砂上の月 5


 待っている間にアレスも湯浴みをして、先ほど聞いた男の部屋の扉を叩いた。柄にもなく脈が早鐘を打ち、手のひらに汗をかいている。これまで色恋に惑う者達のことを愚かだなんだと笑ってきたが、色欲に狂う今の己の方がよっぽど愚かなのかもしれない。
 そんなことを思っていると扉が開く音がして、中からタオルを首元にかけた男が姿を現した。

「早いな、まだ髪も乾いていないのに」
「……お前の髪が乾くのを待っていたら一体いつになるんだ」
「それもそうか、まぁ入れ」

 アレスがこんなにも心臓を高鳴らせているのに、まるでこれから食事でもというぐらいに慌てた様子のない男が若干憎らしかった。そういう行為をするというのにこの態度なのは、ひょっとして男が慣れているからなのだろうか。そういえば初めて会った時も同性に肩を抱かれていたのを思い出し、今更ながら不愉快になった。あんな胸糞悪い奴等に、触れさせたことすら面白くない。

(あれだけの実力がありながら、あんな奴らにべたべた触らせるなんて馬鹿なんじゃないのかこいつ……)

 きっと男なりに店に迷惑がかかると思ってのことだろうが、路地裏に誘い込んで、などと回りくどい方法を取らずに、迷惑な客を追い払うためにも店で暴れてしまえばよかったのに、とアレスは男の行動に一人勝手に腹を立てていた。

「何をむっとしているんだ」
「別に」
「……難しいやつだな」

 まぁいいが、と男がくるりと踵を返すと、石鹸の匂いがふわりと鼻をくすぐり、アレスはぐっと込み上げるものをこらえた。同じ宿の、同じ石鹸の香りのはずなのに、男から立ち上る芳香を嗅いだ途端にいてもたってもいられなくなる。
 実際――たまらなくなって、男の体を後ろから抱き締めてしまった。びくりと揺れる体をしっかりと拘束し、髪に鼻先を押し付けて、すん、と鼻で息を吸い込む。やはりアレスよりもどこか良い匂いがするような気がした。
 頬に触れた濡れた髪が冷たかったが、すでに火照り始めているアレスの体にはちょうど良かった。そもそも、濡れる事など今更気にならない。
 抱きしめられたまま大人しくしている男が、首を回して横目でアレスをじとりと睨みつけた。

「本当にお前は我慢がきかないのか……」
「あそこから帰ってくるまで我慢していた」

 そう、言うなればあの時からずっと我慢を強いられていたようなものなのだ。ようやく与えられた餌を目の前に、当人からの許可が出るまで行儀よく待つなど獅子のすることではない。
 するりとタオルを剥ぎ取り、髪を鼻先でかき分けて、奥から現れたうなじに舌を這わせる。指先は服の裾を割ってしっとりと水分を含んだ肌を撫で回していた。

「、ん……」

 鼻に抜ける声が艶かしく聞こえて、アレスも体を震わせた。逃げる気配はない。このまま――抱ける。
 だが、ふと、襲われながらも随分と落ち着いているものだ、と思った時、アレスはまたむっとなって口を開いた。

「そういえばお前、初めてじゃないのか。随分と落ち着いているな」
「っ……なんだ、大の男にきゃあきゃあ騒げというのか?大体……聞いてどうする。初めてなら優しくでもしてくれるというのか」
「教えろ」
「それが人にものを聞く態度か……」

 呆れたようにそう言われても、今までアレスはそうして欲しい情報を手に入れてきた。問い詰めて、抗うなら力を見せつけて、屈服させる。強者の当然の権利としてその報酬を受け取ってきた。
 しかしこの時ばかりはそうした自分の態度を忌々しく思った。他にどうしたらいいのかわからないのだ。だがそうやって生きて来なければ生きられない世界を生きてきたのは変えられない事実だった。

「……初めてでは、ない」

 ぽつりと溢れた言葉に、ぴくりと耳が動いた。
 聞きたかった答えは、しかし聞かなければ良かった答えだったかもしれない。

「だから好きなようにしろ」
「っ……そうか」

 胸を刺した痛みと、湧き上がるこの怒りの感情はドス黒い闇を纏った嫉妬なのだろう。それに気がつき思わず舌打ちをしたくなるのをこらえて、アレスは一度深く深呼吸をした。興味に任せて思わず尋ねてしまったが、聞くのではなかったと後悔した。
 だが、怒りに身を任せたまま酷くしたいのではない。誰にやられたのだと醜く問い詰めたいのでもない。ただ、この男が乱れる姿が見られれば、そして乱しているのが自分であればそれでよかった。

(そうだ、これは別に、恋だの愛だの、そんなものじゃない。ただの――欲望だ)

 だから、男がこれまでに誰かに抱かれていようが、いまいが、そんなことはアレスには関係ない。これからアレスが相手を抱く、というその事実だけが重要なことなのだ。
 そう言い聞かせ、これ以上煩わしいことは考えないようにした。正確には、先ほどから触れている熱がじわじわと理性を蝕んでおり、考えるほどの余裕は残っていなかった。
 アレスは己の欲望の求めるままに男をベッドの上に押し倒すと、その体に覆いかぶさった。細い月の光を宿した男の瞳がひるんだ様子もなくこちらを見返し、そして手を伸ばしてアレスの頬に触れた。

「……そういえば、名前」
「なんだ」
「名前は、呼ばないでくれ」

 請うように、ぽつりとつぶやかれる言葉。それは、別の男を思い出すからなのか、他の理由からなのかアレスにはわからなかったが、まるで懇願するような声色に、アレスはわかったと頷くしか出来なかった。
 安心したように力を抜く男の口に、噛み付くように口づける。あとは、ただ獣のように交わるだけだった。





 ――目が覚めたのは、まだ薄闇の包む明け方だった。
 ふと、何か家の軋むような音が聞こえた気がして、アレスはぼんやりと目を開けた。室内に差し込む光の量でまだ起きるような時間ではないことを悟り、ごろりと寝返りをうつ。そのまま、また目を瞑ろうとして――違和感に気づく。
 寝返りをうったその視線の先に、眠る前にはあったはずの人影がなかった。はっとして体を起こしぐるりと視線を巡らせてみると、交わりの名残が所々に散らばっているだけで、アレスは一人で狭いベッドの上に寝そべっていた。

 ――いない。

 昨日まで置いてあったあの男のものが全てなくなっていた。もちろん、本人もだ。
 冷や水を浴びせられたようにはっきりしていく頭で考えたところ、どうやら男はアレスが眠っている間に部屋を立ち去ったらしい。いくら疲れていたとはいえ、アレスに気取られずに行動するとはさすがと言うしかなかった。
 すっと血の気が引いて、そして、諦めたように視線を伏せる。

(……いない、のか)

 怒りとも悲しみとも呼べない感情を持て余し、アレスはしばらく人がいた痕跡のない室内を眺めていた。
 しんとした空間はアレスの心に馴染みのない感情を呼び込んでいた。一人で寝泊まりしている時は、こんなことは日常だった。なのにこれほど虚しい気持ちになるのは何故なのだろうか。わからずに、くそ、と悪態をつく。

「一言ぐらい……何か言っていけばいいのに」

 そうアレスは不満げに唇を尖らせてから、何を思っているのか、と己の思考を嘲笑った。アレスを恋い慕う恋人であれば期待しても良かったかもしれないが、残念ながら二人は恋仲ではない。どちらかというと、アレスが無理矢理求めた関係だ。むしろやる前に逃げられなかったことを奇跡だと喜ぶべきだろう。

(……これが当然、か)

 昨夜の熱を思い出し、じり、と胸の奥が痛んだ。無理矢理、とは言ったが、体を繋げた時の相手は、恩があるからと我慢して抱かれているようには見えなかった。もちろん喜んでという風でもなかったが、ひょっとしたらもう少し、アレスに対して何か感情を持ってもらえるかもしれない、と期待するぐらいには互いを求めあっていたように思う。
 だがそれも、欲のなせる思い違いだったということだろう。

(手に入れたと思ったのに)

 力や金以外に、欲しいと思ったものを、ようやく――。
 晴れない心のまま、がりがりと頭をかいて寝台から降りた。とりあえず水が欲しかったのだが、一歩足を踏み出したところで、聞き慣れた嘶きが外から聞こえてきた。あぁファルシオンの声だ、と何気なく窓から外を眺めると、視界の端に流れる黒髪が映った。

「っ――……!!!」

 ど、と心臓が音を立てるのと同時に、アレスは咄嗟に窓から身を乗り出していた。

「おい!!!」

 まだ明け方というのも気にせずに大きな声で呼びかけると、昨日と同じように厩の前に立っていた――あの男が、ゆっくりと顔を上げた。見つかったか、というような表情だった。
 どうやらまだ宿を出て間もないところだったらしい。あれが最後の別れでなかったことにアレスの心臓が高鳴った。その勢いのままもう一声かけようとしたアレスを見て、男が口元に一本指を当てる。静かに、と言ったようだ。その動作に思わず口をつぐんだが、そのまま歩き去ろうとする男に慌てて声をかけた。

「ちょっ、待て!おい!!」

 本当は今すぐ追いかけてその肩を掴みたかったが、部屋から階段を降りている間に姿を見失うのを恐れて、仕方なく窓から声をかけることしかできない。アレスの呼びかけに男は振り返ってもう一度、静かに、と音もなく口を動かしたが、足を止めようとはしなかった。アレスが降りて行くまで待ってくれるつもりはないらしい、もうこのまま別れるつもりなのだ。
 それを理解して、ふざけるな、とアレスは咄嗟に言葉を発していた。

「っ、またお前と会いたい!!」
「!」

 思わず口から出たのは、そんな女々しい言葉だった。だが、何度も無意識に男のことを引き留めていたアレスがずっと言いたかったのはそれだったのだろうと、胸のつっかえが取れたような清々しさがあった。
 そう、また会いたい。伝えたいのはただそれだけだった。
 言いたいことや、聞きたいことは沢山あった。素性のことや、何も言わずに去ろうとしていること、それから――何故アレスに抱かれたのか、それらはおそらく男が意図して隠していることだろう。
 だがそれを知りたくても、行くなとは言わない。お互いに歩むべき道があるのだから、ここで別れるのは仕方のないことだと理解もしている。
 それでも、だからこそまた会いたいのだとこの思いを伝えずにいられなかった。会える確率など1%に満たないような稀有なことだとわかっていたが、伝えることでアレスのことが少しでも男の記憶に残ればいいのに、と願う事しか今は出来なかったのだ。
 アレスの叫びを聞いた男は驚いたように目を見開き、足を止めた。そしてアレスの視線を正面から受け止める。
 ほんのわずか、二人の視線が交わり――男はゆっくりと首を縦に振り、初めてアレスに聞こえるように声を発した。

「――心配せずとも会えるだろう。お前が仇を追い続けている限り、必ず」
「なに?」
「それまで私の姿を忘れないことだ」

 どういう意味だ、と問うより先に男はアレスに背を向けて歩き出した。その歩みに迷いはなく、もう振り返る素振りはない。
 それが男との最後の会話だった。
 本当は見失ってもいいからとすぐさま下に降りていこうとしていたのだが、直後に、脇の路地から馬を引いて現れた男となにやら話を始めたのを見て足が止まってしまった。

(あれは、誰だ……)

 また変なのに絡まれたのかと険しい表情で睨みつけていたが、親しげに話しているところを見るとどうやら男の知り合いのようだ。二人分の馬を引いており、男を迎えに来たように見える。
 その推測通り、二人は馬にまたがると街の外へと向かい、アレスの視界から消えていった。明け方の淡い陽光に照らされた砂地だけが、風に煽られ、月の光を反射しながら、さらさらと動いていた。

 誰もいなくなった通りをしばらくぼんやりと眺めてから、アレスはふらふらと寝台に歩み寄り、どさりと腰を下ろした。起きたばかりだというのに、なんだかどっと疲れた気がする。いや、実際昨日からの疲れはまだ取れていなかった。一連の出来事がなければ、アレスはまだ眠っていただろう。
 一人きり取り残された薄暗い室内で、アレスは呆然としたように座っている。だが一つだけ胸の内に残った希望が、暗がりの中においてもアレスの瞳を輝かせていた。

(……また、会える)

 その言葉が、絶望に沈み込もうとしていたアレスの心に灯をともしている。
 男の言った言葉の真意はわからない。ただの誤魔化しであったのか、それとも願望であったのか、本人でないのにわかるはずがない。
 けれど、あの男が迷いなく言い切った言葉は、それをアレスに信じさせるだけの力があった。信じてもいいのだと確信させてくれる真摯な思いが込められていた――そう、思いたかっただけかもしれない。信じなければこの縁が切れてしまうから、だから悪あがきのようにただ信じるしか出来ないのだ。
 だがそれでも良かった。彼がアレスに言葉を返してくれた事実が、この思いを抱き続けてもいいのだとアレスを安堵させてくれる。この思いを否定されなかっただけで、アレスは次への希望を抱くことが出来る。

(生きる目的が一つ……増えたな)

 それは復讐でもなく、ただ生きるためだけでもない。己の意思で、己の感情に従って渇望する、強い想い。

 ――次に会えた時には、この思いを伝える事が出来るだろうか。

 伝えた時、一体どんな反応を返してくれるだろうか。そして、男が何を考え、アレスの事をどう思っているのか、その本心を聞き質すことが出来るだろうか。考えるだけで、歩みゆく道に光が見えるようだった。

(大丈夫、嫌な予感はしない。だから――また、会える)

 アレスはいつか来るその日を思い、ゆっくりと目を閉じた。
 まぶたの裏にはまだあの男の黒髪が、アレスを誘うように風に流れていた。




砂上の月 完



あとがきという名の言い訳とか裏設定

・さすがにバルムンク探してるシャナンさんはバレるでしょう、ということで、途中オイフェの名前を数回使ってますが、他は全て誤魔化すように名前を出してないので誰が誰だかわかりづらかったかと思います。設定がアレなのと力不足ですすみません。
・この後、セリス達と合流してから二人はまた出会う予定。
・濡れ場飛ばしたのは傷舐め抉らせで満足したからです。あと長くなってきて疲れたともいう。需要ありますか。
・このままアレス連れ帰ってしまえばいいのに、とも思いましたが、たぶん、一人で先走った行動をするなとオイフェにでも言われていたのだと思います。それにやっぱり、万一のことも考えると正体明かすのは危ないとか。
・昔に考えた話なのもあって、私の中でもかなりパラレルっぽい位置づけです。今だと、詰め合わせの方に書いた『其の名 獅子王の子』の方がイメージに近い感じ。
・初めてじゃないと言ったけど内容はあまり考えてません。初めてだとアレスに抱かせろって言われてうんと言ってくれないから、程度の理由だった気がします。
・砂漠の街で出会った手の届かない存在 ぐらいの意味のタイトル。

もっとくだけて馬鹿っぽいアレシャナも書きたいです。年も比較的近くて、色んなしがらみなくシャナンとわあわあ言いあえるの、アレスだけなんじゃないかと一人思っています。悪友的な。



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