砂上の月 2


 砂漠の朝は早い。
 周囲を取り囲む山々がないために、砂の地平線から顔を覗かせた太陽が姿を現すのも早かった。日差しは時が進むごとにその熱さを強め、砂漠を人が暮らすに困難な熱帯へと変えていく。

 アレスは傭兵になってから、早い時間に目を覚ますのが習慣となってしまっていた。休暇なのだからゆっくりしようと思っているのだが、すっかり傭兵気質に出来上がってしまっているようだ、いつもと同じ時間に目が覚める。
 むくりと起き上がって、それでも少し起きたては弱いのか目を半開きにしていた。

「………いつもより、十分に寝た気がしないな」

 ――それでも、いつも通り起きてしまったけれど。
 差し込む光にぼんやりと視線をやり、ふぅと息をつく。それから覚醒を促すように二三度頭を左右に振ってから、ゆっくりと立ち上がった。

「昨日の夜面倒なことをしたからだ……くそ」

 小さく舌打ちをし、昨晩を思い出す。
 随分と後味の悪い人助けだった。一つの強大な恨み以外は大抵一晩で忘れることにしているのだが、どうにも今回はまだ忘れることが出来ていない。今でも思い出すとふつふつと怒りが湧いてくるようだった。
 だから睡眠もどことなくすっきりしないのだろうと、確かな理由もなく思った。結局名前さえも知らない相手だ、すぐに忘れてすっきりとしてしまえば良いものを、あの時の男の声と表情とが脳裏から消えてくれない。
 アレスに負けじと劣らず整った容姿や、長くのばされた緑の黒髪など、視覚的に捕らえられる部分は印象深い。悪く言えば、どこか含みのある言い回しややや不遜な態度などが、なんとなく面白くなくて記憶に残っている。

「……くそ、思い出したらまた腹が立ってきた……」

 己がここまで執着するとは珍しい、と思いながらも、どうにも不愉快な苛々を抑えきれずに、アレスは眉根を寄せてため息をついた。





 午前中、アレスは宿の裏庭を借りて剣の素振りをした。休暇で訪れているとはいえ、一日訓練を欠かしただけでも筋肉は衰えていくのだ。筋肉にこだわるわけではなかったが、その怠けが戦場で己の命を危険にさらすことになるかもしれない。だからこれまで、一日たりとて鍛錬を欠かしたことはなかった。
 それに元々身体を動かすのが嫌いではないし、なにより身体を動かしている間は、他の事を考えずにそれに打ち込むことが出来る。昨日の出来事に心乱されているアレスにとっては、精神集中出来る恰好の時間であった。
 鍛練中、無心の中にもアレスが思う事は一つだ。

(強く……もっと強くなる。そしていつか両親の仇をこの手で……)

 強くなる。誰よりも強くなって、憎むべき相手を切り伏せる。それが今のアレスの目標だった。アレスという存在意義そのものだった。
 誰にも負けない。そういった意味で、傭兵稼業は自分の実力を試す絶好の舞台であるとも言える。アレス程名が通ってくると、腕試しにと戦いを挑んでくる者も少なくない。その戦いの中で、アレスは自分の実力と、精進不足とを実感する。そうしてまた強くなろうと鍛練を繰り返すのだ。

(……それが俺の、生きる意味だ)

 僅かに覚えた心の痛みを振り払い、アレスはただ無心に剣を振り続けた。





 鍛錬を終えた後は、薄布を羽織り町の中央へと繰り出した。
 流石に昼間はフードをしていないと体から水分が奪われてしまう。それは他の人も同じで、道行く人の顔はあまり見えなかったが、一般人に気配をなじませているアレスに変な視線を向ける者はいないようだった。
 とりあえず軽く昼食だけでも済ませておくか、とアレスが思い立ち、入った一番近くの店は、偶然にも昨日入りそこなった酒場だった。酒場と言っても昼は普通に食事も提供しており、内装も洒落た感じではなく、雑然としていた。昼間だというのに沢山の人が机を占領しており、なんとか一つ空いた席を見つけてアレスは座った。
 まず運ばれてきた水を口にしてようやく落ち着いたアレスは、ぐるりと店内を見回した。そして不意に、く、と眉をしかめた。昼間から酒に酔ったような連中が、なにやら下卑た話でもしているのか、声を小さく囁き合っている姿を見たからだ。
 昨日の連中を見たからだろうか、男が二人きりで座ってやけに耳元に口を近づけて話しているのを見て、それらの関係を疑ってしまったのだ。おそらく昨日の男たちがあの男をここで引っかけたのだとしたら、一人ぐらいはそんなのがいるのではないだろうか、とそこまで考えてアレスは嘲笑の笑みを浮かべる。

(くだらない、何を考えているんだ俺は……そうそういるはずもない)

 大体そんな事を考える事自体がくだらない。興味など一切ないのだから、いつものように切り捨てて忘れてしまえば良い。何故こんなに気にしているのか。それもこれも全部昨日の一連の出来事のせいだ、とそこまで考えて、アレスは不満げに舌打ちをこぼす。

(あぁ、しまった……また思い出してしまった……)

 折角鍛練をして気持ちを落ち着けたところだったのに、と自分の思考が悪循環になっていると思い、アレスは思わず頭を抱える。
 とにかく、腹が立つのはきっと空腹だからだ、と理由を別に置き換えて、アレスはメニューを眺めながら、ぼんやりと周りの会話に耳を傾けていた。特に為になる情報があるわけではないが、嘘も真も含んだ様々な噂話の中には時々アレスの気を引くものもある。
 今話されているのは、例えばイード砂漠を根城にしている強盗団の話だとか、最近この近辺で子供が何人か行方不明になっているだとか、そんな話だ。
 もっと他に何か面白そうな情報はないだろうか、と考えていると、椅子に誰かががたりとぶつかった。はっと注意を引かれて、椅子を引きながらちらりと視線をそちらへ寄こした途端、アレスは思い切り表情を嫌悪に歪めた。

「――昨日は邪魔が入っちまったからなぁ兄さん、今日こそ遊んでくれよ?」
「昼間から堂々とした誘い方だな……それでは女性は落ちんだろう」
「別に女が落ちなくても、あんたが落ちればそれでいいんだぜ」

 アレスが振り返った先のすぐ後ろの机に座り、食事をとっていたのは二人の男だった。そしてそのどちらもにアレスは見覚えがある。今朝から幾度となく思い出している顔――昨日の長髪の男と、その男を取り押さえていた男だった。
 男は執拗に長髪の男の肩を抱き寄せたり、手を握りこんだりとスキンシップを繰り返し、下卑た笑みを浮かべている。話を聞く限りでは、男は性懲りもせず長髪の男を誘っているらしい。その表情と、いやらしく動く指先の動きを直視してしまい、正直、吐き気がした。思った以上に自分は潔癖だったようだとその時ようやく気が付く。
 長髪の男の方は、といえば、深々とフードをかぶってはいるが、どこか飄々とした態度で相手の男をかわしている。
 ――まさか昨日の今日、同じ酒場で、同じ相手の、同じような状況に出会うとは思わなかった――アレスは舌打ちをしたいのをこらえて、代わりに大きくため息をついた。そのままの勢いで、関わりあいになりたくないと思う心を差し置いて、アレスは男に声をかける。

「――おい」
「なんだよ、邪魔すんじゃねぇ」
「邪魔をするつもりは一切ないが、俺の視界に入らない処でやれ」
「あぁん?何様の……」

 くるりと振り返った男は、フード下のアレスの顔を見てひっと息を呑んだ。長髪の男も視線を向け、少し驚いたといった風に軽く目を見張る。その態度に、何に対してかはわからないが苛つきを覚えた。いや、おそらくは。

 ――人の忠告も聞かず、またこの有様か。

「お、お前は昨日の黒騎士……!!」
「……黒騎士?」

 その名を聞いて、長髪の男がぴくりと片眉を上げた。どうやら名前ぐらいは知っていたらしい。それにほんのわずかだけ溜飲を下げつつ、それでも治まらない不愉快さを隠さずに吐き捨てる。

「他人の趣味も行動もとやかく言うつもりはないが、昼間から、あまりに大っぴらにされると迷惑だ。俺のいないところで好き勝手やってくれ」

 とりあえず、不快な男に対して冷めた視線を送ると、男はそれをアレスの殺気だとでも思ったのか、う、と小さく声をこぼした。そして戸惑うように視線を泳がせて、一度長髪の男に名残惜しそうに視線を向けてから、慌てたように店を出て行った。おそらくアレスがまた、この長髪の男の助けに入ったと思ったのだろう。
 そんなつもりは一切なかったが、下卑た男が去っていく姿を清々した気分で見送り、アレスは今一度ため息をつく。それから、昨日と同じように何事もなかったかのように椅子に座ったままの長髪の男に、軽蔑の視線を投げかけた。

「お前、昨日の忠告を聞いていなかったみたいだな」
「……」

 問い詰めるような言葉に、しかしすぐに返事がなかった。返事どころか、男はぴくりとも動く気配がない。ただ何か考えるようにじっとアレスの事を見つめ続けている。

「……おい」
「……あ、」

 少し強めに声をかけると、ようやくはっとしたように男が身じろいだ。

「人の事を見ながら人の話を無視するとは随分失礼だとは思わないか?」
「あぁ、悪い、少し考え事を……えぇと、なんだった?」

 この距離で本当に聞こえていなかったらしい。

「人の忠告を聞かずにこの有様か、と聞いている」
「あぁそのことか……忠告はちゃんと聞いた、従わなかっただけでな」
「なっ……」
「だが今回は助かった、ありがとう」

 そう言うと、男はアレスに向かって笑みを浮かべた。その笑みに、アレスは一瞬戸惑う。
 本当は男の態度に対し怒りをあらわにしようとしていたのだが、それを見たアレスは、自分でも知らず言葉を呑みこんでいた。おそらく、昨日と全く雰囲気が違って見えたからだ、とは後になって思ったことだ。昨日の様に挑発的でも不遜でもなく穏やかに微笑んで見せた表情に、アレスは言葉を失ったのだ。
 アレスは自分が軽蔑の視線を向けていた事も忘れて、思わず視線を逸らした。そのアレスに気付かず、長髪の男は続ける。

「どうせ今日はもう帰るつもりでいたんだ、ここではもう情報は得られそうになかったしな。そうしたらあの男に絡まれて、面倒だと思っていたところだ。だから助かった、すまない」
「……何の情報を得るつもりだった」

 戸惑いを隠すように問うと、長髪の男は少し躊躇してから口を開く。

「……イザークより失われし、神剣バルムンクの行方だ」

 言い渋るかと思っていたが、意外にもあっさりと男は己の探しているものの情報を漏らした。アレスが音に聞く黒騎士であると知り、多彩な情報に通じており、何か情報を手に入れられるかもしれないと踏んでのことだろうか。

(だが……バルムンクだと?確かに何年も前から行方がわからなくなり、その後どうなったか聞いた事はないが……)

「……その顔を見るとお前も何も知らないと見えるな」
「どの顔だ」
「その顔だ。いや、知らないならいい」

 無知を笑われたような気出して、アレスは若干怒りを湧きあがらせる。しかし男はそれに気がつかず、ふと思い出したように尋ねてくる。

「それより、お前は本当にあの……黒騎士、アレス、なのか?」
「だったらどうだというんだ。今更態度でも改める気になったか?」
「いや……」

 昨日の夜と違い、何か歯切れの悪い物言いだった。ただ、それはアレスの名に恐怖しているからではなく、何かに戸惑っているかのような印象を受けた。アレスははっきりしない物事が嫌いだ。男の態度も、だから少し気に障った。

「何か言いたいことがあるなら……」
「いや、なんでもない。すまない、邪魔をしたな」

 口早にそう言った男は、がたりと席を立った。見れば男はすでに食事を終えており、どうやら帰るのだろうと言う事が見てとれる。

「おい」
「……なんだ?」

 足を止め振り返った男に不審そうに問われて、アレスははっとする。

(今……俺が呼び止めた、のか?)

 どうやら無意識の内に声を発していたようだった。
 ――なぜ、呼びとめたのだろう。苛つく相手がいなくなるつもりなら、それを喜ばしく見送るのが常のはずだ。疑問に思われても仕方のない行動だった、と自分でも感じる。自分の行動が理解出来ずにいると、あぁ、と長髪の男は思い出したように頷く。

「そういえば……飯はまだのようだな。二度も世話になったことだし、お前の分も払っておこうか。なんでも好きなものを注文していいぞ」
「……なに?」
「これで貸しをなかったことにしてもらいたい」

 そうそう苛々した表情で見られ続けても困るからな、と実際困ったようにつぶやく男の言葉に、またまたアレスはむっとする。
 ―――一体苛々している原因は何だと思っているんだ。
 ただ、ここでそうやって怒りを露わにすれば男の言っている通りになると思ったアレスは、その腹いせに店員に声をかけ、普段はあまり気にしない値段をメニューで確認しながら、なるべく高価なものをいくつか注文してやった。ただそれだけではそれほど高い買い物にはならなかったため、酒を瓶ごと一本注文して、メニューを閉じた。
 我ながら子供じみた、意地の悪い事だとも思う。元々金には不自由していないため、奢りだからと高い物を食べたかったわけではない。そんな高価なものは払えない、と男を困らせる事が目的であり、最終的な支払いは自分で行うつもりだった。
 豪勢な方だ、と店員がしずしずと厨房の方へ戻って行くのを見てから、アレスは男の様子を窺った。案の定、というか計画通り、というのか、男はメニューに記載された金額を計算し、頼んだ酒の値段を見て、やや困ったように眉根を寄せていた。
 その様子を見ただけで、胸がすっとする想いだ。

「……悪いが……まさかこんなに頼むとは思わず、少々、というのかだいぶ持ち合わせが足りない。私も旅の途中で宿へ戻ったとしてもあまり多くを持ち合わせていないんだが……」

 非は多分にアレスにあるのだが、それでも自分から言い出した手前困ったように視線を泳がせる男に、アレスは内心で愉しげに笑う。

「フン、俺の忠告を聞かないからだ。軽はずみな事をするなと昨日言ったのにな」
「……そうだったな、お前の忠告は正しい」
「金はいい。俺が払う」

 とりあえず言いたい事を優位な立場で言う事が出来て、アレスは満足して懐から金を取り出す。注文した分には十分な額だ。定住する家を持たぬアレスは、持ち歩く金も多かった。
 その手早さを見て男は、あぁそういうことか、とアレスの行動の意味を理解したらしく、苦虫を噛み潰したような顔を浮かべている。その後、考えるように視線を泳がせてから、提案してくる。

「しかし一度は払うと言った手前……やはりこのままでは気が治まらない。金の代わりに何か手伝える事はないか。普段なら砂漠の横断の護衛なども引き受けるところだが、黒騎士とあっては護衛など必要ないだろうから……」
「護衛?お前が?」

 その華奢な身体からはどう見ても厳しい護衛の任が務まるとは思えなかった。アレスが怪訝そうに見ていると、男は、これでも腕は立つ方だが、と誇るでもなくつぶやいた。そういえば昨日も、腕に覚えがないかどうかは別だ、と言っていたことを思い出す。
 アレスは己の中に湧いた興味のままに、男に提案する。

「そこまで言うなら、この後手合わせでもしてもらおうか。それで金の件は無かった事にしてやるよ」
「手合わせ……?あぁ、それなら私でも出来るな」

 ほっとしたように笑う男の表情は、どこか楽しそうだ。むしろ、一瞬瞳が鋭い輝きを宿したようにも見えた。
 普通、黒騎士との手合わせなど、傭兵達の中でも敬遠されるものだ。アレスはあまり手加減というものが上手くない。手合わせの為の試合は、それこそ下手をすると死合いになってしまう。
 それを知らぬからこその、楽しそうな表情なのか。あるいはアレスに挑んでくる奴らのように、ただ強い相手と戦いたいだけなのか。

(……案外馬鹿なのか?)

 そう思いながら、男との手合わせを頭の中で考える。
 相手がどんなスタイルで戦うのかは、得物を構えているわけでもない今ではわからないが、長い艶髪から覗く首筋に、妖しく輝くミストルティンを突き付けた瞬間を思い描く。その顔に疲労と悔しさ、敗北をうかばせている様を想像し、ぞくりとした高揚感に包まれた。

(……悪くない。その冷静に取り澄ました面を、敗北で歪ませてやる)

 願わくは男の実力が想像以上の物であってほしい、と傭兵としての血が騒ぐ。そうでなければ折角の勝利も味気ない物になってしまう。

「いつにする?」
「お前の準備が整うなら今日だ」
「わかった、日ののぼっている内は少々暑くて動きづらい。3時間後ぐらいに……そうだな、少し町長に相談して広めの屋根のある建物を貸してもらおうか。そこでいいか?」

 こくりと頷くと男は、その旨を伝えてくるからここで待っていてくれ、と今度こそ出口の方へと向かおうとした。

「逃げるなよ」
「大丈夫だ。心配なら宿の名を告げておこうか」

 挑発的に笑う男からは逃亡の心配は微塵も感じられず、いやいい、とアレスは首を振った。それにたとえ宿の名を聞いたところで、早々に逃げられてしまえば意味がない。
 そう思っているのが伝わったのか、その信頼には答えるさ、と言って男は店を出て行った。それを見計らったように、店員が料理を運んでくる。

(あの男は逃げない……そういう性格だ)

 アレスにからかわれてもなお借りを返そうとした男の言動を思い出し、アレスはあの男が再び戻ってくる事を疑わなかった。言動には苛つかされるし、取り澄ました態度は気に食わないが、卑怯な男には見えなかった。
 ――さて、どうやって戦ってやろうか。
 久しぶりに白熱した試合が楽しめれば良いが、とアレスは運ばれてきた料理を口にしながら、数時間後の事に想いを馳せていた。

 ちなみに、戦う前に酒に手を付けることも出来ず、購入した酒はそのまま宿の冷暗所に保管されることになった。





 砂漠のど真ん中の街では、人々が喜び勇んでみるような見世物は滅多にない。時折旅の雑技団や吟遊詩人が通りかかることはあったが、それも稀な話だ。
 そのためか、アレス達の会話を聞いていた店の中の人々は、暇つぶしにとその手合わせを観戦するつもりでいたようだった。気がつけば、長髪の男が借りた広間はかなりの見物客に囲まれていた。
 その中でアレスは銀の剣を片手に、長髪の男と対面している。
 あのうっとおしい邪魔な長髪は戦闘時にはくくるのかと思ったが、重力に任せるままになっていた。手には鉄の剣よりも少し大ぶりの剣を持っており、スタイルとしては剣士のようなものらしい。なるほど、剣士はその技の切れと素早さとを活かして戦うものだ、男が細身なのも納得した。

「……なにやら盛大な事になってしまったようだな」
「人がいようがいまいが構うものか」

 周りを見回して眉根を寄せてみせる男に対し、アレスは冷たく切り捨てる。他人の視線ごときで集中力が途切れるような、そんな生ぬるい鍛練をしているわけではない。むしろ名が通るようになってからは日常茶飯事だ。
 男も、見られながら稽古をするのは慣れている、とつぶやき剣を握りなおす。

「手合わせとは言ったが、勝敗は決めるのか?」
「当然だ。相手に降参と言わせるか、相手の急所に武器を突き付けた時点で勝利だ」
「妥当だな。……ところで、あの剣は使わないのか」

 男はちらりと視線をアレスの持つ銀の剣に向けながら、疑問を投げかけてくる。あの、というのはミストルティンの事であろう。

「使ってもいいのか。勝負にならないぞ」
「それはやってみなければわからないだろう?それにどうせなら――伝説の武器を拝んでみたいものだ」
「そういえば、お前はバルムンクを探していると言っていたな。何のためにだ?」
「使えずとも一度は見て見たいと思うのが、剣士の性でな」

 ミストルティンに対し恐れた様子を見せずに語りかけてくる男は、本当に自信があるのか、ただミストルティンを拝みたいだけなのか、馬鹿なのか、アレスには判断がつかなかった。
 だが、相手からの要望があったとあればアレスもそれに答えないわけにはいかない。どうせ見物している一般市民には、これがあのミストルティンであると判別もつかないだろう。
 持っていた銀の剣を鞘にしまい、代わりに壁に立てかけておいたミストルティンをするりと引き抜く。その見事な剣に、観客の中からどよめきが上がった。それがミストルティンと知らずとも、人の目を引き付ける魅力が、この剣には宿っている。
 男からも感嘆の息が漏れる。

「それが……はじめて見たが、素晴らしい剣だ」
「武器の性能差で負けた、などと後から言うなよ」
「それなら初めから見せろとは言わん」
「ならいい。しかしお前の剣など簡単に折れそうだな」
「それは怖いな。無名とはいえ愛着のある剣だ、正面から受け止めるのはやめにする」

 男は手にした剣を大事そうに一撫でした。丁寧に手入れされているのか、その剣は刃こぼれ一つしていない。それを見るだけで、男はなかなか腕が立つのかもしれない、と少し期待した。己の武器を大切に扱う者に弱い者はいないと、今までの経験からわかっていたからだ。

「……あぁ、そういえばすっかり忘れていたのだが、お前は騎士だったな。馬を駆るのだろう?このような室内での戦闘形式で良かっただろうか」
「馬上でしか戦えないわけじゃない。歩兵としても鍛練はしている」
「ならば良い」
「相手の心配より自分の心配をしたらどうだ」

 死合いにならない事を祈っておくんだな、と心の中で呟くと、まるでそれを読んだかのように男は、死ぬ前には降参するさ、と言う。この男、どこまでが本気で、どこからが偶然なのか――底が見えぬ感覚に、アレスの中に微かな苛立ちと試合への興味が湧く。若干、後者の方が強い。
 そんなアレス達の周囲では、観客達が呑気にどちらが勝つかの賭けをし始めている。やれ長髪の色っぽい兄ちゃんが勝つだの、いやあんなひょろっとした野郎よりも金髪の兄ちゃんの方が強いだの、人が目の前にいるにもかかわらず、好き勝手に賭けやら好みやらを話し合っている。そういった――特に後者についての関心が寄せられる事を普段なら厭うアレスだったが、今はそれよりも手合わせだ、と気にならなかった。
 目の前の男も、まるで慣れていると言わんばかりに無視を決め込んでいる。男程の容姿があれば、こんな下卑た会話は日常茶飯事なのかもしれない。あるいは集中を開始しており、周りの声などもはや聞こえていないようにも見えた。

「さて、始めようか」
「――あぁ」

 きら、と男の剣が鋭く輝く。その瞳には、これまでに見た事のないような強烈な光が宿っているように見えた。この男も、アレスと同じようにこの戦いに胸躍らせているのだ――そう考えたアレスの体は喜びに震えた。何故か、この男を目の前にするとアレスの聖痕がうずくのだ。今思えば、男に対して常に苛立ちを覚えていたのは、この奇妙な感覚のせいなのかもしれない。
 アレスのミストルティンもまた、輝きを放っているが、その光はどこか禍々しい。これまでに大量の人間の血を吸っているからか、目前の男の血を欲しているからか――。
 空気が変わったのがわかったのか、取り巻くギャラリーもぴたりと口を閉じた。そしてどうなるのかを固唾をのんで見守っている。

 先に動いたのは男の方だった。
 動いた、かと思った次の瞬間には、すでにアレスの間合いまで入り込んできている。残像のように男の黒髪が宙を彷徨う。

(早い!!)

 アレスは瞬時にミストルティンを持つ手に力を入れ、その剣撃を受け止めた。金属音が響き、アレスの腕に負担がかかる。想像以上に重いその衝撃に、男がただ技と速さのみの剣士ではないことがわかった。あと一秒でも反応が遅ければ、その一撃で急所に剣を突き付けられていただろう、その速さと正確さにアレスは舌を巻く。

(だがこの程度の力なら押し返せる――!)

 力を更に込め、男の剣を振り払おうとすると、男の口がひらかれた。

「良い反応速度だ」

 ――流石音に名高い黒騎士。
 周りには聞こえぬよう、音を乗せずに囁いた男は、すぐさまアレスから距離を置く。そのあたりは剣士の戦い方らしかった。力では押し負けると理解しているのだろう。判断力も悪くない。
 間が開いたのをこれ幸いと、アレスが男の動きを冷静に解析しようとすると、その暇さえ与えぬといったように男が再び踏み込んでくる。その為アレスは思考を放棄せざるを得なかった。
 ギン、ギィンと鈍い音が何度も二人の間で生まれては消える。

(これは……この男、強い!)

 男と剣を合わせるたび聖痕がじくりと疼き、危機感と、高揚感と、期待心とが交じり合ったような奇妙な感覚が湧き上がる。
 口だけで実力が伴っていないだろうと、男のことを侮っていた自分自身を叱咤するとともに、男に対し嫌味ではなく謝罪したいと思った。いくら機嫌が悪かったとはいえ、人を見た眼で判断するという愚かな行動をとった自分に腹が立つほどだ。
 知らず、アレスの口元に笑みが浮かぶ。酒場での想像を現実に起こす事を考え、ぞくりと肌を粟立たせた。

「やられてばかりと思うな……!」

 何度か打ちあい、男が間合いを取った隙を狙って今度はこちらから、男の懐へと潜り込む。だが男はそれに素早く応対し、すぐにミストルティンを弾くと再び距離を置いた。その間、男もどことなく楽しげにしており、それが更にアレスの戦闘意欲を掻き立てる。
 戦闘狂ではないが、やはり強い相手と戦うのは楽しい――。
 体の奥から湧き上がってくる好戦的な衝動が、アレスの身体全体を支配していた。

 開始からどれぐらい攻防を繰り返しただろうか。
 斬りかかっては間を置き、速さで翻弄していた男のスタミナが、少しずつ減り始めているのがわかった。同じく、アレスもまた男の素早い動きを追う為に、随分と神経をすり減らし集中力が欠けてきている。
 それでも、こんなにも楽しい戦いは久しぶりだと興奮は治まらなかった。男の長い髪が踊るたび、それをとっ捕まえてやりたくなる。男が離れる度、逃がすものかと果てまでも追いかけてやろうという気になる。
 もはやアレスが初期に感じていた男へのいら立ちや侮りは、形を失っていた。あるのはただ、強い男への純粋な興味だけだ。

(この男、何者だ……)

 決着のつかない長い戦いの中で、アレスの判断力も欠けてきており、あまり冷静な判断が出来ない。長期戦になり飽きてきた観客達からも、やれもっとやれだのそこだいけだの、最初と比べると野次も多く飛ぶようになっていた。
 その点では、集中力を欠いたアレスの方がその声には惑わされている。あまり良くない傾向だった。普段ならば集中力が途切れるなどあり得ないことなのだが、その点でも男の並みはずれた精神力に敬服の意を表したい。
 そう思いながらも、アレスの口をついて出る言葉は、相手にこちらの疲れを見抜かれまいとする虚勢だった。

「どうした、息が上がっているぞ」
「そっちこそ、集中力が切れかけているのではないか?」

 図星を突かれ、一瞬、気を逸らしてしまった。男はその隙を逃さず、すかさず飛び込んでくる。ますます早くなっているような気がしたのは、蓄積された疲れによるものだったのかもしれない。

「っ!!」

 ――これはやられる。
 瞬時にそう察知したアレスの本能が、反射的に腕を動かした。普段ならそんな勘に任せるような行動はあり得ないが、よほど余裕がなくなっていたのだろう。
 気づいた時には、がむしゃらに振ったミストルティンが男の顔面に向かって振り下ろされていた。自分の意志ではもはや止められそうにない、生存本能に従った必殺の一撃だ。

(まずい……っ)

 ――殺してしまう!!!
 悲鳴のような叫びと同時に、アレスの頭の中に男を切り裂く映像が映った。それは最悪の事態だった。その恐怖に神経も感覚も麻痺したかのような感覚に陥ったが、実際にはアレスの腕は、魔剣は、まっすぐに男に向かって振り下ろされ続けている。目いっぱい見開いたアレスの視界の中で、男の表情も驚愕で固まっていた。

(くっ……!!)

 アレスは不覚にも、結果を見ることなく目を瞑ってしまった。
 今まで何百という人間を屠ってきて、今更、人を斬るのが怖いのではない。ただ、ミストルティンが男の顔面を切り裂く様子など見たくなかったのだ。そう思った明確な理由はわからないが、もはやそれぐらいしか今のアレスに出来る抵抗はなかった。

 やがて肉を断つ感覚――。

「……、………?」

 しかし、いつまでたっても恐れていたその感覚が訪れることはなかった。
 恐る恐る目を開けてみると、そこには頬に一線の傷を負っただけの男が、それでも顔から血の気を引かせて立っていた。距離が僅かにミストルティンの間合いから離れており、ぎりぎりの瞬間で一歩後ろへ飛びのいたようだ。

(避け、た……の、か……)

 どっと疲労感と安堵感が入り混じり、アレスの血の気も今更ながら引いていく。ミストルティンを持った手が冷汗で湿り、微かに剣先も震えていた。こんなことは初めてだ。いや、ひょっとするともっと幼い頃にはあったのかもしれないが、少なくとも記憶にある中では初めてだった。
 こんな――。

(自分の力不足で相手を殺しかけて、それを恐れるなんて……)

 考えるアレスの視界で、呪縛が解けたように男がゆらりと動いた。男は明らかに先ほどまでとは異なった緩慢な動きで――それでも通常から見れば随分な速度に見えただろう――アレスに斬りかかってくる。
 アレスも我に返りミストルティンを握る手にもう一度力を込める。そして体勢を整えたところで、男の動きに隙があるのを見つけた。それを見逃さず、大振りに降りかかってくる男の剣を身体を右に逸らす事でかわし、そのままミストルティンを男の首元へと突き付けた。
 男の動きが、止まった。

「――私の、負けのようだな」

 剣を振りおろした姿のまま、男が小さくつぶやく。
 途端に緊張に包まれていた室内がどっと歓声に包まれた。男が勝つと賭けていた者からは落胆の声が上がり、アレスの勝利に賭けていた者からは盛大な拍手や指笛が飛ぶ。
 男はミストルティンの剣先から逃げるように一歩下がりながら、流石だな、とアレスを称え、剣を鞘にしまい込んだ。そして男が一礼をする間も、アレスはまだ、どこか茫然として動く事が出来なかった。
 アレスがはっとしたのは、男が頬の傷から垂れてきていた血をぬぐい、それを舌で舐めとる姿を見た時だった。やけにぞっとした感覚が背中を走り、どくりと心臓が脈打つ音で体の自由が利くようになった。

「……おい」

 ようやくかけた言葉は、その一言だ。もはやアレス達には目もくれず、久しぶりの見世物を見終えてざわざわとする人々の喧騒の中ではかき消えそうなほどの声だった。だが男はしっかりと拾い上げると、なんだ、と軽く首をかしげた。

「あぁ、怪我の事なら気にしなくて良い。私が未熟だっただけだ。あの一撃は実に見事な、」
「違う。お前、最後――わざと隙を作ったな」

 アレスの言葉に男は、なにを言っているんだ、と理解できないように首をかしげて見せる。ぱっと見、本当に何も知らないように見えるが、アレスの確信は揺らがない。
 ――そう、あれはわざとだった。

「最後の一撃だけ、それまでのスタイルと異なって大振りすぎた。力押しの戦い方をしないお前が、何故最後だけあんな行動をした」
「怪我を負わされて頭に血が上っていたんだ、それで」
「そんな男が、あんなに冷静な瞳をして淡々と自分の負けだと告げるのか?」
「……」

 アレスの厳しい追及に対し男はしばらく口をつぐんでいた。しかし、アレスの鋭い視線に射られ続けると、やがてふぅと小さくため息をついて緩く首を振った。

「……真にしろ嘘にしろ、手合わせをするという目的は果たせた。私としてはミストルティンを拝む事も出来た。それでは駄目なのか」
「本気で戦わなければ意味がない……!」
「それまでの戦いで十分にお互いの力量は測れただろう?」

 相手を殺そうとしていたわけでもあるまいし――そう言う男の言葉に、はっとしてアレスの気勢が殺がれる。危うく男を殺しかけた事を思い出したのだ。まさか男がそれを嫌味に言っているわけでもないだろうが、アレスには効果覿面だった。
 そうだ、自分は何を求めていたのだろうか。試合はアレスの勝ちだ。男が卑怯な手を使ったわけでもない。どちらかが死ぬまで続けるわけでもなかったのなら、勝負の落としどころとしては完璧なタイミングだっただろう。

(……だが、あのままいけば、勝っていたのは俺じゃない)

 そう、まるで子ども扱いで勝たせてもらったようで、それが不服だったのだ。
 アレスの沈黙をどうとらえたのか、困ったように眉尻を下げた男は、小さく息を吐く。

「……わかった、確かに最後は……試合を終わらせるためにわざと手を抜いた。それについては謝ろう、すまなかった」
「、……いや、俺の方こそ……」

 そう素直に謝られてしまってはこちらの毒気が抜けてしまう。大体よく考えれば、手を抜かれた事を悔しいと思うならば、怒りの矛先はアレス自身の弱さに向けられるべきであって、男が謝るようなことではない。最初に路地裏で会った時のように、もっと冷たく当たってくれたほうがいっそ楽なのに、と思った。
 そう考えている時のアレスの表情が、また苛ついたものになっていたのだろう。男は困り顔のまま、視線を彷徨わせる。

「……どうしても不服か?気に入らないのなら何か他に出来る事を探すが……」

 ただし今度は昼のように内容を確認せず了承したりはしないがな、と己の失態を思い出して目を細める男の言葉に、アレスは静かに首を振った。

「……別に、もう何もしてくれなくていい」
「……そうか?」
「あぁ。というかお前な、同情だか償いだか哀れみだか知らんがそういうことを易々と言うな。だから俺みたいなのに付け込まれるんだ」
「なんだ、心配してくれているのか」
「はぁ?」

 誰がお前のことなんか、と言いかけたアレスは、ふと言葉を止めて自分の発言を振りかえる。あまりに無防備なことを言うこの男の言葉が気にかかって無意識に発した忠告であったが、言われてみれば確かに心配しているようにも聞こえるのだろう。

(……いや、そんなことあるか、違う)

 むしろ嫌味のつもりだったのだが、そう聞こえてしまったのなら男の受け取り方がおかしいのだ。そんなことを考えていると、男が、それはともかく、と口を開いた。

「やはり黒騎士というのは伊達ではないようだな。正直、これまで戦ってきた相手の中でも群を抜いて強かった。これほど本気で相手と打ち合ったのも久しぶりで――楽しかった」

 そういう男の表情には、アレスへの賛美のほかに喜色が見られた。
 それはアレスも同意見だった。男との手合わせは、勝敗など決めず、ずっと斬り結んでいたいぐらいの高揚感があった。アレスが気を逸らしていなければもう少しあの感覚が味わえていたのだと思うと、あの一瞬の行動を悔やんでも悔いきれない。

「お前には昨日から色々と世話になったな。またいずれどこかで……」
「待て」

 場を終わらせてその場を去ろうとする男を、今度は確かな自分の意思を持って呼び止める。男は不思議そうに振り返った。

「お前――名前は?」

 初歩的な問いに、男は目をすっと細めて口を噤んだ。あまり見た事のない反応に、アレスも眉をしかめた。
 言いたくない、あるいは言えない理由があるのだろうか――心臓を高鳴らせながら男の発言を見守っていると、男は少しだけ困ったように首をかしげて言う。

「私は……オイフェ、という」
「オイフェ……」

 言うなり、男は背を向けてアレスから遠ざかって行く。とりわけおかしな名前ではないと思うのだが、何か思うところがあるのだろう。

(……オイフェ、か……)

 ただ少し、あの男のイメージと違うな、と漠然と思っていた。

 男の姿を見送り、アレスが手にしたミストルティンを鞘へ納めようとすると、その剣先を赤いものが微かに彩っているのが目についた。あの男を誤って斬りつけてしまった時についたものだと気き、指で拭う。そして、そのままその指を口元へと運んだ。ほとんど無意識の行動だった。
 舐めとると、独特の香りが鼻腔に広がり、鉄の味が舌を刺激する。

(……ただの、血だ。他の誰とだって……俺とだって変わらない、人間の血)

 けれど、何故か高価な美酒のように感じられて、アレスはしばらくその味を忘れることが出来なかった。



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