翌日執務室で顔を合わせたシャナンは、いつも通りの彼だった。いつも通りに挨拶をした時に少しだけ意味ありげに目を合わせただけで、昨日の事については、一切、何も言わなかった。 あの熱が、激しい情欲が嘘であったかのように、書簡に目を通している彼の姿は清廉潔白であるかのように見えた。彼の姿を見てやましいものを抱えてしまうスカサハでさえそう見えているのだから、他の人間からすれば実に清らかに見えていることだろう。 その姿も手伝って、昨日の事は夢だったのではないかとさえ思う程に、日常への変化は一つもなかった。ただ、スカサハの体がどこかすっきりとしているだけである。そして、いつもより起きてくるのが遅かったシャナンの顔色が、少し良くなっているように、見えた。 シャナンのそうした態度を受けて、スカサハもまたこれまでと変わらぬ態度でシャナンに接した。昨晩、退室し部屋で休んでから、今朝シャナンに会うまでは、何かしら二人の関係が変わってしまったかもしれない、という不安と期待とが入り混じっていた。だが実際は何の変化もなかった。 シャナンがそうするのであれば、そうしたいのであれば、スカサハもそれに倣うだけだ。そもそも、シャナンのしたいように、というのが元々の目的であった。それを建前に、自分の欲望を押し通してしまっただけなのだ。 何より、あんなことがあっても変わらないでいられるのなら、その関係を自分から変えてしまう事を恐れていた。 (これまで通りでいいのなら、俺はまだシャナン様のそばにいてもいいんだから) 例えば変に口を滑らせて、そんな事を言うようならばお前は用無しだ、と言われることが怖かった。側にいられなくなることが、一番怖かったのだ。 (……まぁ、シャナン様に限ってそんな事を言うとは思わないけど) そう思いながらも、スカサハは改めて己を戒める。 ――一度きりの情事を、勘違いしてはいけない。 あれはきっと、彼の心にある寂しさや苦しさを孕んだ空虚が引き起こした間違いの一種であったのだ、と思うことにしている。そうでなければあのシャナンが、望んでスカサハに抱かれるなんて事があるだろうか。スカサハの妄想以外ではありえない。 ただ、もしシャナンがあれで息抜きになったというのなら当初の目的は果たせたことになる。それならそれで良かった。どうせ元々叶うはずがないと諦めていた夢なのだから、それ以上を望むつもりはなかった。 (シャナン様が元気になられたのなら、それでいいんだ) それは負け惜しみや言い聞かせではなく、本心からそう思っていた。だからスカサハは、これまで通りシャナンと接することが出来るのだ。 それから数日は、これまで通りの日常が経過した。 シャナンがあの話題を出すこともなく、スカサハがあれについて問いただすこともない。やはりあれは何かの間違いだったのだ、と残念なような、少し気分が軽いような、そんな日々だった。 +++ その日は、執務の合間に街の様子を見てくると言いだしたシャナンに付き従い、スカサハもイザークの城下町を歩いていた。崩れた建物や打ち捨てられた家など戦禍の爪痕はまだところどころに残っていたが、ドズル家に占領されていた頃に比べてこの土地の人々の表情に笑みが戻ってきている。 ――当然だ、正統の王が立っているのだから、とスカサハは前方を歩くシャナンを見ながら自分の手柄であるかのように誇らしく思った。戦争をしていた頃は、戦場でこそその真価を発揮する人だ、と神剣の美しさと当人の勇猛果敢を褒め称えていたが、こうして見るとやはり王としてこの場に立つにふさわしい人だ、とも思う。 歩き、人々に声をかけながら、シャナンは語った。 「ここに戻ってきた時は驚いたな。私の知っていた昔の面影が随分となくなってしまっていた」 「ドズル家はグランベルの人間ですからね、まぁ、自分たちに慣れ親しんだ景観に作り替えてしまったんでしょう」 なにせ十五年以上の長きにわたりこの地の偽の王として君臨していたのだ。街並みを作り替えるには十分な時間だろう。 それでも、ダナンに王都として占領されていたリボーよりはずっとましだった。元よりその地で力を持つ部族によって街の毛色は多少違ってくるが、リボーは明らかにグランベル様式の王宮へと変遷を遂げていた。戦後、リボーに立ち寄った際にシャナンが忌々しげに表情を歪めていたのをスカサハは覚えている。 ただスカサハも、古きイザークの姿というものには詳しくない。スカサハが知るのはイザークの大地でもほんのわずかな領土と、シャナンが伝える過去の話だけだった。ゆえに建物については何も思うところはなかったが、人々に活気が戻っている事は素直に喜ぶべきことだった。 「でも本当に、街もきれいになりました。シャナン王の統治があってこそだと思いますよ」 見回しながら何気なく言った言葉に、シャナンの足が止まった。おや、とスカサハも立ち止まり、その背中を見つめる。何か変な事を言っただろうか、とどきどきとしていると、しばらくして、シャナンの頭がゆっくりと左右に振られた。 「――いや、私にそんな力はない。お前を初めとするイザークの民たちが力を尽くしてくれたおかげだ」 「それも力を尽くしたいと思える王がいるからです。国にとっても民にとってもそれは大切な事でしょう」 言ってから、その通りだ、とスカサハは自分の言葉に内心で強く頷いた。 この人が王で本当に良かったと思っている。戦争時、ともに戦ったヨハルヴァのように、血の繋がりだけで理不尽な暴力に参加させられる事になるのはあまりに悲惨だ。上に立つ者が自分と同じ理想を、いや、そもそもが理想であるという事はそれだけで至上の幸福なのだ。 「貴方は皆のおかげだと言いますが、きっとみんなそう思っているはずです」 「みんな、か」 行き交う人々が笑顔で挨拶をしてくる現状を見ても、スカサハの意見は正しいように思えた。 シャナンは一言つぶやいたきり、しばらく無言になってしまった。照れているのだろうか、と初めは思ったが、どうも何かを考え込んでいるようで、それを遮るようにどうしたのかとは聞けなかった。 思えば、シャナンに向かって貴方は良い王ですよということを言ったのは初めてだったかもしれない。スカサハはずっと昔からシャナンが一番の王だと思っており、そんな事は口に出すまでもないと考えていたからだ。 (ひょっとして、説得力に欠けると思われてる?) スカサハの意志は、基本的にシャナンに妄信的に出来ている。勿論、これまでの行動を見てきたからこそそうなったわけだが、スカサハの盲目っぷりを知っているシャナンにとってはスカサハの言は説得力が足りないのかもしれない。 とはいえ、元々自分への称賛を受けたがる人でもなく、そのぐらいで気を悪くするとも思えなかったが、いつもと違う様子に少し不安になり、スカサハは横からそっと表情を覗き見ようとする。だがそれより一歩早く、シャナンが足を踏み出した。 「……そうだといいが」 「え?」 「なんでもない、そろそろ帰るぞ」 そうつぶやいてまた歩き出したシャナンの後ろに、スカサハも慌てて続いた。そのままずっと後ろをついて歩いたため、その時どんな表情をしていたのか、結局スカサハには最後までわからなかった。 一通り見回りシャナンの執務室まで伴をしたスカサハは、食事のために一度場を離れることにした。本当は昔の様にシャナンも一緒に、と誘いたいものだったが、そうはいかないことも重々に承知している。懸命に王として生きている人たちがいる中で、昔の方が良かった、などとスカサハ一人子供じみた事を言えるはずもなかった。 「では、また後程……」 「スカサハ」 ふと、シャナンがスカサハを呼びとめた。 「なんですか、シャナン王?」 「今日の夜は空いているか?」 「? はい、特に何も……」 問われてもすぐに返答出来るほどには、スカサハの夜が忙しいことの方が少ない。大体、一介の近衛兵にどうしても外せない用事などないだろう。 「ならばよかった。色々と終えて時間ができてからでいい、私の部屋に来てくれ」 「あ、はい、わかりました」 突然の申し出を疑問に思いはしたものの、スカサハは素直に返事をした。王の、なによりシャナンからの呼び出しをスカサハが断るはずもない。 深く一礼をして、スカサハは御前を離れた。その際、先ほどよりも軽い足取りになっている事にスカサハ自身も気が付いていなかった。 +++ (う〜〜〜〜〜〜〜……ん) うろ、うろ、と不審者よろしくスカサハは兵たちの詰所の廊下を歩いていた。それを奇異の目で見ている他の兵達に何も言われないのは、かれこれ三十分近く同じ動作を繰り返しているからだ。何度か声をかけても上の空なため、その内誰も声をかけなくなった、というだけの話だった。 ――時間ができてから。 スカサハが悩んでいるのはそこだ。あの時は特に何も考えずに返事をしたが、夕刻にはすでにスカサハは自由の身だったため、時間を持て余していた。 (まだちょっと……早すぎる、気がする) いや、だがシャナンがスカサハの予定を知っていてもし待たせていたら、とも考える。待たせるのはあまりに心苦しい。だが、まだ早いだろう、と言われるのも常識を理解していないようで気恥ずかしい。ここに双子の妹がいたら、そんな事で悩むなんて馬鹿じゃないの、と一言ですっぱり切り捨てられるかもしれないが、ことシャナンの事に関してはあまり平常心でいられないのがスカサハという男なのだ。 (今日ちょっと様子変だったし気になるから早く行きたいけど……) そんなことを考えながら、とりあえずいつもシャナンが執務をしている時間が過ぎるのを待ち、闇色が空を覆い始めた頃にスカサハは王の私室の前に立った。 早すぎただろうか、あるいは遅かっただろうか、と不安に襲われながらもゆっくりと扉を叩く。 「シャナン王、スカサハです」 「――あぁ、入っていいぞ」 静かな声が返ってくる。慌ても、怒りもしていない普段通りの声に安心し、失礼します、と声を出し、扉を開いた。 そこに広がる光景に、スカサハははっとして一瞬だけ動きを止めた。 ――この間のことを思い出さなかった、と言ったら嘘になる。 この数日、あの夜の出来事が話題に上がった事はない。だから、すっかりなかったことになっていると思いがちだが、意識的に忘れるようにと努めて言い聞かせているだけなのだ。実際は、あの時の光景を思い出さなかった夜はない。そう――夜だけだ。あの時の部屋の暗さを思い出す夜間だけ、スカサハはあの夜を夢想し、時に自身を慰めている。 だが、スカサハはシャナンをそういう目でのみ見ているわけではない。変わらず、剣を捧げ忠誠を誓うべき主君であるとしており、そこに色恋の感情はなかった。説得力はないかもしれないが、それもスカサハの本心だ。 息を一つ吸って、スカサハは後者に気持ちを切り替えた。あの夜の記憶がすっと影を潜めるのがわかった。大丈夫だ、と自分を納得させ、足を進める。 室内のシャナンは、窓際に設えられた横長の椅子に腰かけていた。元はヨハン達が使っていたものだが、わざわざ処分する必要もないとそのまま使っているものだ。 「なんでしょうか?」 「呼びたてて悪かった、詫びと言ってはなんだが、少し飲まないか」 そう言って、シャナンは自分の正面の椅子を指さした。その手前の机の上に置かれていたのは、この地方ではあまり見かけない銘酒の瓶だった。 「突然、どうしたんですか?」 「この間送られてきたんだ、リーフ王から……という名目にしてあったが、おそらくはフィンの手引きだろう。以前レンスターで食事をした時に私が美味いと言った事を覚えていたらしい」 「そうなんですか」 軽く頭を下げてスカサハがシャナンの向かいに座った時には、すでにグラスに透明な液体が注がれていた。まだ飲むと言ったわけではないのに、と思っていると、それを見越したようにシャナンが笑う。 「嫌なら断ってもいいぞ」 「……いいえ、いただきます」 スカサハが断るなど微塵も思っていない意地の悪い笑みに、スカサは悔しさと喜びとが半分ずつだった。子ども扱いされているのか、と思うと不愉快だったが、スカサハとの付き合いの長さを象徴しているのだ、と思えばそれが嬉しくもあった。 グラス同士を打ち合わせ音を響かせた後、グラスを傾けて口に含んだ。わずかに酸味が舌を刺激したが、喉を通る頃には濃厚な香りが口から鼻にかけて広がっていた。スカサハにはあまり酒の味の違いはわからないが、とりあえず、美味しいものだ、という感想だ。 シャナンも一口飲んで、納得するように頷いて、また口に含む。やはりお気に入りらしい。そして不意に、何かに気が付いたように笑った。 「こうしているとまるでイザークにいないみたいだな」 「あぁ――そう、ですね……」 異国の装飾が施された部屋で、異国の酒を飲みながら語らう。言われてみれば随分と倒錯的だ。だがそれを許せる時代になったということは、喜ばしい事でもあった。過去の負の遺産を憎むべきものでなく、共存すべきものとして受け入れる事が出来ているのだ。帝国憎しと力を蓄えていた幼い頃からは考えられない進歩だろう。 けれど、ふとスカサハは疑問を口にする。 「元通りには戻さないのですか?」 「国がもっと落ち着いて、王の私室なぞに財源を割くような余裕が出来れば考える」 「……まぁ、いいですけど」 「不満か?」 「グランベルのものが嫌だというわけではなくて、折角の伝統を蔑ろにするのも勿体ないかなと思っただけです」 もっともらしく言ってみたが、本心はスカサハの我侭だった。シャナンがイザークよりもグランベルに――彼らのいる場所に心があるのではと思ってしまう、スカサハのくだらない嫉妬だ。 シャナンは再び、まぁ考えておこう、と言って、グラスを傾けた。 「――呼んだのは、お前の処遇についてだが」 急に切り出された内容に、スカサハは動きを止めてシャナンの顔を見つめた。想像もしていなかった話題にどくりと心臓が脈打つ。固まってしまったスカサハとは反対に、シャナンがグラスを弄ぶ動作に変わりはなかった。 「戦争が終わった時、私はお前をリボーかソファラか……どこかの領主としてその地へ行ってもらうつもりだった」 「……俺は不要でしたか?」 落胆するかのように、思わず声が小さくなってしまったのは仕方ないだろう。側に置いておく必要はないと言われたようなものだからだ。そして、このタイミングで話をするのはその予定があるからではないだろうか、と勘ぐってしまった。 だがシャナンがそれを望むのなら、スカサハは一言で従うつもりだった。スカサハの気持ちがどうであれ、シャナンの意思を尊重することがスカサハにできる忠義であると思っている。 今は近衛隊長の地位につかせてもらっているが、これもほぼ無理にスカサハが所望したものだった。戦後直後のシャナンを一人にできるほどスカサハは彼の心中に鈍感ではなく、シャナンから今後の話が出る前に自分から申し出たのだ。まだ明確に決めかねていたシャナンはその言を素直に受け入れたが、色々と落ち着いた今、ようやくその話をする気になったのだろう。 不安げな顔を浮かべるスカサハに対し、シャナンは首を振った。 「いや、お前には出来るなら側にいてもらいたい。こうして二人で酒を飲んでくれるのもお前ぐらいしかいないからな。だが、もっといい位を与えてやりたいとも思っている。傍系だが間違いなくオードの血を引いているのだから、私の近衛など勤めなくても……」 「俺はシャナン様にお仕えできればそれでいいんです」 見当違いの事を言いだすシャナンの目を見て、はっきりと告げたそれは、紛れもない本音だ。 スカサハは地位や名誉などを求めていない。金や豪華な住居なども必要なかった。ただ敬愛するこの人のそばで、この人の動向を見守って、そして朽ちていければそれでいいと思っていた。それだけをずっと夢見てきた。人には理解されないかもしれないが、それがスカサハの幸せだったのだ。 「だから、どうか……」 遠くに置くなどと言わないで欲しい、言われれば従うしかなくなってしまうのだから――。 視線を伏せ、そんな願いを込めてつぶやくと、ふ、とシャナンが笑った気配がした。はっとして視線を戻すと、それはどこか泣きそうな顔にも見え、それが寂しくてまた視線を床に落とす。 (あぁまた、そんな顔を) 一体どういう心持ちなのかスカサハにはわからない。ただひどく、辛そうだ、と思った。 「スカサハ」 短く名前が呼ばれる。 なんですか、と顔を上げたすぐ目の前に、机の上に膝をつき身を乗り出したシャナンの顔が迫っていた。驚いて身を引こうとしたが、手に持ったグラスの中身をこぼす事を恐れて俊敏な動きは取れなかった。身体も固まってしまい、仕方なく、至近距離のまま言葉を紡ぐ。 「なん、でしょう」 「お前は私の――側にいてくれるのか」 確認のような言葉に、ずっとそう言っているのに、とスカサハは瞳を見つめ返した。そして、ゆっくりとグラスを机の上に置きながら口を開く。 「俺は……貴方がそれを許してくれるのなら、ずっとお側に、置いてください」 言葉が終わると同時に、シャナンの手がするりとスカサハの頬を撫でた。心臓が跳ねる。緊張で固まってしまって動けない唇に、相手のそれが近付き――ふと、シャナンの動きが止まる。 「お前は、口付けはしたくないんだったな」 「あ、」 したくない、というよりもしてはいけないものだと勝手に自分で戒めていただけのものだ。だがそれをシャナンが気づいていたとは思っていなかった。あのわずかな逡巡の間に悟られるとは、自分の技量不足を嘆くべきか、相手の観察眼を褒めるべきか悩ましいところだ。 「したくないならそれは強要しないが……それ以外なら、いいか?」 頬に触れたままのシャナンの指がゆっくりと輪郭をなぞる。それはただくすぐったいような感覚だったが、すぐにぞくぞくとした感覚に変わり、その先を覚えていた身体が勝手に反応して自分の胸の中へシャナン上半身を引きよせていた。 背に回した手から伝わる鼓動と、布越しに寄り添う熱と、ふわりと香る髪の香がスカサハをあの夜へと引き戻す。 ――だが、まだだ。まだ飲まれてはいけない。燻る劣情をぐっとこらえてスカサハは問う。 「俺で、いいんですか……?」 「お前だからいいんだ。お前が嫌でないのなら、もう一度――」 言葉の途中で、体ごと机の上から引き寄せた。そのまま豪華な装飾の施された長椅子に横たわらせ、見下ろすように馬乗りになる。 今日まで全くそんな素振りを見せなかったのに、何故今になってまたスカサハを誘ったのか。何を考えてスカサハに抱かれるのか――普段なら頭に浮かぶべき疑問は、組み敷いた二つの瞳に真っ直ぐ見つめられ、全て欲望に飲み込まれていった。ずっと抑えていたものが、もう一度求められた事で激しく暴れ出している。 (俺で、いいなら) 酒の入った頭では前回のようにシャナンの身体を気遣った行動がとれないかもしれない、とぼんやりと思いながらも、もはや止められそうにない。 そのまま、無防備に電光にさらされた喉元に顔をうずめたスカサハが、シャナンがどこか諦めたような表情を浮かべたことに気づくことはなかった。 以来、それが二人の合図になった。 タイミングは必ずシャナンからだ。切なげに目を細めながらシャナンがスカサハの頬を撫でる。スカサハはその腕をとらえ、恭しく口づけて、そして夜は始まる。 それは夜だけに行われる二人の秘め事だった。相変わらず、昼間は王とその従者として――そして親族としての親しさも見せながら、日々を過ごしている。そこには何の変化もなかった。スカサハが下手な行動を取らない限り誰もその関係に気づく者はいないだろう。それほどにシャナンの行動は徹底しており、もしスカサハが他人に夜の姿を説明したとしても、誰も信用しないはずだ。当の本人のスカサハでさえ、昼間と夜との温度差を思うと、いまだに自分が長い夢の中にいるのではないかと思う事があるのだ。 あれから幾度か夜を繰り返したが、シャナンが何を思って自分に抱かれているのか、スカサハにはわからないままだった。 色々と忘れさせてほしい、と彼は最初に言った。それは大事な人達を失った寂しさなのだろうか。あるいは背負った重圧なのか。それとももっと他の事なのか。詳しく話してくれた事も、尋ねたこともないので一つたりとも推測の域を出なかった。 スカサハだからいい、とも言われた。だがそれも、その頭に、都合が、という言葉が隠されていたのかもしれない。 ただ、理由はなんでも良かった――いや、良いわけではないが、一番重要なのはそこではなかった。以前よりも何かと考え込む事が多くなった彼が望むように、他でもないスカサハが、彼の悩みを忘れさせてあげられるならそれでいいと思ったのだ。 (だって俺は、あの人に……他に何もしてあげられないから) スカサハにはずっと、そんな負い目があった。スカサハがいくらこの身をシャナンに捧げると意気込んだとしても、王としての立場を肩代わりしてやることも、彼が必要とする誰かになる事も出来ず、ただその身を守り続ける事しかできない。それも、国が統一されつつある今では形だけのものだ。 だから、どんな理由でもシャナンに必要とされているというだけで、スカサハにはこれ以上ない幸福な時間だったのだ。 ――そう、信じ込まなければならなかった。 たとえ本心がどこにあったとしても。 そうやって線をしっかりと引いて己を管理しなければ、スカサハは限度を超えてシャナンの全てを欲してしまうだろう、という予感があった。幼い頃から積もりに積もってきた想いの塊は、一度たがを外したら体だけでは飽き足らずその心まで求めようとするだろう。全てを手に入れても、なお籠の中に捕らえて自分だけのものにしようとするかもしれない、と想いの強さを自覚している。 だからシャナンが求める時に、それに応えるのがスカサハの役目だった。この関係にそれ以上を求めてはならないのだ。 (……そう、あるべきなんだ) スカサハは全てシャナンのものであるが、シャナンは決してスカサハのものではない――そうやって言い聞かせて、なんとか己を律していた。 しかし、そう律するのとは裏腹に、スカサハは現在の状況に愚かにも僅かな希望も抱いていた。 (あの方が何を思っているのか、今はわからないけど……続けていればひょっとするといつか話してくれるかもしれない) スカサハにその身を曝け出したように、彼が心の内に秘めているものを、全て。それは楽観的すぎる希望だと理解はしていた。だが、その希望が消える事はなかった。 (だって――俺を、選んでくれたんだから) 偶然その場に居合わせたのがスカサハだっただけの話だとしても、結果として今、選ばれているのはスカサハだ。他の誰でもない。その優越感が、スカサハの心に一筋の光をもたらしていた。それに縋るように、ひょっとすると幼い日の憧憬が恋慕となって成就するのかもしれない、と期待してしまう卑しい心を、完全に切り捨てることは出来なかった。 現状で満足しようとする心と、その先に期待を抱く心。そんな相反する気持ちを抱えたまま、二人の夜は幾度か繰り返されていった。 <<1 3>> |