬものがあれば容赦なく叩き潰す。ツバキのようにやすやすと手出しをできない相手であれば、自分たちの鬱憤を晴らすように陰で相手を蔑む。そういうものだ。
「最初は俺も、なんか変なのに絡まれちゃったなぁとは思ってたよ、ゼロのこと。今まで相手にしてきた人たちとは違ってたけど、俺は完璧なんだからゼロのことも完璧に相手をしてあげようって思ってた…んだけど、途中からちょっとずつ、完璧じゃない時があったんだ」
「あぁ…刺々しい発言してた時とかか?」
「うん、俺基本的には怒らないように、あくまで余裕って感じを心がけてるから、あぁ俺今完璧じゃないなって思って軌道修正することはよくあったよ。でもね、そうやって感情を表に出すのってすごく新鮮で、楽しくもあったんだ」
「そうなのか。楽しそうには…見えなかったが」
「まぁねー、完璧に隠し通せたと思ってるし…けど」
 ツバキは一度視線を泳がせた。
「でもやっぱりそれでさえ許せない自分がいてね…完璧でいなくちゃいけない、こんな男の挑発に軽々と乗るなんて完璧じゃない、完璧でない感情を出すことを楽しんじゃいけない、完璧でなくなればもはや存在意義がない、って囁く声が頭の中でやまないんだよー…それで、距離を取ろうかなーと思ったんだ」
「…そうか」
 完璧にこだわるツバキであれば、確かにそう思うのが自然なのだろう。そうやって自分を保たねば、ツバキはツバキとして生きていけないのだ。
 ツバキの発言は、まったくゼロが想像しえぬものだった。ゼロが手ごわい相手だ、と唇を噛んでいた裏では、あの笑顔にこれだけの思いを隠しながらツバキはこれまでゼロに相対してきたのだ。
「…イイのか?そんなにも、俺に弱いところをさらけ出して」
「だってゼロが言えって言ったんでしょー…」
 ゼロの指摘に、む、とツバキが唇を尖らせた。が、すぐにその対応は失敗したと思ったのか、表情を元に戻す。その言動が面白くて喉の奥でくつりと笑うと、ツバキはまたしてもむっとしてゼロのことをにらみ付けた。
「…笑ったね?」
「あぁ、今のお前は誰が見ても完璧じゃないからな」
「…ゼロといる時だけだよ、こんなにも完璧でいられないことなんて…普段はもっとずっと、一生懸命努力しなくても俺は完璧でいられるんだからさー」
 ツバキの言葉に、ゼロはぴたりと笑みをやめた。
(…それは、つまり)
 どういうことだ、とその先を考えようとしたが、続くツバキの言葉に思考を止められてしまう。
「…俺さー、飾らないゼロがずっと羨ましかったんだ」
 唐突につぶやかれた言葉に、ゼロは軽く目を見開いた。
「この人は自分を飾らないでいても許されるんだな、ってすごく…羨ましくて、楽しくて、苦しかった」
「お前が俺を羨んでたっていうのか?」
「そうだよー。俺はもう、完璧で飾らないと自分を保てないからさ、別にそれが嫌だって言ってるわけじゃないんだけど、時々自分に疲れるっていうか…」
 ツバキなりに葛藤があるのだろう。ゼロも同じだからわかるが、幼い頃から形成された性格や思考を変えることは難しい。それが、歪みに歪んだ性格であるならなおさらだ。
 以前にもツバキはそのようなことをゼロに言ったことがあった。その時ははっきりとしたことはわからなかったが、ツバキはあの時、すでに弱い部分をゼロに見せ始めていたのだ。そしてそのあたりから、本格的にゼロの考えが変化していった。その考えは、今となっては――。
「ゼロはこんなにも、自分が思ってることに素直ではっきりしてるのに、それに比べてこんなにも飾り立ててた自分が馬鹿らしく思えて…でも完璧じゃなくなったら、俺なんてここにいる価値もないから、」
「俺が求めてやる」
 その言葉は自然と口から出ていた。
「え…」
「完璧じゃなくなったお前のことは、俺が求めてやる。俺はむしろ完璧じゃないお前が愛おしくてたまらない」
 ゼロの発言に、ツバキはばっと顔を上げてゼロを見据えた。その驚いたような顔を見ながら、ゼロは己の発言に確信を得た。
 そうだ、ゼロは完璧でないツバキが好きなのだ。
 あがいて、もがいて、いつ明けるかもわからない凝り固まった思考の暗闇の中を、必死に手探りで進んでいるツバキを愛しく思う。苦汁を舐めながらも完璧でいようとするツバキの横で、完璧ではない部分を自分だけが見ていたいと強く思う気持ちは、明らかな独占欲だ。
「そのことはお前にとっては耐えがたい屈辱かもしれないが、俺は今のお前を知ったからこそ、もっと深くつながりたいと思っている」
「ゼロ…」
「お前が完璧でない自分に価値を見出せないなら、俺が与えてやる。この俺にここまで思われていることこそが価値で、存在意義だ」
 随分と不遜な物言いだと自分でもわかっている。だが、ツバキにはこれぐらい言ってやらなければ伝わらないのだ。完璧の鎧で包み込んだ心には、生半可な言葉は届かない。
 ゼロの言葉にツバキは唇を震わせた。
「…ゼロは俺が完璧じゃなくて…いいんだ」
「最初から言ってたはずだ、完璧な表情を歪めてやりたいってな」
 初めは苦痛に。今は、完璧の仮面を剥いで、普通に笑えるようにしてやりたいと思っている。
 ゼロの言葉を聞いてしばらくは、何か堪えるようにツバキはうつむいていた。重力に従いさらりと流れる髪で覆われた肩が、心なしか震えているように見える。もしそれが、ゼロの言葉に対して何か思ってくれているのならば、期待してもいいのだろうか。
 やがて、ツバキはゆっくりと顔を上げた。そして、ふわ、と笑うと彼の纏う雰囲気が変わった。
「…完璧じゃないとこが好きなんて、変わってるねーゼロは」
 しっかりとゼロのことを貶しながらも、ツバキの声色は優しい。少し照れたような柔らかい微笑みは、ゼロが見たどの表情よりもゼロの心を強く揺さぶった。
「そんなこと言われたの初めてだよー…完璧なとこが好きって言ってくれる人は沢山いたし、完璧じゃなくていいんだよって言ってくれた人はいたけど…」
「お前はもう俺に完璧じゃないとこをいくつも見せた。一つも二つも、五つも六つも百も一緒だ。だからお前は気にせず、俺に無様な姿を見せてればいい」
 そうしたら、その姿を笑って、そんなツバキだから好きなのだと再度言ってやるつもりだ。自分では完璧でないと思っている姿でも、必要としている者はいるのだとわからせてやりたいのだ。完璧ではないツバキの存在意義は、それだけでは足りないだろうか。
「ツバキ、俺にお前のあるがままの姿を委ねろ」
「っ…」
 ゼロの誘惑に、ツバキの瞳が揺れた。間違いなく彼はゼロの言葉に惹かれている。それは、真っ直ぐにゼロのことを見返してくる瞳が、言葉よりも雄弁に語っていた。あと一歩だ。
 だがおそらくツバキはその後一歩を踏み出すことは出来ないだろうとゼロは見越している。ゼロの言葉に心を揺さぶられているのだとしても、彼を構成している完璧への思いはすぐに消えるほど単純なものではない。ゼロが幼い日の呪縛から抜け出せていないのと同じだ。
 それでも、ツバキは先ほど、ゼロといる時だけは完璧でいられない、と言っていた。裏を返せば、ツバキはゼロにだけは思わず素の部分をさらけ出してしまうということだ。それはほんのわずかな瞬間だったとしても、完璧でいなければいけない自分を忘れてしまうというのは、ツバキにしてみれば明らかに完璧でない状態に分類されるだろう。
 その完璧ではない部分を、ツバキは自らゼロに語ってみせた。ゼロはそれがツバキなりの必死の訴えだったと捉えている。ツバキがゼロに抱く思いは、他の者に対するものとは少し違っているのだと伝えることが、完璧でないことを恐れるツバキに出来る最大の譲歩だったのかもしれない。
(そうやって完璧でない部分をさらけ出すのが恐いなら、俺はお前の逃げ道になってやれる。お前を完璧の道から外れるように唆す、酷い男としてな)
 だから唆されて、ゼロの手を取ってしまえばいい。自分が完璧でないのは、ゼロのせいだと言い張って。
 ツバキはまだ迷っていた。かといって、己に向けられるゼロの鋭い視線から逃れることも出来ず、何か言おうと口を開きかけて、また閉じるを繰り返している。だが決心したように一度大きく息を吸い、ゼロのことを真正面から見据えて、口を開いた。
「…俺、ゼロのことは嫌いじゃないし、今言ってくれたことも嬉しいけど、そういう意味で好きかって言われると正直わからないよー?」
「それでいい」
「…いいんだ」
「あぁ」
 驚いたように、あるいは少し呆れたように目を細めるツバキに、ゼロはしっかりと頷いてみせる。
 ゼロは何も、今すぐに答えが出ることは望んでいない。ゼロがツバキへの思いをゆっくりと変化させていったのと同じように、ツバキのゼロへの思いも、少しずつ変化させていけばいいと思っている。そして、それを彼のすぐ隣で先導するのがゼロであるならば、それで上々だ。
「これからお前が嫌というほどまとわり付いて、いつか欲しくてたまらないようにしてやる」
「…あははーすごい自信だね、やっぱりゼロってすごいなー」
 それは良い意味でなのか、遠まわしに馬鹿にされているのか。そのどちらでもあるのだろう。ツバキはまだ完璧であることを諦められていない。ゼロのような男に簡単に懐柔されるのは許せないところがある一方で、ゼロの欲求に素直すぎるところを羨ましく思っているのもまた本心なのだ。
 きっとツバキはこれからも、そうして自分の中の感情の間で戸惑い、彷徨い続けるのだろう。それでいい。そんなツバキだからこそ、ゼロは普段の卑劣な己をさらすことなく、優しくしたいと思えるのだ。
(歪んでいる者同士だからな、俺達は)
 歪んでいて、哀れで、愚かだからこそ、その歪みを互いに許容することが出来る。それを傷の舐め合いだと吐き捨てる者がいるのなら、それも仕方がないだろう。この歪みは当人にしか理解出来ないものだ。生き方が歪んでしまう程の執着がない者にはきっと一生かかっても理解されることはないし、理解されなくても何の感慨もない。ただ、その事実のみがあればいい。その事実があれば、ゼロとツバキは魂の奥底にある暗く冷たい部分で互いを引き寄せあうことが出来るのだ。
「…うん、それもいいかな」
 やがて、小さく頷いたツバキはゼロに向かってにこりと笑ってみせた。それは綺麗な笑みだった。憑き物が落ちたような晴れ晴れとした表情で、暖かな日差しの中で生きてきた人間の笑みだ、とゼロに思わせる程度には眩しいものだった。日陰で隠れるように生きてきたゼロには、とても浮かべる事の出来ない表情だ。
 だがゼロは知っている。眩い笑顔の下に隠した底なしの闇を。そして、ツバキもまた地を這うような日々を送っていたことを。
 だからこそゼロは、今ツバキが浮かべている本物の笑みが貴重で尊くて、眩しいのだ。闇の中にあってなお、光放つ存在になりえるツバキが愛おしいのだ。彼が常にこんな風に笑えるようになれば、きっとゼロの世界も光に侵食されていくのだろう。そんな予感に背筋をぞくりとした感覚が走り抜けていった。
(俺の中がこいつで満たされるのは、悪くない)
 ゼロがそんなことを考えているなど、きっとツバキは知らないだろう。知らなくていい。ツバキはただ、ゼロに甘やかされていればいい。それで少しでもツバキが完璧でない己をゼロに見せることが出来るようになるなら、ゼロの虚ろな心も満たされるのだろう。
「いいよ、俺のことその気にさせたらゼロの好きなようにさせてあげるよー」
「その言葉、確かに聞いたからな?」
「完璧な俺に二言はないよー?」
「上等だ」
 ふふん、と笑うツバキはいつもよりも挑戦的で、そして楽しそうに見えた。それだけのことが嬉しく感じ、ゼロも珍しく穏やかな笑みを浮かべる。

 取り巻く環境も、与えられた苦しみも、今へ至る道のりも、二人が生きてきた道は全く違っていた。そこには天と地ほどの差があり、平行線を辿る道が交わることは一生ありえないはずだった。だがいつからかその道は歪み、今、二人の前で奇妙な縁で絡み合っている。
 ゼロは不意に、哀れな子どもの姿を思い出した。
 親を憎み、環境を恨み、世界を疎んでいたその子どもは、生きるために心を歪ませ、その歪みを傷として心に宿していた。それはふとした瞬間に痛みを訴えて、過去へと記憶を引き戻す厄介な存在であった。
 だがおそらく、その傷がなければゼロがツバキに執着することもなかったのだろう。今のように心から満ち足りた感覚を覚えることもなかったかもしれない。
 ――だとしたら、たとえそれが悪夢であったとしても。

(…無駄じゃなかったか、歪みながらも必死に生きてきた俺のあの日々は)

 そう思った時、よかった、と幼い頃のゼロが小さく笑った声が聞こえた気がした。



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