街の南西の砂漠には大きな自然の岩場があった。何かに大きな力で穿たれたような空洞があき、人が暮らすに十分な広さがある洞窟となっている。 しかし、砂漠を渡るものはそこには滅多に近づこうとはしなかった。なぜなら、そこは盗賊達が組織立ってアジトとしていたり、怪しげな者達が闇の中に蠢いたりしていることが多いからだ。砂漠は可能な限り速やかに抜けるべき魔の領域でもあった。だから普通ならば盗賊のアジトに近づくなどという愚かな行為はありえない。 ――だが。 (あいつが国に、イザークに忠誠を誓っているというのなら、帝国の子供狩りを……それから、帝国自体を心底疎んでいるだろう) イザークの地は一番初めに帝国に蹂躙された地だ。今もそうであるかわからないが、子供狩りの被害が広がるのも早かったと聞く。その惨状を知っているから、子供狩りに加担する賊を許せるものではないのだろう。それが、理由の一つだ。 そしておそらく、並の盗賊団相手なら負けることのない実力を持っているから、というのがもう一つの理由だ。義憤にかられ、などという熱血漢には思えないが、ファルシオンが懐くほどの性根の持ち主ならば横暴を見て見ぬふりも出来ないのではないだろうか。 そんな不確実な情報だけでここまで来てしまった自分も随分と愚かなものだ、と洞窟を目の前にしたアレスは卑屈に笑った。自分たちに被害がなく、仕事として依頼されなければ、賊などは捨て置くべき存在だ。それなのに今、何の策もなく立ち向かおうとしている。 (それも全て……あいつのせいだ) あざ笑うように、脳裏にさらりと黒髪が舞う。 アレスがこれほど他人に興味を持ったことがあっただろうか。今までだって強い敵はいた。子供のアレスが敵わなかった大人はいくらだっていた。その過去があるからこそこうして強くなったわけだが、それらの相手にだってこれほど興味を持ったことはない。なのに、こうして今あの男を追って危険な場所に潜り込もうとしている。 ――なぜか。 戦う姿があまりに美しく思えたからか。アレスを侮るでも、見下すでもなく、あくまで剣士として対等に戦ったからか。そんな男をみすみす死なせるのが嫌だったのか。それとも、黒騎士と知ってなお、なんの隔たりも下心もなくアレスに話しかけてくれたことが嬉しかったのか――。 (……わからん) 突き動かされるようなこんな衝動は初めてだった。復讐の心しかなかった、あってはならなかったはずなのに、それとは違う原動力でアレスは動いている。それを喜んで良いのか、悲しむべきなのか、今はわからなかった。 洞窟の入り口が見えるところまで来たアレスが見たものは、地面に倒れる数人の男達の姿だった。耳をすますと、微かに喧騒のようなものが洞窟の壁に響いて聞こえてくる。もう始まってしまっているらしい、アレスはちっと舌打ちをした。 すぐさま魔剣を手に洞窟へと突入する。洞窟の中は思いの外広く、剣をふるうに障害となるような場所ではなかった。しかし道は入り組んでおらず、隆起した足場を道なりに進むだけだった。途中、何人もの事切れた盗賊達が転がっていたが、みな切り口鮮やかに切り捨てられている。改めて男との戦闘を思い出し、一歩出会い方を間違えばアレスもこうなっていたのかもしれない、とぞっとした。 (それにしてもあの男、こんな手酷いことも出来るのか) 剣を持つものに対する侮辱かもしれないが、無残にも斬り殺されている賊達の姿を見てそんな感想を抱いた。あの男は人を望んで斬り殺すような男に思えなかったのだ。それは手合わせの時、最後に手加減をしてアレスを勝利させたことからそのような印象だったのだが、子供狩りに関しては思うことがあるのかもしれない。 進むにつれ剣戟の音と、怒声とが近づいてくる。音の響き方からすると、この先に広間があるようだった。アレスは通路の物陰に隠れ、様子をそっと窺った。 果たして、そこには大勢の盗賊達に囲まれた見知った男の姿があった。アレスと戦った時のように髪を重力のままに流し、鉄の大剣を構え、取り囲む十数人の盗賊達を静かに見据えている。 これではあまりに分が悪い、とアレスが加勢に入ろうとして足を踏み出そうとしたその時、先に男が動いた。 ――アレスはそこからの光景に、動くことも忘れて目を奪われた。 (……これは、) まるで剣舞でも見ているかのようだった。男が足音も立てず飛び回るのと同時に、松明の火に照らされ仄暗く赤を反射する黒髪が宙を舞い、剣先の鋭い輝きが光の線の軌道を描く。その度に剣舞の見物客の盗賊達が、一人、また一人と倒れていった。後に残るは痛みと恨みを訴える耳障りな断末魔のみだ。 しかしそんな耳をふさぎたくなる状況も気にならないほど、男の所作の優雅さにしか意識がいかなかった。洗練された歩兵の動きはこれほどなのかと、今までの観念を崩される感覚に頭痛がするほどだ。 (……すごい) 素直にそう思った。妬みや悔しさなど一つもなく、ただふと心にその感想が思い浮かんだ。そして――体の奥から湧き上がる熱が、苦しいほどに熱かった。 見惚れるように棒立ちになっていたアレスの視界に、男の後ろから賊の一人が近寄る姿が映った。ようやくそこで我に返り、アレスは急いで駆け寄って賊をミストルティンで切り捨てる。観劇の邪魔をするな、という思いと、そいつに手を出すなという思いがあった。 しかしその近寄ったアレスをも敵だと思ったのか、気配を感じた男が振り返り、流れるように剣が掲げられる。そのまま真っ直ぐアレスに向かって振り下ろされ――かけたところで、ふと視線が合い、男が瞠目した。 「、お前……」 「一人でこんなところに乗り込むとか阿呆じゃないのか」 斬り殺されなかったことに内心で安堵しながらも、ふん、と鼻で笑うように言ってやった。今度は助けに来てやったとは言わないし、感謝をしてくれと言うつもりもない。ただ男がどういう反応をしてくれるのかが楽しみだった。 アレスに挑発された男は少しむっとしたように眉根を寄せたが、すぐに挑戦的な笑みを浮かべて、では、と口を開く。 「こんなとこに一人でやってきたお前は一体なんだというんだ?」 「……フン」 反論のしようがない。アレスの、自分でも合理性のまったくないと感じている行動に対し的確な指摘だ。その受け答えができるなら理性が戻っているのだろうとアレスは応えることなくふいと顔を逸らした。 「ひ、一人増えやがった!」 「増えようが構うものか、たったの二人だ!やっちまえ!」 頭と思しき男の掛け声で、足を止めていた盗賊達が一斉に飛びかかってくる。それに対し、ざ、と地面を踏みしめ剣を構え直しただけで、もう二人の間に言葉はなかった。お互いを背に、近づく敵をただ切り捨てていくだけだ。 まるで長年共に戦ってきた歴戦の相棒の様に、その存在に違和感はなかった。アレスが右に動けば男はそれ以外へ。男は周りに人に意識をやりながら戦うことに長けているようだ、アレスの動きを邪魔することなく、それでいて自由に動き回っているように見える。 幸いなことに、一度から数度切り結べば倒せる程度の相手が多く、相手が寄せ集めの盗賊であり連携が取れていない以上苦戦する相手でもなかった。 ――楽しい。 この状況下でアレスの胸に飛来する感情は、愉悦が一番強かった。あるいは、高揚と呼ぶべきものかもしれない。 男と相見えて戦っている時は、これ以上ないぐらいの興奮があり、やはり自分は戦うのが好きなのだろうと思っていた。強敵と戦うことこそ、己の生き甲斐だと信じられるほどだった。 だが背中合わせで相手の呼吸を感じながら戦っている今の状況は、これまでずっと一人で戦い続けてきたアレスに未知の興奮を呼び覚ます。特に意識してお互いを守りながら戦っているのではない。ただ個人で戦っているだけなのに、それが今まで感じてきた戦いの楽しさよりも数倍だと、その時は本気で思えたのだ。 不意に、とん、と肩がぶつかった。少し男のリズムが崩れているようだ。 「おい、まだ戦えるか?」 「はっ……当たり前だ」 男に問いかけると余裕ぶった返事が返ってくるが、多少息が上がっているように聞こえる。ここに来るまでに見た死体の数を考えれば、アレスよりも長く戦っていることになるのだ、当然だろう。まして大勢の敵に囲まれ集中力も擦り減らしている。あの見事な剣舞は並々ならぬ集中力の賜物であっただろう。言葉を交わす余裕がある間は大丈夫そうだが、そろそろ終わらせてやらなければ、と残り少なくなった賊を切り捨てた時だった。 「――オイ!なんだこりゃどうなってやがる!!」 「おぉ、外の奴らが戻ってきたぞ!」 入り口の方から聞こえたその声にアレスと男は同時に舌打ちをした。どうやらタイミング悪く外に出ていた者達が戻ってきたらしい。これで全部かと思っていたのだが、洞窟の広さに見合ったなかなか大所帯の盗賊団だったようだ。 荒々しい十数の足音が近づき、やがて広間にて顔を合わせる。屈強な男達と、紛れるように魔道士や弓使いなどの姿もあった。 (むしろこっちが本隊だったのか……?!) 知らなかったとはいえ、相手の勢力を見誤っていたことは明らかな失態だ。 ふと見れば、後方には縄をかけられ目と口をタオルで押さえられた幼子の姿がある。またどこかで何の罪もない子供をさらってきたのだろう、帝国にわずかばかりの金で買ってもらうために。あるいは賊の中に帝国の者が混じっているのかもしれない。 そんなことを考えていると、背中合わせの男もそちらを見ていたらしい、ぽつ、と消え入りそうな声が聞こえた。 「――子供狩り」 それは背筋が凍るほどに冷たい声だった。一瞬、誰が発したかもわからなかった。感情を帯びない、まるで親の仇でも見たかのような冷徹な響きに、アレスでさえ一瞬足を止めてしまう。 「貴様らのようなやつがいるから――」 イザークの民は、と口が動いたような気がした。その他にも何か一言言っていたようだが、気がついた時には子供を捕らえている盗賊に向かって男が走り出していた。その俊敏さを見てまだそんなにも動けたのかと感心していたが、男の肩越しに賊の一人が弓をつがえているのが見えて、アレスも反射的に走り出していた。だが、相手の方が早かった。二人の剣が届くより先に放たれた矢は、男の腕を掠めて深く傷をつけ、そのまま背後の壁に突き刺さった。 「っ……!」 「大丈夫か!!」 身を削られた衝撃に、走っていた男の体がふらりと揺れる。その好機を逃さず、さらに魔道士のウインドが放たれた。風の流れを感じた男は咄嗟に体を逸らし、真空の刃の直撃は避けたものの、流れる髪の束がざっくりと切り取られていく。 その刹那、アレスはかっと頭に血がのぼるのを感じた。 「っ、この野郎……!!」 明らかに速度の落ちた男を追い抜き、弓兵と魔道士を一刀で叩き潰す。しかしさらに奥にいた弓兵が、まっすぐアレスの脳天を貫くが如く矢を構えていた。 「くっ……!」 この距離では避けられない――そう思い、多少の犠牲は仕方がないと賊の矢先へと左腕を差し出した。 だがその矢がアレスの体に、そして伸ばした左腕にも届くことはなかった。 弓を構えていたはずの弓兵の腕が、一瞬の後に宙を舞う。アレスの後方で体勢を立て直した男が素早く間合いを詰め、血に塗れた剣先で切り落としたのだ、と理解すると、アレスはすぐさま次の行動へ移った。まずは捕らえられていた少年を賊から隠すように近くにあった壁のくぼみの方へと追いやり、近くの大男の斧と剣を交え、打ち合い、地に伏せさせる。 その背後で別の斧兵を倒した男と視線があった。先ほど、後先考えずに突っ込んでいった時のような狂気は消えており、冷静さを取り戻したようだった。 「……悪い、頭に血がのぼっていた」 「わかったならいい」 来るぞ、と声をかけ、再び背中を合わせる。それ以降、二人の間に言葉はなかった。ただ、自分のやるべきことをやる――それだけだった。 アレスの息も乱れてきた頃には、その場に立つのは長髪の剣士と黒騎士の二人だけになっていた。剣は血と脂に塗れ、返り血が衣服を汚し、見るも無惨な有様であったが、ひどいのは見てくれだけだ。少なくともアレスはそうであった。 少し離れた位置に立つ長髪の男の方も、最初に受けたウインドの一太刀以外は、目立った怪我はないように思えた。 「……終わった、か」 「おい、大丈夫か」 「あぁ、少し……疲れた、だけだ」 血の海に立ちながら、は、と息を吐いた男は、そのままどさりと膝をついた。アレスが慌てて歩み寄るなか、男は服の裾を破り腕に巻くと、懐に手を入れて傷薬らしきものを取り出している。さすがにそのあたりの準備はしていたらしい、と全く考えなしの行動でなかったことを観察していて、ふと、一点で凍り付いたようにアレスの視界が止まった。 「……っ、」 アレスの瞳に映ったのは、男の腕を伝い、ぽた、と流れ落ちていく――赤い液体だった。 それを見て、くらりと世界が揺れた気がした。 (……血) まずい、と理性の警告する声が聞こえたが、すでに脳内にはあの時の、美酒を飲んだような陶酔感が蘇っていた。つぅ、と流れる赤いラインがひどく扇情的で、眩暈がする。 (……勿体ない) 地面で、誰とも知れない相手の血と混ざりあうのを見てはっきりと不快に思った。 吸い寄せられるかのように、アレスは男の腕を掴むとその液体に舌を這わせていた。はっと息を飲んだ男の顔が驚きに歪むのが見えたが、むしろそれに興奮して更に傷口を抉ると、さすがに抗議の声が上がる。 「っ、おい……!」 「痛いか」 「当たり前だ!」 男の声には確かな怒気がこもっていた。痛みを喜ぶのは特殊な嗜好の持ち主だけだ。怒って当然であり、蹴り飛ばされても仕方のない行為だとわかっている。わかってはいるが、アレスはそれでもいいからと更に凶悪な欲望に心を支配されていた。 ――もっと、感情を引き出したい。 それは怒りでも良かった。人を斬った後の狂気にも似た感情には、怒りですら心地よい。自分の言動で、自分に対して新たな一面を見せて欲しい。先ほど賊相手に見せたような冷徹な瞳で睨みつけられたら、と考えただけで下腹部にぐっと熱が溜まる。 (こんなの、男同士、という趣味程度笑えたもんじゃないな) 明らかに異常な思考回路にもはや笑いしか浮かばない。けれどそれを止めるだけの理性も、男の血を口にした時になくなっていた。 奔流する欲望のまま、男に止められるのも構わず更に傷口を吸い上げると、明らかに男の体が強張った。 「やめっ……ぅ、ぁ……っ、ぁあ、っ!」 ぐ、と本格的に強く頭を押されるが、アレスは頑なに離れようとしなかった。戦闘後の熱気と、舌で感じる液体の味によって、止められようもないぐらいに昂ぶっている。痛いだろうな、と頭の隅では理解し同情もしていたが、それ以上に男の苦痛の声がアレスを突き動かしていた。 男の押し殺した悲鳴を肴に、アレスは流れていた血を全て舐めとった。は、は、と痛みに喘ぐ男の吐息が耳に届くのがたまらず、そのまま顔を移動させ男の首元に舌を這わせる。痛みにぐったりと首を下げていた男だったが、明らかにそれまでと違う行為にゆるりと顔を上げた。 「……っ、おい、何をして……」 咎めるような口調を気にせず強く吸い上げると、アレスの頭にかけられた手に力が込められるのがわかった。それに煽られるようにゆるゆると男の体をまさぐりはじめたアレスの意図を察した男は、億劫そうに目を細めてみせた。 「……怪我人だぞ……」 「じゃあ薬でも塗ってろ」 「その言い方はないだろう……っ、ぁ、待て、汚い……!」 アレスの頭を抑えていた手を取り指の股を舐めると、焦ったような男の声がする。だが男よりもアレスの力の方が強い。逃げるように動く腕をがっちりと掴み、見せつけるように一本一本指を舐めてやった。 見入るように眺めている男の眉根が、アレスの舌が指に絡むたびにぴくりと歪む。それだけで体の奥から熱が沸き上がる。 すべての指を丁寧に舐めまわし、最後の指から音を立てて唇を放した。 「――ほら、綺麗にしてやった」 「……腹を壊しても知らないからな」 他にも何か物言いたげにアレスのことを見ていた男だったが、やがて、何を言っても無駄だと観念したように懐から取り出した塗り薬を傷口に塗り込め始めた。その間にもアレスの手は男の体をまさぐり、腰のあたりを撫で続ける。 「ふ……、っ……」 くすぐったいのか男が体をよじらせるたび、さらりと黒髪が揺れる。その隙間から見える形の良い耳を食むと、男が上ずった声をあげた。 「ひ、っ……ぁ……」 「感じるのか?」 「あ、耳元で喋るな……っ、んん、」 反論はするが、その声にははっきりとした拒絶の色がなかった。抵抗するほどの気力が残っていないのか、触れられている内に男の方もその気になってきたのか――そう考えながら男の表情を覗き込んでみると、髪に隠された頬はうっすらと上気している。賊との戦いの後で動き回り血流が良くなっているのもあるだろうが、これは明らかに欲情しかけている顔だった。アレスと同じように、男もまた生存本能を刺激され盛っているのだ、と理解した時の喜びといったらなかった。 (このまま押し切れる……!) アレスは襲い掛かるように男の肩に手をやると、血に濡れるのも構わず、ぐっとその体を地面に押し倒した。 ――と、その時である。 「も、もう終わったの……?」 消え入りそうなか細い声と、からん、と石が地面を転がる音が洞窟に響き、二人の動きが止まった。まだ賊が残っていたかと慌てて視線をそちらへ向けると、岩陰に一人の少年の姿がある事に気がつく。後ろ手に縛られ、目隠しをされたその少年は、先ほど賊達から助けた子どもであった。少し離れた場所に追いやられていたが、静かになってそろそろと壁伝いに様子を見にきたのだろう。 (あぁ……そんなこと、すっかり忘れていた) あの時のアレスが考えていたのは、子どもに危害が及べばあの男が気に病むだろうと思っただけであり、アレス個人としてはそれほど気にしていたわけではなかったのだ。 まぁ無事ならそれでいいだろう、と行為を続けようと再度男を見下ろしたアレスだったが、男の方は冷や水を浴びせられたような顔をしていた。 (あ、おい、これは) 嫌な予感がする――そう思った時には、もう男はアレスを押しのけて立ち上がり、少年の方へと歩いて行っていた。実に素早い動きである。どうやらお預けのようだ。 この雰囲気でふざけるなと声を荒げそうだった。軽々とアレスを押しのけたところを見ると、やはり男も合意の上で事に及ぼうとしていたのだ。そんな折角の機会を逃してなるものかとアレスもまた立ち上がったが、大丈夫か怪我はないかと少年に話しかける男の穏やかな表情を見ていたら、何も言う気がなくなってしまった。 大体、アレスにも見られながらやる趣味はない。子供に見せるものでもない。少し落ち着けば、そのぐらいの分別はつく。つくけれど、突如放り出された身体の方が易々と納得してくれないのだ。 「……はぁ」 いずれにせよこの熱を治めねばなるまい、と近くにあった水瓶の水で二人は体を清め、少年を連れて街へ戻ることにした。 すでに空は暗くなり始めており、砂の端から月の先端が顔を覗かせていた。 洞窟の外には盗賊達が使っていた小型の馬車が乗り捨てられており、持ち主のいなくなったそれを拝借することにした。アレス一人ならファルシオンに乗っていくのだが、怪我人と子どもがいる。ありがたく使わせてもらうことにして、アレスが御者をつとめた。盗賊達は縄張りを同じくしない。道しるべさえ間違えなければ夜の砂漠も越えられるだろう。 「僕以外の子も、少し前に連れていかれちゃって……」 「そうか、その子達のことは見かけなかったが……あまり一人で出歩くなよ、砂漠は危険だ」 「うん……」 荷台の中では男が少年の頭を優しく撫でている。少年も大人しくそれに甘えていた。随分と手馴れている、と思ったが、そういえば彼は弟――のような存在がいると言っていたので、実際慣れているのだろう。ゆったりと髪をすく動作をアレスは横目で眺めていた。 その時胸中を過ぎったのは、過ぎ去りし母親との幸せな日々だったのか、それとも他の思い出だったのか、霧がかったようにぼんやりとしていて思い出すことが出来なかった。ただなにか、羨ましい、と思った気が、した。 街まで子供を送り届けると、馬車を買い取ってもらい、二人は夜の空の下往来に立っていた。道行く人々は、二人が賊を退治したことなど一つも知りはしないだろう。知る必要もないことだとアレスは思っていた。いつも通り人を斬っただけだ。この街の人間に感謝されたくて賊を退治したわけではない。 ではその理由はなぜか、と考えたところで、アレスはふと気になっていたことを尋ねた。 「何故あんな無茶をしたんだ」 月を見上げていた男に向かって詰問するような声色になってしまった。だが、抱いて当然の疑問だ。 いくら子供狩りに加担していたとはいえ、盗賊退治などに手を出していてはキリがないだろう。今回はたまたまアレスが手を貸したものの、無謀だと非難されても仕方のない行動だったように思う。自分とは全く異なった思考で動くこの男を何が突き動かしたのか、アレスはそれが気になって仕方なかった。 男は考えるように口元に手を寄せて、視線だけをこちらに向けた。 「……何故お前は私を助けに来たんだ、と聞いて答えられるか?」 「っ……それは……」 それを言われると、アレスは口を閉ざすしかない。ちょうど今、その理由を考えていたところであるが、何故かはわからない。何かの衝動に突き動かされて、気が付けばあの洞窟の前に立っていたのだ。 まぁそれとは少し違うんだろうが、と前置きして男は真面目な表情を浮かべる。 「帝国が、子供狩りが……それに協力するような者たちが許せない。ただ、それだけだ」 「それだけで命を捨てられるのか」 「命を捨てるつもりはなかった。帝国に組する相手にくれてやる命はない」 「……帝国の支配するこの場所で、どこで誰が聞いているかもわからないのに大胆な発言だな」 「そうだな。だが私は帝国に屈するつもりはない。いつか……」 また、男は国を思い遥か遠くの地を眺めていた。だが今度は、それに嫉妬も落胆もする気にはならなかった。心の内に抱えた、自分自身を形作る強大な執着の存在をアレスも知っている。その思いがあるからこそ、今の自分自身がいるのだ。アレスが見惚れたあの剣舞も、男が故郷への執着の末に辿り着いた道であり、その生き方に口を挟んではアレスが見たもの全てを否定することになってしまうだろう。 そう思えるようになったのは、共闘することで、二人の間の距離が縮んだように感じているからかもしれない。 「大体お前こそ、大きく見ればグランベル配下の国の雇われ傭兵のくせに、あんなことをして良かったのか?」 「今は休暇中だ、帝国に雇われた傭兵でもなんでもない」 「随分な言い訳だな」 そう言って、男は呆れながらも楽しそうに笑った。 「だが、今はその言葉をありがたく受け入れよう。今回は本当に来てくれて助かった、ありがとう、アレス。お前のおかげで……生き延びることが出来た」 「っ、」 にこ、と穏やかに微笑みかけられて、アレスの心臓がどくりと強く脈打った。 その時、胸の内に生じた衝動はひどく原始的で、抑えの効かない強すぎる欲求を孕んでいることに気が付き、理解する。 (――あぁ、やっぱり俺はこの男を) この男を死なせたくなくて、助けるために、分の悪い戦いを仕掛けたのだ。それは疑いようのない事実だった。現に、男が生きて、こうしてアレスの目の前に立っているだけで、こんなにも嬉しかった。そしてそれ以上の感情も抱いているのもわかっている。 こらえるように、ぐ、と唇を噛みしめていると、そんなアレスの様子になど気づかない男が、さて、と軽い口調でつぶやいた。 「これからどうする?」 「……宿へ戻る」 「そうだな、今日はもう疲れてしまった。ゆっくりと休んで――」 「俺が、お前の部屋へ、行く」 一言一言、聞き逃させはしないといったようにアレスは言葉を刻む。 その言外に匂わせた欲を感じ取った男が、ばっとアレスの方を振り向いた。驚いているようだが、その反応に驚いたのはアレスも同じだ。洞窟でのアレを忘れたとは言わせない。ましてなかったことになどさせるつもりはなかった。 アレスの視線がぴたりと自分に張り付いて離れないのを見た男は、少し困ったように目を細めてみせた。 「……本当にしたいのか」 「でなければ男なんて襲うか」 「あれは雰囲気に飲まれたんだろう。戦闘後に、というのはよく聞く話だからな。街に戻った今なら、お前の相手をしてくれる相手ぐらい沢山、」 「すっかり落ち着いた今でも俺はお前を抱きたい。他人じゃ意味がない。大体、あのままガキが邪魔しなければお前も流されていただろう」 「……それは否定しない。ただあの時は、」 「抱かせろ」 男の言い訳を遮って、アレスは強い口調で追い詰める。何を言われても引くべきではない、と本能的に察知していた。これを逃してはもうこの先はないだろうと感じていたのだ。 言葉と同時に、ぐっと男の腕を掴んだ。男は咄嗟に身を引こうとしたが、逃すまいとさらに強く掴む。掴んだのが怪我をしている方の手であれば良かったのに、と頭の片隅で思った。怪我をしている手ならば、またあの苦痛に歪む表情が見れたかもしれない、と不謹慎にもそんな事を考えていた。 その凶悪な思いはともかく、布越しでもこの熱さが伝わればいいのにと思う。アレスの中に渦巻く、果てしない欲望がこのまま男を包んでしまえばきっと逃げ出すことなんて不可能なのに、と思いの強さを自覚していた。 アレスはぎらぎらと欲に塗れ鈍く輝く瞳で男の事を見つめていた。その瞳を、男は見つめ返してくる。困惑しているかのような――あるいは、期待をしているかのようにごくりと喉が動いたように見えたのは、アレスの願望だっただろうか。 やがて男は深く息を吐くと、覚悟を決めたように声を絞り出した。 「……わかっ、た。そこまで……言うのなら。お前には助けられた恩もある、」 「よし確かに聞いたぞ二言はないな絶対だ逃げたりしたら地の果てまで追いかけてやる確かに聞いたからな!」 言質はとったもう逃がすまいと早口でまくしたてると、困ったように眉根を寄せながら、男はもう一度、わかった、と頷いた。それに満足して、アレスはようやく手を離した。男の弱みに付け込んだ形になってしまったが、こんなものはとにかく言わせた方が勝ちなのだ。 「物好きなことだ……お前はそういうことを嫌っているように見受けられたが」 「あぁ、特に興味はなかった。だからお前のせいだ」 「自分の心境の変化を人のせいにするのは感心しないぞ」 そんな適当な話をしながらも、アレスの頭の中はこれからのことでいっぱいだった。男の気が変わらない内にとやや急ぎ足で宿につくと、せめて湯浴みぐらいはさせてくれという男から部屋番号を聞き出し、ひとまずその場は別れることになった。 <<3 5>> |