砂上の月 1
砂上の月



 細い弓なりの月が深い藍色の空に浮かんでいる。地平線の向こうまで果てなく続くイードの砂漠を、夜の静かな闇が包んでいた。
 淡い月の光のみが照らす砂の大地を歩いている者はおらず、時折吹き荒れる乾いた風が砂を舞わせている。金色の砂は昼間の太陽の光を反射し温度を上げ、砂漠特有の乾燥した暑さを一帯に広めていた。

 傭兵としての長期の仕事を終え、久しぶりにまとまった休暇を貰ったアレスはそんな砂漠の町へと訪れていた。現在、アレスの所属する傭兵集団が雇われているイードから少し離れた場所に存在する、イードやダーナ程ではないが人の流れのある町だ。地理的にはイザーク王国に近いところである。
 傭兵という職種に定まった休暇はないが、依頼がない時はある程度暇を持て余す職種でもあった。その折角の休暇なのだからゆっくり過ごそうと思っていたのだが、傭兵団の存在が知れ渡っているイードではアレスの存在は人の目を集め過ぎる。傭兵団の「黒騎士」というのは本人が辟易するほどに有名な存在となっていたのだ。
 別にそれを煩がるほどアレスは繊細な精神をしているわけでもなかったが、周りが静かならばそれに越したことはないだろうと、大抵休暇の際アレスは傭兵団が雇われている地を離れる事が多かった。

 町へ着いたアレスは長年連れ添ってきた愛馬ファルシオンから下馬し、宿を目指して歩いていた。アレスの出で立ちは町を歩く人々と同じように、降り注ぐ熱から身を守る為の長いフード付きのマントをかぶっている。砂漠を横断する上で、じりじりと照りつける日差しを避ける大切な装備品だ。それと、目立つ容姿を隠すためでもあった。
 歩きながら町で一番大きな酒場の前を通ると、中からは大勢の賑やかな人の声が聞こえてくる。漂う雰囲気もそこだけは異様な熱を含んでいるようだった。酒場が賑やかに栄えている街は人々の心にも懐にも余裕があるということであり、悪い傾向ではない。

(後で寄ってみるか)

 砂漠の旅を終え、ちょうど腹も減っている。大体の位置を把握してアレスはまた歩き出した。
 そうして宿へ向かう途中でふと、アレスは自分に道行く人々の視線が向けられていることに気がついた。いや、正確にはアレスに手綱を取られながら隣を歩くファルシオンに、だ。ファルシオンは人の視線を集めるのに十分な黒馬であった。風になびく立派な鬣や、すらりと鍛えられた肢体、深く艶のある黒い毛並みは、月明かりの下堂々と歩く態度に良く似合っている。イードでのアレスではないが、ファルシオンが視線を集めるのもいつものことであった。

「気にするな、ファルシオン」

 そ、と鬣を撫でながらアレスがつぶやけば、ファルシオンは了承の意を込めて頭を小さく振った。言葉はなくともアレスの意志を的確に理解する賢い馬だ。
 しばらく歩いて繁華街から遠ざかったところに質素なたたずまいの宿が立っていた。この町にはいくつか豪華な宿が存在していたが、アレスに特に宿に対するこだわりはなかった。最低限、ゆっくりと眠る場所と食事が提供されればそれで十分であるし、華美なものを好まないアレスにはここの宿ならば十分満足できるはずだという話を同僚に聞いていた。
 厩が空いているかわからないため、とりあえず入口あたりにファルシオンをつなぎ、アレスは宿の受付へと進む。

「まだ部屋と厩が一部屋ずつ空いてるか?」
「あら夜遅くまでおつかれさまです。はい、空いておりますよ。お泊りですか?」
「あぁ、とりあえず三日ほど泊まりたい」
「三日ですね。うちが満員になることはほとんどありませんから、お金さえいただければ何日でも伸ばしていただいて結構ですよ」

 大らかな宿の女将はそう冗談めかして笑うと、お連れになった馬はこちらで厩までお連れしましょうか、と尋ねてきた。そのように確認を取ってもらえるのはありがたかった。自分の馬を他人に触らせたがらない人間もいる。アレスもその一人だ、というよりは、ファルシオン自身が他人に触れられる事を許さない馬であった。
 それをふまえ、いや自分で連れていく、とアレスが言うと女将は頷き鍵を渡す。表に繋いだままでは馬も危ないでしょう、お代の話は後からで、との台詞を聞いてから、アレスは外へと出た。
 宿から出てきたアレスの姿を捉えたファルシオンが、尾を一度ばさりと振る。

「表に一人で女を待たせて悪かったな、ファルシオン」

 言えば、彼女は怒ったように顔を背けてみせた。アレスはそれに苦笑し、機嫌を取るように優しく背を撫でた。
 思えば、アレスがそうやって表情を崩すのは、傭兵になってからはファルシオンの前だけであった。それだけ長い間共に戦場を駆けてきたこの黒馬は、アレスの中で大きな位置を占めている。おそらく今アレスにとって大切なものと言えばこの牝馬と、数えるほどもないだろう。それを悲しいことだと思ったことはない。むしろ唯一無二の相手がいるということだけで十分であった。
 しばらく撫でていると機嫌を直したのか、ファルシオンは自分から頭を擦りつけてくるようになった。あぁ良かった機嫌を直してくれたか、とふっと笑った後、宿の前でずっとこうしていては邪魔だろうと彼女を厩の方へと促した。そしてゆっくり休んでくれと声をかけて、厩を後にする。

「あぁお兄さん、もうすぐ休むかい?出かけるなら鍵は預かっとくよ、帰ってきたら奥にいるから声かけてね」
「あぁ」
「あと夕飯はどうする?明日の朝食からは準備するけど」
「今日はいい、これから少し出かけてくるよ」
「そうかい、荒くれ者も結構いるから気をつけてね。お兄さん優男だからねぇ、あ、悪い意味じゃないよ。絡まれないようにね」
「こう見えても腕に覚えはあるんでな」

 なら安心だ、と笑う女将と、宿帳の記録や宿賃を払いながらアレスはそんな会話を繰り広げた。どうせ元から酒場にでも行こうと思っていたのだ、朝食の確認が出来ればそれでよかった。手続きを全て終えると、女将に一度頭を下げてから、アレスは再び先ほど通りかかった酒場の方へと歩いて行った。





 時間が少し遅いからだろうか、町を歩く人の数は段々と減って行っているように見受けられた。人の交流がある町だと言っても、大半がどこかの店か宿に入り込んでいる事が多いのだろう。
 その証拠に建物の中から聞こえてくる声には大勢の人間の声が含まれていた。とりわけ、酒場は典型的な人の集まる場所だ。近づくにつれて騒がしくなり、盛り上がっているさまが手に取るようにわかった。

「席が空いているかどうか……」

 まぁ空いていなければ別の店に行くだけであって、どうしても今日酒場に行かなければいけないわけでもない。ただ来る途中に見かけて記憶に残っていたから立ち寄ってみただけだ、とそんな事を考えながらアレスが酒場の扉を開けようとすると、それよりも先に店の中から扉が開かれた。おっと、と扉にぶつかる寸でのところで足を止めたアレスは、なんとか扉による衝撃を受けずに済んだ。しかしその後中から出てきた男達にはぶつかってしまい、どん、と右肩に鈍い衝撃が走る。

「っと」

 中から出てきたのは3人だったが、ぶつかった相手が体格の大きな男だった為アレスは少しバランスを崩した。しかしすぐさま体勢を立て直し、抗議の意をこめて男たちの方を鋭く睨んだが、ぶつかった男達はすでにアレスを通り過ぎていた。それを、少し不快そうに眉をしかめて、眺める。
 3人の構成は、一人がアレスとぶつかった体格の良い男、一人がそれより少し年輩の男、その二人に肩を抱え込まれ押されるように歩いている人物が一人。フードを深くかぶりマントで体の線を隠している為よくわからなかったが、フードの隙間から流れ出ている黒髪は胸の半ばぐらいまではあるだろうか。体格もすらりとしており、物腰もどこか優雅だ。

(……女、か)

 アレスはそう判断した。
 そう決めてから見ると、その女性は二人の男に、逃げられないように捕まっているようにも見える。

(……まぁそんなこと俺には関係ないが……しかし詫びもなしか)

 興味なさそうにアレスは一つ息をつく。酒を飲んで冷静な判断の出来なくなっている人間相手にそんなことをこだわるつもりはないが、今の連中の歩いて行く後姿を見るとそれほど酔っているようにも見えなかった。あれだけ盛大にぶつかれば、二人に肩を抱え込まれているフードの人物以外の二人は、アレスとぶつかったことに気づいているだろう。だとしたら完全に非礼を無視したということだ。
 そう考えながらぼんやりと3人の姿を目で追っていると、少し遠ざかった処で3人の姿が急に路地裏に消えた。その際、アレスの目には、フードの人物が2人に無理やり連れ込まれたように映った。
 アレスは先ほどの女将の言葉を思い出す。

「荒くれ者に絡まれないように、な……」

 つぶやいて、眉をしかめる。
 今自分が考えている事がひどく馬鹿げたものであるとアレスにはわかっていた。だから、面倒な光景を見てしまったと厄介に思っていることが表情に出てしまっているのだ。

(大体、勘違いだったらどうする。そうでなくても首を突っ込むだけ面倒な事になるだけだ)

 そう言い聞かせてみるが、アレスがこうして面倒だと思う勘は大体当たる。悔しいことに当たっている。だからこそ本当に舌打ちでもしたい気分だった。
 今の光景を見ていなければ、あの路地裏で何が起きていようとアレスには関係ない事である。善人ぶるつもりはないし、他人がどうであろうとアレスには一切興味のない事だ。このご時世、力の無い者が蹂躙されるのは自己責任だとさえ思っている。
 けれど女将の言葉を思い出し、しかも詫びもなしに通り過ぎられたことでこちらから声をかけるだけの理由を手に入れてしまった。

(……恨まれても寝覚めが悪いか)

 勘違いであればたまたま通りかかったふりをして通り過ぎればいい。そうでなければ、少し痛い目を見てもらうだけだ。
 そう思いながらアレスは、足取り重く路地裏の方へと歩き出した。





 今宵の月は満月の時の半分にも、半月の半分にも満たないような細い月だ。ほとんど光と成さないそれは、それでもなんとか暗闇に光をもたらしていた。
 その月あかりを頼りに、男たちが消えた裏路地に入り込む前に、アレスは足音と気配を殺しそっと奥の様子を窺ってみた。月のわずかな光があるといっても光届かぬ建物の奥だ、相当に暗い。けれどアレスの瞳は闇の奥までをも見通していた。もともと傭兵として夜目は利くほうであったし、男たちの着ている服が白っぽかったのも幸いしたのだろう。
 通りからあまり奥深くない場所で、なにやら言い争っているのか、想像よりも低い三つの声が聞こえる。

「……で、どう……す?」
「……なら、いと……くれ……がして……」
「……ずは、ヤ……よ……らだ」

 声と同時に、かさかさと布の擦れる音が小さく聞こえる。しかしこの距離ではどれが誰の声かはわからなかった。姿は見えると言っても誰の口が動いているのかはわからなければ、さすがにアレスとて外見から声を導き出すことは出来ない。それにどうせ内容も良く聞こえないのだから、誰の声でも問題はなかった。
 ただアレスには、フードの人物が男二人と深い接触を拒むような態度を取っていることが見てとれれば、それで十分この場面に入り込む理由になるのだ。
 アレスはふっと息をついて気持ちを切り替えると、わざと大袈裟に足を地面の砂にひっかけながら路地裏の入口に立った。ざり、と細かい砂が沈む音が響く。しかし男達はまだ気づかない。

(殺すだけなら、楽なんだが)

 はぁ、と小さく息をついてから、アレスはもう一歩足を進め、フードの女を壁に押し付けその足の間に膝を入れ固定し、今まさにフードをはずそうとしていた体格の良い男に向かって静かに声を発した。

「オイ、そこの」
「!」

 急にかけられた自分たち以外の声に、男達は一瞬だけ驚いたように体をこわばらせた。しかし一度だけこちらに視線を向けアレスの姿を確認すると、女を押さえている男はもう一人の年輩の男に目くばせし、女が声をあげぬように口元を手で押さえた。声に出されては困ることがあるのだろう、真っ当でないことをしていた証だ。やはり自分の勘は捨てたものではないな、とアレスが感嘆しつつも苦々しく思っていると、年輩の男がアレスに近づいてくる。

「なんです兄さん、邪魔をしないでいただきたいですねぇ」
「お楽しみのところ邪魔して悪いな、だが俺もさっきぶつかられて危うく怪我をしそうになったのに、詫びの一つももらえなくて少しばかり不機嫌なんだ」

 すらすらと動く自分の口が憎らしい。そんなものはまったくの嘘だ。どうでもいい。もう心底どうでもいい。怪我も一切しなかったわけだから、アレスのこれはただの意味を成さない言いがかりでしかないだろう。そんなことわかりきっているぶん、自分でも悲しくなってくる。だが、そういう体で話を始めてしまったのだから、それを貫き通すしかない。
 アレスの言葉にぴくりと男の耳が動く。

「……あぁ先ほどの方ですか……それは申し訳ありませんでした、あいつに代わって謝らせていただきます、すいません」
「先ほどの、ということは気付いていたくせに無視をしたということだな?」
「それは……」

 揚げ足を取るように言えば、男は困ったようにやれやれと肩をすくめた。厄介な相手に絡まれたとでも思っているのだろう。実際アレス自身こんなどうでもいい絡まれ方をしたら無視をするか脅すか、とにかく機嫌を悪くするに違いない。
 まぁ、今回の場合それが目的であるのだから上々といったところだ。
 男は酔ってもいないのに厄介な絡み方をするアレスを不可解そうに眺めて、あぁ、と小さく声を上げた。

「あぁなるほど、貴方もそこの人がお目当てでしたか?」

 ちらり、と男の視線が通路の奥のフードの女に向けられた。相変わらず男に口を押さえられているが、フードの下から見える瞳はこちらのやりとりをじっと見ている。

「……そうだ、と言ったら?」
「ははぁ……しかし私どもが先に手を出したのですから、今日のところはこれでお引取りいただけませんか。お互い嫌な思いはしたくないでしょう」

 卑下た笑みを浮かべ男はアレスの手を取ると、そっと数枚の銀貨を握らせた。早くどうにかしろという奥の男の視線を感じたのだろう。

「……金、か」

 手の中に握らされた冷たい感覚を転がし、アレスは小さくつぶやいた。
 ここまではくだらないことに手を出したと思っていたアレスだったが、この男の態度にすっと気持ちが冷めていくのがわかった。傭兵のアレスが言える立場ではないだろうが、金で人を物のように扱おうとするその考え方が気に食わない、と唐突に思ったのだ。それは同時に、心のどこかで金で使われるだけの自分をくだらなくも思っていたからなのだろう。その思いを振り切るように、アレスは手の中の銀貨を男に向かって投げ返した。

「……くだらん。俺は金が欲しいわけではないし、無理やり事に及ばないといけないほど金に不自由もしていない……傭兵を怒らせると怖いぞ」

 冷めた気持ちのまま、アレスは冷酷さを伴った言葉を吐き捨てる。おそらく殺気も出ていたに違いない。その場の空気が少し変わった。
 その時、ざわ、と路地裏を吹きぬけた風がアレスのフードを揺らし、布地を頭から引きずり下ろした。フードの中の金の髪がさらりと宙を舞うと、それを見た男が今度こそ本気で顔をこわばらせた。

「金の髪の若い傭兵……お前まさか……!!」

 黒騎士、と声もなく男の唇が戦慄いた。へぇ、とアレスはつぶやく。

「知っているのか。有名になったものだな、俺も」

 今更の事実をつぶやいて唇の端を上げて笑ってやると、男の顔からさぁっと赤みが引いて行くのがわかった。金の髪など珍しくもなんともないが、思えばこのあたりで金の髪の傭兵というものは、名の知られた今となってはアレスのみのことを指すのかもしれない。
 背後からでは男が何を言ったのか聞こえなかったほかの二人は、まだアレスの正体に思い至っていないのだろう、男が急に及び腰になった事に不審の目を向けている。その気配を感じつつ、どん、と壁を叩いた。

「さっさとどこかへ消えろ、俺は機嫌がよくない」

 極め付けに戦場で放つような強烈な殺気を発しながら睨み付けると、二人の男はお互いに顔を見合わせた。普通の人間ならばこの殺気には耐えられないはずだ、せめて二人組だったのが幸いだっただろう。
 男たちはもう一度アレスの方へ視線のみを向けた後、小さく舌打ちをこぼした。そして、どん、と女の体を押しのけると何も言わずに路地裏の奥へと走り去っていった。
 正体がわかった途端に、所詮はこの程度か、とアレスはフンと鼻を鳴らす。結局あの男達にとって、これらの行為はすぐに捨てられる程度のものなのだ。

(確固たる信念も意志もなく、ただその時に流されて生きているだけの――くだらない生き方だ)

 そんなことを考えると同時に、有名になることは無駄な争いを生むばかりでなく、無駄な争いを避けることもできるのかということを実感していた。やはり最後に物を言うのは、所詮は力だ。力こそが全て――その世界に生きているアレスにとっては当たり前のことだったが、なんとなく、心が冷めていくのを感じていた。

(まぁ、今はそんなことはどうでもいいか)

 さて、と女の方へ視線を向けてみて、アレスは眉をしかめた。壁に押し付けられ動きを封じられていたはずの女は、今まで襲われていたような素振り一つ見せず、暢気にフードやマントについた埃を掃いながら男たちが去って行った方角を眺めていた。今起きたことすべてどうでもよさそうな印象を受けるほど、落ち着いた態度を保っているのだ。礼を言われたかったわけではないが、その態度がなんとなく癪に障ってイラついた声で話しかけた。

「おい、そこの女」
「……私か?」

 回りには誰もいないのに、振り返ってそんな風に首をかしげてとぼけてみせる女に、アレスはチッと舌打ちをした。

「あんた以外に、この路地裏に誰がいるんだ……」
「まぁ、それはそうだが……」

 女は考えるように手を口元に寄せ、思ったよりも低い声で歯切れ悪く答える。そのはっきりしない態度にまた苛立ちを覚えたが、まだ耐えられる範囲だった。

「……まぁいい、それより酒場に一人で行くのはやめておけ。それが目的であるなら知らないが、ああいう奴らには女だからってだけで狙われるぞ」

 これ以上関わるのも面倒だ早いうちにここを離れよう、と早口でまくしたてたアレスの言葉に、しかし女は小さく首を振った。

「悪いが……何か勘違いをしているようだな」
「何?」
「私は男だ」

 そう言った直後女の手によってフードが外され、中から端正な男の顔立ち現れた。それに僅かに目を見開く。フード越しに見た感じではずっと女だと思っていたが、正面からしっかりと見た顔立ちは、中性的ではあるが男のものとわかるそれだった。

「……男」
「フードもかぶっていたし、声も出さなかったとはいえ、そんなに間違えられるものか……」

 真実を知った途端、そう言ってふむと首をひねる人物の声は、男以外の何者にも思えなくなっていた。思い込みとは恐ろしいものである。
 年はアレスと同じぐらいか、少しばかり上のようだ。フードの中からばさりと現れた髪は夜の闇も手伝ってか漆黒に見え、背中の半ばまで伸ばされている。それが、アレスが彼を女だと思った原因の一つだ。
 騙された、と思ったが早とちりをしたのは自分であるのだから、驚きの後に訪れた怒りのぶつけどころが見当たらない。仕方なく、まぎらわしい髪型をしているからだ、とアレスはつぶやく。
 しかしこれが女ではなく男だったということは、この男か、逃げていったやつらのどちらか、あるいは両方が。

「……男同士、か」

 特に感情をこめずにつぶやいたアレスの言葉に、男はなんの表情も浮かべていなかった。
 発した声が多少冷たい言葉になってしまったのは蔑んでいるからではない、ただアレスには興味がないだけだ。
 そういったものは戦場では良くあることだ、特に今更何を言うつもりもなかった。戦争が激しくなればなるほど娼婦を買いに行く時間も場所もなくなる。金だって戦争中にもらえるものでもない。ならばどうするか、手っ取り早く手短なところにいる人間で済ますだけの話だ。見下げた根性ではあるけれど、それが普通になっていくのだ。
 アレスとてこのように整った容姿だ、傭兵としてまだ名を上げていなかった頃は、何度か頼まれたことがあった。アレスの力を見くびってのことだろう、ふざけるなと拒否しても事に及ぼうとする輩もいたが、それは全て切り捨ててきた。切り捨てるだけの理由と、切り捨てられるだけの弱い人間だったということだ。
 それだけの力があるアレスだからこそ今までそういった事に巻き込まれずにやってきたが、弱い人間ならばすでに幾度か経験している者もいることだろう。とりわけ傭兵などという実力世界において、力なき者はねじ伏せられるしかないのだ。
 そんなわけで男同士の色恋について、アレスはあまり好ましく思ってはいない。だからといって本人同士が納得しているなら口出しするつもりもないし、金も力も手に入れた今となっては好んで男同士に走ることもないからその気持ちもわからない――というのが基本的な考えではあるが、目の前のその男の容姿を見れば先ほどの男が事に及ぼうとしていたのも理解できる気がした。長い髪は女性のそれを思わせる、瑞々しく滑らかなものだ。顔も男だとわかるといっても決して悪くない、むしろ良い。少し低めの声はそれでもよく通り聞き心地の良いものだった。
 おそらく酒場でフードを外していたところを先ほどの男たちに絡まれて、といったところだろうか。そんなことを短時間で考えて、ふとそんなことを思ってしまった自分に嫌気がさしたのだろう、アレスはそれを誤魔化すかのように思わず口を滑らせていた。

「他人のことをどうこう言うつもりはないが、あんな頭の悪そうなのが好みなのか」

 言えば男は、心外そうに肩をすくめる。

「気色の悪いことを言わないでもらおう、私にとて選ぶ権利はある」
「……それは、その性癖については否定するつもりはないということか」
「さて、な」

 初対面の人間にそんなことを話すつもりはないというのだろう、男は小さくつぶやいて含みのある笑みを浮かべたままふいと視線をそらした。それならばアレスとて同じだ。誤魔化すために思わず口を滑らせたこととはいえ、これ以上話を長引かせることもない。

「まぁお前がどんな趣味を持っていて、誰と何をしようが俺には関係ない」

 自分で言ってなんだがまったくその通りである。男も、それに賛同した。

「それはそうだな。だから正直何故お前があいつらに腹を立てているのか……あぁそうか、肩がぶつかったとか言っていたな。その謝罪をと……」
「それも割り込むための口実だ」

 そんなくだらないことで腹を立てる人間だと誤解されるのも癪で、アレスはすかさず訂正を入れる。すると、損な性分だな、と男は笑った。笑い事ではない、と心の中でつぶやきつつ、アレスはこの怒りとも悔しさともなんとも形容しがたい気持ちをぐるぐるとさせながら再度男に向き直った。どうもペースが崩されているのが気に食わなかった。

「……いいか忠告しておく。その目立つ風貌で、酒場に一人で出入りするな」
「目立つか……?それはともかく、酒場での会話を拾うのが色々な情報収集に手っ取り早いんだ」
「ならば腕に覚えのない奴が情報収集だなんだと言って軽はずみに相手を誘うな。こんな風に助けが入ることはもうないと思え」
「誘ったつもりも一切ないが……まぁ忠告だけは有り難く受け取っておこう。腕に覚えがないかどうかは別だが、な」

 素直に礼を言うかと思ったが、最後の一文にぴくりと顔色を変える。確かにアレスは相手の男の腕など知らない、だが見たところ武器らしい武器を携えてもいない。あるいは短刀などを隠し持っているのかもしれないが、それにしても挑発的な物言いだ。その時点でアレスの苛立ちはむくむくと湧き上がってきていた。

「あとそうだな……助けの必要はなかったが、追い払う手間が省けて助かった事は礼を言おう」

 わざわざすまなかったな、という極めつけのその言葉に、アレスは目の前が怒りで真っ赤になった気がした。





(……あぁクソ、あんな奴助けるんじゃなかった……!)

 あの後、男をその場に捨て置きアレスはすぐさま踵を返した。そして大通りを歩きながら、思いきり地面を踏みしめる。もしこれが建物の二階であったなら、下の階の者から苦情が入るであろう荒々しさだ。
 ――苛立ちが収まらない。
 あの男のあの態度はなんだ。礼を言えと言うつもりはなかったが、あまりに無礼ではないか。

(必要はなかっただと?ふざけるな、あのままいけばお前はあいつらに……)

 あの場で手をあげなかった自分に拍手さえ送ってやりたいものだった。いや、一撃ぐらい叩き込んで己の無力さを痛感させてやればよかったのだ、と今になって思うが、今更戻るのもきまらない。
 言葉のみを捉えると、随分と挑発的な態度で、明らかに感謝の気持ちがないように感じられた。アレスの物言いも不遜だったとはいえ、忠告は至極真っ当なものだったはずだ。

(なんなんだあの男は……!)

 くそ、ともう一度吐き捨てる。
 今日はもう酒場で情報収集、などという気にはなれなかった。たとえそれが一番の方法だと同意見だったとしても、あの男と同じような目的で酒場に行く気になれなかったのだ。アレスは酒場から遠く離れた小さな食事屋で軽く夜食をとった後、苛立ちを抱えたまままっすぐに宿へと戻っていった。



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