宿に戻ったアレスは、服を脱ぐのもそこそこにぐったりと寝台に身を伏せた。ぼすりと枕に顔をうずめ、大きく一息つく。 ――疲れた。 口には出さないものの、体中のだるさがそれを物語っていた。先刻の戦闘で、素早い男の動きを追うのに神経を使いすぎて、いつもよりも格段に疲れている気がする。これほど疲労した感覚もいつ以来だろうか。 それでも、充実感もいつもより大きいのは確かだった。久しく感じたことのない、実に満ち足りた時間であった。 (あの男……オイフェ、と言ったか。本当に無名の剣士か……?) アレスと互角の戦いをするほどの剣士だ。傭兵稼業に身を置く中で、その名が聞こえてこないのがおかしい程の腕前だった。正直、アレスが今まで戦った誰よりも、剣の腕に関しては抜きん出ているとさえ感じている。だが記憶の中のどこを探ってみてもその名に心当たりがない。するとやはり無名なのか、あるいは人前で剣を振るうことが少ないのか。 (だとしたら、人から見られている状況に慣れていると言ったのもおかしな話だ) なんにせよ、男との戦いでまだまだ力不足だということを思い知らされた。そもそも、あれだけ自然に自分が負けるように流れを作ったのを見ると、男がずっと本気だったのかさえ怪しく思えてくる。その事実に対し湧き上がる感情は、悔しさと――。 (……もう一度、戦いたいな) ごろりと寝返りをうち、木目の天井を見上げながらふとそんなことを思う。言葉にすると余計にその思いが強くなってしまったようで、アレスは目を閉じて衝動をやり過ごす。それでもその衝動を消すことができず、アレスはまぶたの裏にあの男の姿を思い描いていた。 もう一度――あの男が戦う姿を見たい。流れる黒髪と、鋭く相手を射抜くかのような視線、研ぎ澄まされた殺気にも似た闘志。戦っている最中はそこまで余裕がなかったが、今その姿を思い返すと、快楽にも似た悪寒が走る。 あの男の戦う姿は美しい。本物の血なまぐさい戦場でも、きっと人の目を集め、映えるだろう。殺されるならばいっそあの男の美しい剣さばきで切り捨てられたい。そして、斬るならばこの魔剣で――。 (っ、何を考えているんだ俺は!) 途中で思考を取り戻し、アレスはばっと起き上がった。安物のバネがキィと悲鳴を上げる。 (なんだ、この感情は……) どくどくと脈打つ心臓のあたりをぎゅうと握りしめた。これはあまり覚えのない感覚だ。ただ強敵相手に思うような、戦いへの楽しみだけではない。この感情はどちらかと言えば――。 「……馬鹿な、話だ」 つぶやいてもう一度体を伏せた。そのまま目を閉じると、自分で思っていたよりも疲れが溜まっていたのだろう、その後は何を考える間もなく、すぅと眠りへと誘われていった。 +++ ――アレ……ス、 嬌声の合間に己の名を呼ぶ声には、隠しきれない欲の色が混じっている。その声で呼ばれるたび、ひどく心地よく、また堪え難い興奮が掻き立てられる。 (もっと声を……俺の名を呼んでくれ) ――あ、っ……ア、レス、ぁ、ぁあっ…… たまらず腰を突き進めると声がひと際大きくなり、熱に潤む瞳から涙が一筋零れた。 ――話、が……違っ、ん……っ (手を抜いた代わりに、詫びとして何でもしてくれるんだろう?) ――それはっ……こんな、事では…… (そう言いながらも、楽しんでるじゃないか。気持ちよさそうにしている) ――ん、ぁ……ぅ、 頬を朱に染め、こちらを見据える視線さえ、アレスを悦ばせるものでしかない。 堪えるように身体を動かすたび、シーツに広がった黒髪がさらさらと揺れる。それを一房掬い取り、静かに口を付ける。肌になじむ滑らかな感覚がたまらない。 (あぁ、俺はやっぱりこうしたかったのか。この男を――) +++ (………………男?) その違和感に、ば、と目を覚ましたアレスは、差し込んでいた朝日の眩しさに再び目を閉じた。そして、己が今まで夢を見ていたことに気が付いて頭を抱えたくなった。 (なんていう……夢、を) ばくばくと心臓が高鳴っている。あり得ない、おそろしい夢を見たという事と、もっと違う内面から来る熱とがアレスを混乱させている。 (なんて夢だ、なんて夢だ、なんて夢だ……!俺があの男を組み敷いて、それから……!!!) ぎくり、と嫌な予感がして、そっと視線を己の下半身へと向ける。そこで元気に存在を主張するものを見つけてしまい、はぁとため息をついた。 (――疲れてる、疲れてたんだ) でなきゃあの夢を見て、こんなことになるわけがない。そもそもあんな夢を見るわけがないし、ちょっと若さゆえの欲求不満なのだ。大体あのうっとおしい長髪が悪いのだ。ちょっとした勘違いなのだ。 アレスは自分に言い聞かせるようにそんなことをぶつぶつと言いながら、昨日からの汗を流すいい機会だと、部屋に備え付けられている簡素な湯浴み場へと向かった。 湯を浴びることで心も体もすっきりしたアレスがタオルで髪を拭きながら寝台に腰かけていると、不意に外から聞き慣れた声がした。もう幾度耳にしているか知れない、ファルシオンの声だ。普段は何もなければ大人しくしている賢い彼女の声が、アレスを警戒させる。 「……誰かが触れようとしているのか?」 その可能性に思い至り、ぬれた髪もそのままに階段を駆け下り、厩へと急いだ。もし何処かの誰かがファルシオンに何か危害でも加えようものなら、その相手をただで帰すつもりはなかった。危害でなくとも、触れることすら腹立たしかった。 厩に辿り着くと、黒いファルシオンの前に人が一人立っているのが見えた。その手はファルシオンの額へと伸ばされており、柔らかくしなやかな毛並みを優しく撫でているのを見て、まさか、と驚愕する。そして、その人物の顔を見て、さらに驚きを露わにした。 「お前は……!」 「ん?」 アレスの声に振り向いた男の、長い黒髪がさらりと弧を描いた。ファルシオンに触れていたのは、昨日の夜からアレスを悩ませ続けている――オイフェと名乗るあの男だった。 「あぁ、お前は……アレス、だったな。そうか、これはお前の馬か」 「……そうだ」 「賢く美しい馬だな」 ふっと笑って男がファルシオンを撫でているのを、アレスは信じられない思いで見ていた。ファルシオンが他人に易々と触れられているのを、これまでに見た事がない。アレスにすら懐くまでに時間がかかったのだ、それを初対面のこの男に――。 「なんだ、妬いたか」 「なっ……!」 絶句するアレスに苦笑すると、男はもう一度ファルシオンの耳元を優しく撫でてから手を放した。思い切り、人でも殺せそうなほど凶悪な瞳で睨みつけるアレスの視線など全く気にもしておらず、やはり肝が据わっている、とアレスは再度確認させられる。 「たまたま厩の前を通りかかったら、腹が減っているのか、所在なさげにうろうろしていたから気がまぎれるかと相手をしていたんだが、迷惑だったか」 「あ?……あぁ、そういえばいつもより餌の時間が遅れていたな」 「私も珍しく、いつもよりも遅く目が覚めた」 暗に、お前もか、と尋ねられているらしかった。お互い、昨日の手合わせが尾を引いているようだがそれに素直に答えるのが癪で、アレスは男の言葉を無視してファルシオンに触れる。まるで男に触られた部分を自分の熱で上書きするかのように。 「ふっ」 そんなアレスの動作を見て、男は笑った。 「何がおかしい」 「いや、やはり悪いことをしたようだな」 「何がだ」 「無断で触れたことだ。お前がそんな穏やかな瞳を浮かべる大切な相手にな」 男の言葉に、アレスはぴたりと動きを止める。確かに勝手に触られたことに対して不服げな雰囲気を出していたつもりだったが、それを穏やかな瞳だと称されるとは思っていなかった。よほどおめでたい視力をしているのか、あるいはアレスが怒りの気も発せないほどに気を抜いてしまっているのか、どちらであろうか。 (昨日の発言からしても、どうもこいつの頭はおめでたく出来ているようだな) 自分の気が抜けていると認めるのが嫌で、アレスはそう結論付けた。 だが、不思議と相手を見下す感覚はなかった。昨日の手合わせで敵意が昇華されたのか、苛立ちは驚くほどに薄くなっていた。 その心境の変化を冷静に観察するアレスに、男は言葉を続けた。 「……昨日の戦いから考えていたことがある。私は少し、お前のことを誤解していたようだ」 突然のその内容に対し言葉は返さなかったが、ちらりと視線だけを男の方へ向けると、話を聞いてくれる気があるらしいと男は一人で続けた。 「音に聞く黒騎士はもっと冷徹で残忍で、何者にも心を動かさないような……そんな印象を受けていた。だからもっと酷い人間なのかもしれないと思っていたし、こんな風に会話が出来るとも思っていなかった」 「……噂なんてそんなものだ。相手を貶めるためにどんな嘘だって平気で流す」 言い訳のように口を挟んでしまったのは、どうしてだったのかよくわからない。ただ、黒騎士の名が通ってからはとりわけそんな状態ばかりで、噂の一人歩きに辟易していたのかもしれない。 だが男が聞いた噂はあながち嘘でもなかった。アレスが心許す相手などこの世にいない。ただ、アレスの中の生存本能と憎悪のみがアレスの心を揺さぶるのだ。 「しかし今彼女の相手をしていて、彼女は十分な愛を受けて育ったのだろうとわかった。主人以外には警戒し、賢く、体つきも毛並みも申し分ない。それにお前も、彼女も、本当に優しい瞳をしていた」 「……優しいだと?」 その単語に反応して、アレスは男を睨みつけた。そんな単語をかけられるのは心外だった。優しい、などという言葉はまるで己の中の憎悪を薄れさせてしまうようで、不要なものでしかなかった。 アレスの不快そうな態度に、男は口をつぐんだ。そして、ふっと視線を逸らしながら、また躊躇いがちに口を開く。 「……お前はなぜ傭兵に?」 「……それしか生きていく術がなかったからだ」 そんなことお前には関係ないだろう、と答えるつもりだったが、口から出たのはそんな言葉だった。しかし、それが事実だ。 父を失い、母をも失い、残されたのは幾人の血を吸ったかもしれない魔剣だけだった。アレスの憎悪を糧にするように、ミストルティンはアレスに膨大な力を貸し与えてくれる。その剣を使って出来ることなど多くはない。そして、たまたまアレスのことを拾ってくれたのが傭兵という職種の男だっただけの話だ。 「それに、仇に会う確率も高い」 「仇?」 「そうだ、父上の……そして母上の、仇」 ぐ、と手に力がこもる。その力強さに、まだこの怒りを忘れていないことを再確認し安心した。これを失ってしまえば、アレスに残るものはなにも――ない。 「……殺されたのか?」 「そうだ」 アレスの言葉を聞いた男は、なにか思うようにしばらく沈黙していた。アレスにかける言葉を探しているような態度に、下手な慰めなどは聞きたくないとアレスは話題の転換を図る。 「俺のことよりお前はどうなんだ」 「私?」 「そうだ、お前ほどの腕の持ち主が無名であるはずがない」 「褒めてもらえるのはありがたいが、私はただ大切なものが守れるだけの力があればそれでいい。名を馳せるだとか、名声に興味はないんだ」 あれだけの実力を持ちながらもったいないことだ、とアレスは思う。そして同時に、今まで周りにいなかった考え方の持ち主だと改めて思わされる。 守るための力とは、屠るための力を蓄えてきたアレスとは正反対だ。守りたいものなどアレスにはない。ただ、両親の無念を晴らすことが、母親との約束とも呼べぬ呪詛を守っていることになるのかもしれない。 「……お前はもっと自分の力を過信して、人を下に見る最低な奴だと思っていた」 思わず口を滑らせると、男は一度軽く目を開いた。それから、苦笑する。 「それはすまなかった。情報を仕入れるためとはいえ、あんな状況になったことをあまり深入りされたくなくて、お前には冷たい物言いをした」 あんな、とは男に絡まれたことを言うのだろう。あれは決して本意ではなかったのだと言われたらしかった。 思い出したように、男は自分の腕をさすった。 「知りたい事を教えてやるからとべたべたと無遠慮に触ってくるあいつらが気持ち悪くてな……機嫌も悪かった。私がなぜあの男達に連れられて外に出たかわかるか?しつこく言い寄ってくるあいつらを、路地裏でなら多少ひどい目に合わせても周りにバレないと思ったからだ」 「まさかわざとか?」 「そうだ、なかなかうまく演技出来ていただろう。そこであいつらを相手にしようとしていたら……まぁ、あとはお前も良く知っているだろう。正直また面倒そうな奴に絡まれたものだと思って、機嫌が悪かったのもあって、お前に冷たく当たってしまった。悪かった」 「っ、いや……」 素直に謝られると、アレスの方も罪悪感が湧く。 今にして思えば、あの時の男の態度を理解してやれる気がしていた。アレスだって、見ず知らずの相手に振りまくような愛想は持っていない。あの路地裏での男のような立場になったとして、自分でカタをつけるつもりでいたのなら助けなど余計だと考えたかもしれなかった。それをアレスが助けてやったのになんだその態度はと勝手に不機嫌になったのだ。 「俺の方こそ……少し苛立っていたんだ」 言うと、男はそうか同じだなと笑うだけだった。その余裕さが腹立たしかったが、許しを得たようで不思議と穏やかな気持ちにもなった。それに、路地裏で相手を倒してやろうという、男の子供っぽさを垣間見て、まるであの夜の鋭利な月のように、遥か遠くで冷たく見下ろすだけの存在ではないと知って少し親しみも湧いていた。 「……そういえば、何故ここに?」 「私もこの宿に泊まっているんだ」 「そう、だったのか」 「あぁ、この街に立ち寄る時はいつもここに。お前もここにはよく来るのか?」 「いや……時々、時間がもらえた時に近場を回っている」 そんな話題から始まり、手持無沙汰だったのでファルシオンのブラッシングをしながら、二人でぽつぽつと会話をした。 アレスの何に興味を持ったのかわからないが、いくつか当たり障りのない質問をしてくる男に、アレスも素直に答えを返した。例えば、昨日はあれからどうしたのかとか、ミストルティンは美しかっただとか、あの酒は飲んだのかとか、内容のない雑談のようなものだ。普段であればくだらないと無視してしまうような事ばかりであったが、遠すぎず、近すぎず、適度な距離感で話してくる相手に、知らずアレスは突き放すことを忘れていた。 アレスはファルシオンに視線を向けたまま、男はそれを見ながら話を続けている。 (会話が楽しいのか、馬が好きなのか) 男の方に視線は向けず、その気配を感じ取りながら、そんなことをアレスは考えていた。 どちらにしろ、この場にファルシオンがいてくれて本当に良かったと思う。きっと男と対面で話していたら、ここまで話を続けられなかっただろう。元々、戦いのこと以外で人と話すのは得意ではない――と考えて、アレスはおかしいことに気づく。 (……それの何が良かったんだ?) むしろ、話が続かない事の方がありがたいのではないだろうか。他人に凝視されるなど一人を好むアレスにとってはうっとおしい以外の何物でもない。注目されることには慣れてはいるが、それが好ましいかと聞かれれば否なのだ。だから、話が続かなければ男はこの場から立ち去り、アレスはいつも通りの平穏を手に入れられるだろう。 それなのになぜか、男に見られていても嫌な気がしない。むしろ、馬の相手をしながら返事をするだけのアレスを見ていて、つまらなくないだろうか、ということを気にしている。 (……いや、違う、つまらないと思って早くどこかへ行って欲しいからだ……!) きっとそうだ。そうに違いない、と言い聞かせながら、アレスは黙々と作業を続けた。 ふと、会話が途切れた。ファルシオンの気持ちよさそうな嘶きと、鬣をすく音だけがする。珍しくも穏やかなこの状況は、戦場に身を置くアレスにはめったに体験出来ないものだった。ファルシオンと二人ならばよくある雰囲気だが、そこに赤の他人一人加えてもなお持続できるものであったのか、と驚いてもいる。 (わからない……この気持ちはなんだ) 身に覚えのない感情に、ひどく戸惑っていた。けれど不快ではないのが、また困惑するところだった。 「そういえば……髪がぬれているな」 不意に、アレスの髪を見て気がついたように男が言う。ここに来る直前に湯浴みをしていたのだから、乾いていなくても当然だった。そのようなことを言うと、ちょっと待っていろ、と言い置いて、男は宿の中へと入って行く。しばらくして、手にタオルを持って出てきた。 「放置しては風邪をひくぞ」 言って、男はそのタオルでそっとアレスの髪に触れてくる。あまりに自然な動作だった。 「っ……!!」 思わず、その手をばっと振り払ってしまった。 触れられた瞬間に夢を思い出したのだ。あの、恐ろしくも――艶めかしい、夢を。 振り払われた男ははっとして咄嗟に手を引き寄せ、申し訳なさそうに視線を下げる。 「あ……悪い、ついいつものクセで……いや、弟、のような存在がいて」 無意識の行動だったのだろう、しまった、とやや慌てたように弁論を口にする男に、アレスも、いや、と口ごもる。 「他人に触られるのは……苦手で、」 「あぁ、他人にいきなり触れられれば怒るのは当然だ、悪かった」 「っ、いや、」 怒ったわけではない――と伝えようとしたが、ではなぜ振り払ったのかと考えるとやましさが言葉を詰まらせた。だが、なんとなくだが、男はアレスがそれほど怒っていないということを察してくれたようだ。もう一度すまなかったと謝って、タオルをアレスに差し出しただけで、気を悪くしてその場を去ろうとはしなかった。 それに安心しながらタオルを受け取り、アレスは乱雑にがしがしと頭を拭く。髪が傷むぞ、と男に声をかけられたようだったが、髪ぐらいなんだと聞かなかったふりをした。ある程度水分を吸わせたところで無言でタオルを突きかえすと、男は嫌な顔一つせずにそれを受け取り、また宿の中へ消えていった。 (……変なやつだ) まだ、心臓がどきどきしている。あまりに自然な動作すぎて、自分でやる、と言い出す暇もなかった。 本当に何を考えているかわからない男だった。アレスに優しくして何か見返りでも期待しているのだろうか、とも疑っているが、そんな卑屈そうな男にも見えない。今までアレスの周りにいた金が全ての相手とも違い、その思考が読めなかった。 大体の人間は、アレスが黒騎士であることを知ると下心を持って近づいてくる。そして、冷たくされて離れていく。アレスの友人関係はそれの繰り返しだ。いや、それを友人と呼ばないのならば、アレスには友人などいなかったことになる。 それが、アレスに冷たくあしらわれてもなお気にしていないように話しかけてくる。ただ最初の時に冷たくあしらわれたのはアレスも同じであり、一度手合わせをしたぐらいで絆されようとしているアレスも単純な男だと思われているのかもしれなかった。 (変なのは俺なのか……?) その疑問については、一人では答えを出せそうになかった。 少し時間を置いてから宿から出てきた男は、先ほどと違いフードをかぶっていた。どうやら外出の準備を整えてきたようだ。つい話し込んで時間を取らせてしまってすまなかった、と言った。 「どこへ行くんだ?」 「最後にもう一度あの酒場にでも行って、情報がなければそろそろ街を移ろうと思っている」 その言葉にアレスは胸の痛みを覚えた。別れを惜しんでいるのだ、と気が付いたのは、自分の手が勝手に男の肩に手をかけていた時だった。 「? どうした」 「……何故、剣を探している?」 「言っただろう、剣士の性だと」 「俺のミストルティンでは満足しないのか」 (何を言ってるんだ俺は) 自分の意思と裏腹に勝手に喋り出す己の口を閉じる事も出来ず、アレスは内心で嘲笑した。 どうやら自分は男の気を引きたがっている、らしい。彼がバルムンクよりもミストルティンに気を引かれれば、アレスのことも興味を持ってくれるかもしれない、と期待して今の言葉を言ったのだろう。そう考えるとあまりにも幼稚で笑い出したくなった。 だが現実のアレスは止まらない。男の肩に手をかけたまま、何かを期待するような色を宿した瞳で返事を待っている。 男は少し考えるように沈黙した後、はるか東方に視線を向けた。 「私の祖国はイザークだ」 それが答えだ、というように男は再び口を閉ざした。 ――イザーク王国。 言われてみれば、男は典型的なイザーク人だった。艶のあるしなやかな黒髪は、かの地方に多く見られる特徴的な髪質だ。祖先に遊牧民を持つ彼が馬の扱いに長けていたのにも納得できる。そして今、かの国には国王も神剣もない。 剣士の性、と言っているが、彼は王家に、そして祖国に忠誠を誓う者なのだろう。失われた神剣のありかを探し出し、いつか国に戴く王に差し出すために身を削ってまで探しているのだ。 その瞳は遥か遠くを見ていた。こんなに近くにいるはずのアレスの事さえ見えていないかのように、遠く、アレスには見えないものを見つめている。ミストルティンでは――アレスでは駄目なのだと言われたような気がして、アレスは拳を握った。 (故郷、か……俺にはよくわからないものだ) 相手との決定的な違いを見せつけられた気分になり、アレスは男の肩から手を離した。そもそもが、イザークとグランベルとでは忠誠の在処が違う。男はむしろアレスのことを恨んでいても仕方のない立場に立つ人間なのだ。それを咎められないだけでも幸福なことなのかもしれない。 (俺がイザークの人間だったら、同じものを見る事が出来たんだろうか) 見も知らぬ故郷に執着はない。そこまで自分の事以外に必死になれるものがある男のことが、少し羨ましく感じた。 アレスにこれ以上引き留める気がないことを悟り、男は頭を下げる。 「昨日の手合わせは本当に面白かった。また、今度も戦場でない場所で会えるといいな」 「……俺は戦場で会いたい。そうすれば本気のお前と戦えるんだろ?」 「それはそうかもしれないが……まったく好戦的な奴だ」 だがその好戦的な部分は嫌いではないがな、と呆れたように笑った男は、そのまま通りの向こうへと姿を消した。 その姿が見えなくなるまで見送り、アレスは知らず止めていた息を吐いた。あっけない別れだった、と思ったが、そもそも友人でもない相手との別れなどこんなものだろう。 (今まで何度も繰り返してきた別れだ) 日常で、戦場で、別れは常に唐突だった。それを、こんな風に惜しむなんて馬鹿げている、と思いながらも、アレスはなかなかその虚しさを振り切ることが出来なかった。 そ、と無意識に髪に触れる。まだ、彼が髪に触れた感覚が残っているような気がした。他人に、慈しむように髪の毛を触られたのなんて一体いつ以来だろうか、と遥か遠く霞んでしまった過去がアレスの胸中をよぎった。 (弟……の、ような、か) 思い出すのは男の弁明の言葉だった。その物言いからすると弟ではないらしい。近所に住む子供だろうか。あるいは甥や姪か。そいつにはもっと優しい接し方をしているのだろうか、あの、剣をしなやかに扱う手のひらで優しく頭を撫でて――そんなことを考えていたらなぜか腹立たしくなったが、それを察したように、ぶる、とファルシオンが食事の催促をした。おかげで、はっとしてアレスは我を取り戻す。 (なんにしても、きっともう会うこともないだろう) 親の仇一人にも会えない広い世界だ。探そうと思って探しても、会えない世界なのだ。ましてこの広大な砂漠で再び出会うこともないだろう。 だからもうこの持て余した感情を忘れなければ、と強く言い聞かせながら、アレスはもやもやを振り払うようにファルシオンの食事の準備に取り掛かった。 ――ふと気がつけば、アレスは例の酒場の前に立っていた。 どこかで軽く食事でも、と思って宿を出たところまではしっかりと覚えているが、よりによってどうしてここなんだと頭を抱えている。 (まるで俺があいつを追ってきたみたいじゃないか) そんな悪態をついてみせるが、まるで、などではなく事実追ってきているのだから手に負えない。それをアレスが認めようとしていないだけで、本当に厄介なものだった。 ――だが、どうしてももう一度会いたかった。会ってどうしようということは考えていなかったが、あのまま会えなくなることを考えたら無意識の内にここにいたのだ。本当に自分はどうしてしまったのだろう、といっそ憎らしくさえ思うが、それで殺せるような感情ではなかった。 入口の前でしばらく悩んでいたアレスだったが、仕方なく、覚悟を決めて中に入ると、昼時なのもあって店内はほぼ満席だった。フードをかぶった者も何人か見受けられ、すぐに男の姿を見つけるのは難しそうであった。 「お、昨日の兄ちゃんじゃねぇか!」 人を探すように視線を巡らせていると、そんな声がかけられる。最初は気にも留めなかったが、声が聞こえた方になんとなく目をやるとその男と目があって、自分にかけられた言葉であったことに気がつく。昨日の、というのはあの手合わせを見にきていたのだろう。 アレスと視線が合ったことが嬉しかったのか、すでに出来上がっている男は臆することなくこっちこっちと手招きする。酔っ払いに絡まれるのは御免であり無視を貫こうと思ったが、ちょうどいいと思い直し一つ質問することにした。 「おい、昨日俺と戦っていた男を知らないか」 「んん??あぁ、昨日のあの、きれーな髪した兄ちゃんのことか?」 その発言に少し苛立ちがわいたが、黙って続きを促した。 「それならさっきあっちの隅っこの席にいた……あれ?いないなぁどこ行ったんだ?」 男が顎で指した方を見てみたが、確かにそこは空席になっている。相当に酔っているこの男の見間違いかもしれない、と舌打ちをしかけたところで、隣の席の男が身を乗り出して口を挟んでくる。 「あの兄さんならさっきふらっといなくなったよ」 「なに?」 「入ってきて、席に座って……どれぐらいだったかなぁ、割とすぐだよ、結局なにも頼まずにでていっちまった」 「なぜだ」 「おいおい怖ぇ声出すなよ。俺ぁ本人じゃねぇからわかんねぇよ。ただ、ほら、最近噂になってるー……そう、盗賊団と子供狩りの話をしてたら、盗賊団のアジトの場所を聞いてふらっといなくなっちまったんだ。って、まさかあれ、一人で乗り込んだんじゃねぇだろうな……?」 男の独白は、アレスが思ったことと同じだった。 アレスの嫌な予感はあたる。そんなことあるはずがない、というアレスの期待はいつだって裏切られてきた。だから、まさか、と思った時点でおそらくその想像は当たっているのだ。 アレスはがたりと音を立てて椅子から立ち上がると、そのアジトの場所を聞き、外套を羽織って店の外へ駆け出した。 <<2 4>> |