乾いた冷たい風が、屋外の訓練場に吹き込んだ。
 朝早くから剣の素振りをしていたスカサハは、一瞬ふるりと身体を震わせたが、鍛錬の手を止めることはなかった。幼い頃はサボってしまうこともあったが、解放軍としての意識を持つようになってから今日まで、可能な限り欠かしていないもはや日常の一部となっていた。
 一人剣を振るっている間はほとんどが無心だ。敵を想定して振り下ろす位置を狙ったり、自分の姿勢が崩れていないか意識して体中に神経を張り巡らせている。楽しい、とは思わないが、決して苦痛でもない時間だった。
 だが、今日はいつもと違っていた。剣を振り、鋭く虚空を見据えながらも、脳裏には全く別の光景を思い浮かべていた。
 今スカサハの瞳に映っているのは、整備された城の広い訓練場ではない。草が生え、土がむき出しになっているごつごつとした大地だ。そして、その地を踏みしめている少年の姿だった。
(あの頃は……楽しかったなぁ)
 それは遠き日の、隠れ里での厳しくも優しい稽古の情景だ。小さな体に大きな剣を構え、必死になって剣を振っていた姿を思い出すと、じわりと心を満たすものがあった。そこには確かに、生き甲斐と呼べるものがあったように思えるのだ。
 今が辛い、というわけではない。だが、当時は幼いながらに信じた正義のために、己を鍛えているのが楽しかった。強くなる事だけ考えて、打倒帝国を掲げて剣を振るう間は、自分がひどく崇高な事をしている気になったものだった。例えそれが人を屠る事であったとしても。
(それに、あの頃は)
 ふと、ぐるりと視線を巡らせて、訓練場を見まわした。そして、当然ながら探していた人物がいなかったことに落胆して、ふ、と軽く息を吐いた。
(……ま、いるはずないよな)
 そうしてまた、意識を過去へと飛ばした。
 遠いあの日々を思い出すと、スカサハの脳裏にはまず一番に思い出す姿があった。それはあの頃、いつもスカサハ達の傍らに立ってくれていた、仕えるべき王の姿だ。スカサハが挫けそうになった時、進む道に迷いそうになった時、優しく差し伸べられる手は温かかった。そして誰よりも強かった。少なくともスカサハは、彼こそが大陸一の剣士であるとそう信じていた。
(その人が、いない)
 それがひどくつまらない事のように思えていた。
 普段であれば、このような事を考えるのは集中力が切れているからだ、と己を叱咤していただろう。だが、そんな気も起こらないほどにスカサハの心は浮ついていた。
 近頃、何をしても満たされない心がある事には気が付いている。心の中に靄がかかったような感覚が長く続いており、気がつくと意識がふわふわと宙を漂って、昔を思い出す事が多かった。剣を握っている時でもそうだ。何のために剣を振るっているのかわからなくなる時がある。
 今、本気になったスカサハの相手を務められる戦士はこの国にはいない。オードの血のなせる技か、スカサハの技量は国の戦士の誰よりも抜きんでていた。昔を懐かしんで回顧するのは、あの頃のように自分よりも強い相手に立ち向かっていく事がなくなり、鍛錬に意味を見出せなくなっているからかもしれない。
 そんな事で手を抜くようではいけない、と思う気持ちもあるのだが、何をしてもやる気が出て来ないのはどうしようもなかった。
(あー、もうっ!)
 心の中の靄を振り払うようにがむしゃらに剣を振り下ろすと、ひ、と短い悲鳴が近くから聞こえた。はっとして視線を向けると、同じく鍛錬をしていた兵がスカサハの気迫に押されたらしく、目を丸くしてこちらを見ていた。
「あ、す、すみません、あまりにもすごい迫力だったので、つい声が……」
「いや……構わないけど」
「は、はい、ありがとうございます!いつもは遠くから眺めさせていただいていたのですが、たまたまスカサハ様が隣に立たれて……!」
 しどろもどろになりながらも頬を紅潮させて話し始めたその男を、スカサハはぼんやりと眺めていた。人の顔を覚えるのは苦手ではないスカサハだったが、その男には見覚えがなかった。本当に遠くから眺めていただけの男なのだろう。スカサハも、他人が剣を振るう姿を遠くから眺めるという行為は身に覚えがあり、見られる事自体はなんとも思わないが、先ほどの悲鳴を思い出して考え込んでしまった。
(……あの程度で怖がるなんて、平和な時代になったなぁ……)
 ユリウスを初めとする、数多散った英雄たち。それに比べればスカサハなど地を這う虫のような存在だった。そう言うのは謙遜しすぎかもしれないが、戦い、打ち勝ってきた者たちは本当に強大な相手だった。そしてそれは味方に対しても言えることだ。
 その聖戦士たちの凄まじい戦いを知らぬ新兵たちがこれからは増えていくのだ、と改めて実感させられた。
 だが、それでいいのだともわかっていた。もう全ては終わった事である――少なくとも、現グランベル王や、各神器の継承者たちが生きている間は、あの凄惨な戦いが起こる事はないだろう。聖戦士たちの戦いは、これまで伝承の中で受け継がれてきたように、ただ人々の心に尊敬と畏怖の念を伝えるだけで十分だった。人ならぬ者の戦いなど今後起きない方がよっぽど良いことだ、とスカサハは思っていた。
(……だからこの男が、シャナン様の本当の剣技を見る事はないんだろうな)
 そう考えた時に、ふと、心の中で熱くなる場所があった。
 最近、シャナンはあまり人前で剣を振るわない。忙しさが理由でもあるし、たとえ皆に混じって鍛錬をしたとしても、実力を全て出すことはないだろう。そうなると、今この国内で、あの血気溢れる剣聖の姿を一番近くで見たのは自分だ、という事に密かな優越感を覚えるのだ。
(……なんて、ばかばかしい)
 自分自身の力でないことを誇ってどうする、とくだらない妄執を嘲笑い、振り払うように剣を振り下ろした。動揺を表すかのように、剣先はわずかにぶれていた。
 ――スカサハの目がそれを捉えたのは、そんな時だった。
「……ん?」
 反射的にばっと視線を上げたスカサハは、視界に映った光景にどきっと心臓を跳ねさせた。遠くに見える館の二階の通路を、私室へと向かうシャナンの姿が小さく見えたのだ。一瞬だが、スカサハの視力に間違いはなかった。
 スカサハはそれだけで己の気分が浮上するのを感じていた。呆れるほどに単純だが、感情をコントロールする事など出来なかった。ただスカサハの場合、双子の妹とは違って、それを表に出さないでいられるだけだ。
(あれ、でも……)
 普段、この時間なら執務室で書類と顔を合わせている頃である。何かあったのだろうか、と考えていたら、いつの間にか剣を振るう手が止まってしまっていた。周囲からの視線を受けてそれに気が付き、慌てて体勢を整えてみるも、結局そのまま鍛錬に身が入ることはなかった。
 これ以上やっても仕方がない、とスカサハはついに諦めて剣をしまう。そして、ちらりと視線だけを先程彼を見かけた場所へと向けた。
(……少しだけ、顔を出してみようかな)
 そう考えた時には、すでに決めていた。
 王と臣下、普段はその立場をわきまえているつもりでも、ふとそんな事を平気で思ってしまうのは、やはり無意識の中に血族の優位性を有しているからかもしれなかった。自分ならば許されるだろう、という思いが恒常的にあるのは決して否定出来るものではない。
 ――なにより、許される自分を見て、自分だけは特別なのだと安心したいだけだ。
 そう心の内では皮肉を言いながらも、逸る心を抑えることはできなかった。



 部屋の前まで来てから、あまりに軽率な行動をとってしまったかもしれない、とスカサハは己の行動の迂闊さを悔やんでいた。
 二人の秘め事は大半はこの部屋で行われる。いくら城が大きいとはいえ、人目を憚らなくても良い場所はそうそうあったものではない。
 初めての後は、それでも気持ちを切り替える事が出来た。しかし、幾度か行為を繰り返す内に、この部屋を見て情事を想起せざるを得ない状態になっていた。
(いや、今日はそういうつもりじゃないんだ……変わった時間に変わった場所で見かけたから、ただ少し、様子を見に来ただけで……)
 言い訳を並べ、罪悪感のようなものでなんとか気持ちを切り替えて、スカサハは扉を叩く。
「シャナン王、少し宜しいでしょうか?」
 しばらく待ってみるが答えはない。しんとした静寂が廊下を包んでいる。
 シャナンは自室の前には人を置かないが、自室へと通じる廊下の前で警備をしていた衛兵からは、確かに部屋に戻ったという情報を聞いている。その彼らから、少し顔色が優れない様子だった、という話も聞いたため、スカサハはふと嫌な予感を覚えた。
「シャナン様」
 もう一度呼び、扉に耳を当てて返事を確認する。音はわずかも聞こえなかった。
「……失礼、します」
 眠っているのかもしれない。それならばいい。けれど、と思いスカサハは静かに扉を開いた。もしそれで咎められるようならば素直に受けるつもりだったが、きっと咎められないだろうという打算的な考えもあった。
 足を踏み入れた室内は今の時間にしては暗かった。カーテンが閉められているのだ。ならば本当に寝ているのか、とぐるりと視線を巡らせたスカサハは、部屋の一角で目的の人物を発見する。
 シャナンは――寝ていた。
 だがそれは寝台の上ではなかった。
 長椅子に横たわり、髪を力なく床に垂らした状態で、ぐったりと目を瞑って倒れている。そう、倒れているのだ。
「っ……シャナン様!!!」
 気づいた時には声を張り上げ、駆け出していた。
「シャナン様!シャナン様っ!?」
 顔を寄せ至近距離で声をかけると、苦しそうに結ばれた唇の合間からわずかに呻く声が聞こえる。魘されているのか、といつものように体に触れてみて、その熱さにぎょっとした。
 ――熱がある。それも、かなりの高熱だった。
「医者……!」
 早く呼ばなければ、とスカサハは立ち上がって駆け出そうとしたが、その手を掴んで阻むものがあった。誰だ、と一瞬怒鳴りそうになったが、考えればこの部屋にいるのは二人だけだ。つまり――それは、熱いシャナンの手だった。
「……待って、」
「シャナン様!」
 すぐさま抱き起すようにして顔を覗き込んだ。うっすらと開かれた瞼の間から見える瞳にはスカサハの姿は映っておらず、焦点が定まっていなかった。眉間に刻まれたシワの数に痛ましさを覚えながら、掴まれた手を握り返し、意識を確認する。
「シャナン様、大丈夫ですか?!今医師を呼んで来ます、だから少しだけ……」
「待って……行かない、で、」
「え……」
 絞り出された弱々しい声は、まるで力無いこどもの泣き声のようにスカサハの耳に響いた。これまでに聞いたことのないシャナンの必死な声色に、胸を一突きにされたような痛みが飛来する。なんて苦しそうな声を出すのだ、とスカサハまで苦しくなり、思わずぎゅっと力を入れてシャナンの手を握ってしまう。
「シャナン様、大丈夫です、俺はここにいますから……!!」
 そう伝えたのが聞こえたのかはわからないが、同じだけの力でスカサハの手が握り返された。熱い手だ。この熱から解放してあげるためにも、今はこの場を離れなければいけない事はわかっている。
 けれど、この手を離したくなかった。震える手で弱々しく縋ってくるこの熱を離す事など、スカサハには出来なかった。
(……仕方ない、これは緊急事態なんだ……)
 多少無礼ではあるが抱きかかえてでも医師のところにつれていこう――そう思いスカサハはシャナンの体に手を回そうとした。
「シャナン様、失礼します」
「行っちゃ、ダメだ……」
「えぇ、だからシャナン様、一緒に――」
 行きましょう、と言いかけたスカサハの言葉を拒むように、シャナンが悲鳴のような叫びを上げた。

「っ、行かないで、ディアドラ――っ……!」

 その言葉を聞いた瞬間、スカサハは全身を凍りつかせた。
(――あぁ)
 そのあと頭の中に浮かんだのは、何の意味もなさないその感嘆の言葉だけだ。
 頭から指の先まで一切の意志が利かず、頭の中が真っ白だった。呼吸も止まり、目を見開いたまま、一体どれぐらい固まっていただろうか。その間にも、シャナンの口からはディアドラ、待って、と涙交じりの言葉が繰り返されている。
 時間にしてはほんのわずかだが、スカサハは随分と長い間のように感じられた。そしてようやく、は、と自分が息を吐く音で意識を取り戻し、唇を戦慄かせた。
(――この人は、まだ)
 知らず離してしまった手が、どさ、と長椅子に落ちる音が遠く聞こえる。
(あの日に……魘され続けていた、のか)
 そう理解した時に感じたのは、どうしようもない虚しさだった。

 スカサハは、その事を今の今まで知らなかったのだ。

 ――ディアドラ。
 それは一人の女性の名だと幼い頃に教わった。そしてそれが、シャナンの運命を変えてしまった人物の名前なのだ、と。
 スカサハが知り得ないその日の事など、彼はもうとっくに振り払い、立ち直ったのだと思っていた。シグルドの無念を晴らし、ディアドラの子供たちを助け、憂えるのは国の未来の事だけだとスカサハは思っていたのだ。
(だって、そんな素振り……一度も、見せなかった)
 スカサハが知っている限りでは、シャナンがその日の事で苦しんでいる姿など一度も見た事がなかった。悔やんでいる、という事はなんとなく感じ取れても、それ以上のものを抱えているなど何もわからなかった。
 だが恐怖に喉を引きつらせ、後悔に涙し、悪夢を見続けるシャナンの姿を見て、その日の事が少しも色褪せていない事が嫌でもわかってしまった。彼は未だに、あの日を癒えない傷として抱えている。それを、スカサハは知らなかった――そう、シャナンはスカサハにはそんな態度を欠片も見せていなかったのだ。
 それに気づいた時、わずかに存在していた優越感が急速に色を失った。あまりに滑稽じゃないか、と思わず嘲笑がもれる。
(……俺は、何も選ばれてなんていなかった)
 知らなかった事が問題なのではない。何一つとして教えてもらえなかった、察する事さえ許さないように、行動が徹底されていた事が問題だった。
 抱えているものを教えてもらえなかったという事は、助けを求められていないということだ。心配させたくなかったからだろう、と好意的にとらえる事も出来るが、だからお前の助けは必要ないのだ、とその時点ですでに干渉を拒絶されているに等しい。
 そんな人間が、一体何を期待していたのだろう、と思うと惨めな気分だった。心の中にあった光が煙のようにかき消えるのがわかった。
 知りたくなかった事を知ってしまった。いっそ知らないままの方が自分に都合よく生きられたかもしれない。けれど、もう知る前には戻れない。
「俺は、」
 声が震える。足元が揺らぐ。縋っていたものがなくなるとこんなにも世界は不安定なのか、とスカサハは目を瞑った。その耳には、先ほどのシャナンの悲痛な叫びが響いている。
 シャナンはもう何年、その日に心を置き続けているのだろうか。それはいっそ哀れだった。過去のたった一度の失態が、未来永劫その心を縛り付けているなどあまりに理不尽だ。
 その理不尽さに気づいてやれなかったことも、どうにかしてやることができない己の無力さにも腹がたつ。そして――体が震えるほどに、悔しくて、失望した。
「結局この人に、何もしてやれないのか……」
 彼が求めるように、一時忘れさせてあげることは出来たとしても、根本的な解決は何も。それを強く、強く実感させられて、爪が肌を割かんばかりに手を握りしめる。頭の中が色々な感情で溢れ、喉が詰まってそれ以上声も出せなかった。
 そんなこと、わかっていたはずだった。最初から期待などするべきではないと、ずっと言い聞かせていた事だった。けれど、驕りと慣れとは恐ろしいもので、シャナンの一番近くにいるのは自分だと思ってしまったのだ。シャナンがスカサハだけを選んで行為を許しているのだから、そう自惚れても仕方のない事だ、と慰める声もある。
 だがそれは結局、くだらない優越感が生んだ幻にすぎなかった。彼の背負ったものを何も知らないで、勝手に近いと思い込んで、期待していた。
(……なんて馬鹿なんだろう)
 スカサハは、シャナンの事を――何も知らない。それが現実だった。

 スカサハを沈んだ考えから引き戻したのは、ごめんなさい、と小さく呻いたシャナンの声だった。はっとして視線を下ろすと、苦しそうに息を吐く従兄の姿があった。
(っ、そうだ、そんなことを考えてる場合じゃなかった!)
 とにかく今は医者だ、と思い出して、スカサハは行動を開始する。その顔は、希望を失った一人の男ではなく、一人の臣下としての顔をしていた。
 ここでシャナンを放置しては、ますますスカサハは何もしてやれない事になってしまう。臣下としての役にも立てない、などという無惨な結果だけは避けなければならなかった。色々な事を知った衝撃で自分本位の考えにとらわれてしまっていたが、シャナンの事を心配する気持ちは本物なのだ。
 急いで廊下へと飛び出ると、立っていた衛兵に医師を呼ぶように告げた。血相を変えたスカサハの表情に一大事を察したのか、衛兵は二人揃って廊下を駆けていく。自分で呼びに行くべきかとも思ったが、出来れば今のシャナンの側にいてやりたくて、その二人の姿を見届けてからすぐにシャナンの元へと戻った。
 しかしその途中、ふと、机の上に広げられたままの書簡が目に入った。シャナンの倒れる長椅子の前の机に置かれている事から、倒れる前か、あるいは昨晩にでも目を通していたものだろう。
 他人からの手紙を覗くなどいけないことだと思いつつ、自然と目がそちらへ向かう。
(……これは、)
 それは遠く、グランベルの地から届けられたものだった。幼い頃から見慣れた丁寧な字で綴られたその書簡には、シャナンの息災を願う文面が細かく書かれていた。受け取った本人でなくともその内容に込められた真摯な願いに目頭が熱くなりそうなものだ。それを見るだけでも、シャナンの背負っている罪はもうきれいに消えてしまってもよいもののはずだった。誰もが、もう消えたと思っていただろう。
 けれど、消えてなどいない。消せないでいるから、こうして苦しんでいるのだ。
 ならば一体、どうすればいいというのだろうか。どうすればシャナンが苦しむ姿を見ないで済むのだろうか。スカサハには何も出来ないのだろうか――そう考えて、スカサハはぐっと拳を握った。おそらく、出来ないのだろう。手を差し伸べる資格すら与えられていなかったのだから。
 再び、荒く息を吐くシャナンの姿を見下ろした。汗で張り付く髪をそっとよけて耳にかけてやると、苦悶に歪む表情が露わになる。
「……シャナン様」
 もう一度手を拾い上げ、両手で握りしめた。その手を額に当てて、祈るように、許しを請うように呟く。
「俺は……貴方にとって、一体どういう存在ですか……?」
 その言葉に返るのは、浅く吐かれる熱もこもった吐息の音だけだった。



 シャナンが執務に戻ったのはそれから三日後のことだった。
 原因はここしばらくの過労だと医師は診断したが、おそらく心因的なものによる寝不足も大きいのだろう、とスカサハは考えていた。やはりスカサハがいる時はそんな素振りは見せなかったが、魘されて満足に眠れない日が何日かあったのではないかと推察している。ただ、それがいつからだったのか正確な事はわからなかった。
 医者以外でも面談が可能になり、早速様子を見るために寝台の脇に立っていたスカサハに対して、シャナンは申し訳なさそうに謝った。
「お前が最初に気づいてくれたそうだな。すまなかった、迷惑をかけた」
「いえ、迷惑とは思っていませんが……ですが驚きました。急に倒れられるんですから」
「……悪かった」
「そう思うなら、これからはちゃんと休んでくださいね」
 咎めるように言うと、シャナンは困ったように笑って、そうしよう、と素直に返事をした。それはスカサハの知る、脆い部分など少しも感じられない、いつものシャナンであった。

 赤い陽が、山脈の向こうへと消えてゆく。イザークの広大な大地を照らし出す光は、美しい橙を経て、やがて紫紺の空へと変わっていく。
 その移ろいを城壁の上から眺めながら、スカサハはぼんやりと考えていた。
 結局スカサハは、シャナンに何も言えなかった。うなされていましたよ、とも、まだあの日のことを忘れられないのですか、とも尋ねられなかった。まして自分の事をどう思っているかなど、聞けるはずがない。人が隠している場所に土足で立ち入って良いものか迷っていたのだ――というのは建前で、スカサハはまだ、シャナンに理想を抱いていた。心のどこかで、あれは何かの間違いだ、と思いたかったのだ。
 そうでなければ、スカサハはシャナンのことを何も知らなかった事になってしまう。これほど長い時間ともにいたのに、本当のシャナンのことを何も知らない――何も教えてもらえなかったのだ、という残酷な現実を突きつけられてしまう。それは生まれてからずっと彼のそばにいたはずのスカサハにとってひどく辛いことだった。
 しかし、それとは別に、あの現実を冷静に受け止めているスカサハもいた。
(……いつか、溜め込んでいる事を全て話してくれるだろうか)
 そうであって欲しい、と思う。一人で抱え込まずに、スカサハを頼ってほしい。このまま何も話してくれないのであれば、スカサハはシャナンのそばに居るのが辛くなってしまう。手を差し伸べることも許されず、けれど自力では救い出す事も出来ず、ずっと悪夢に飲まれ続けるシャナンの姿を見続けなければならないなど、そんなのは拷問にも等しかった。
 だがその期待も、数日前のものと違って随分と小さなものだ。いつまでも話してくれないかもしれない、という諦めの方が強かった。
(……シャナン様は、俺の事をどう思っているんだろう。頼りにならないと思っているから、だから……)
 だから、何も相談してくれないのか。弱い部分を見せようとしないのか。
 あの日以来、急にシャナンの存在が遠くなってしまったかのような感覚にどことなく晴れない心を抱えたまま、スカサハは悩み続けていた。
(いや、最初から近くなんて……なかったんだ)
 シャナンの心はずっと遠くにあった。スカサハの手の届かない遠くに。
 思考がめまぐるしく動く。今度は、シャナンの不調についてだ。
(……確かに、俺は何も気づいてあげられなかった)
 あれだけ側にいながら、シャナンが倒れる数日前も身体を重ねたというのに、不調に気づけなかったのはあまりにも不甲斐なさすぎる。相手が隠す事に長けていたのだとしても、注意していればもう少し早くに気が付けたのではないか、と思うと自分自身に嫌気がさした。
 そんなスカサハだから、シャナンは頼ってくれないのか――。
「……くそっ」
 考えても答えは出ない。当然だ、自分がどうしたいのかさえわからないのに、他人が何を思っているかなどわかるはずがなかった。
(俺は、なんのためにここにいるんだ)
 ――何もしてやれないのなら、いっそいなくても同じだ。
 そう頭では思っていたとしても、それでもスカサハはシャナンの側から離れたくなかった。幼い頃、その手を引かれて歩いたように、ずっとその隣を一緒に歩いていたかった。彼のために、何かしてあげたかった。
 けれど何も出来ない自分がどうしようもなく悲しくて、苛々として、スカサハはその日初めて、日課にしていた昼間の鍛錬を放棄することになった。



 気づけば星々の瞬く夜空が広がっていた。
 日課をさぼった事への罪の意識を持ちながら広間を歩いていたスカサハは、シャナンへの薬を運ぼうとする医者の姿を見つけ、彼の持つ薬を受け取ってそのままの足でシャナンの部屋を訪れた。心が晴れないとはいったがシャナンの様子は心配で、いい口実が出来たと医者に声をかけたのだった。
 薬を持って訪れたスカサハを見て、シャナンは首をかしげた。
「いつもの医者はどうした?」
「途中で会ったので貰ってきたんです。あ……もしかして何か話がありましたか?でしたら呼んできますが……」
「いや、お前が来てくれたのならそれでいい」
「え……」
「いいから、気にするな」
 どういうことですか、と尋ねようとしたスカサハを遮ってシャナンはスカサハの手から薬を受け取った。
「あの……調子はどうですか?」
「悪くない」
(……それも嘘なんだろうか)
 全く問題がないように即答した言葉は、強がりのように聞こえた。シャナンがスカサハに何も話していないという事実が、スカサハの耳に届く全てを歪曲して聞かせる。スカサハに何も知らせないように、知られないように言葉を選んできたのかもしれない、と全てを疑うようになってしまったのだ。
 ――そんな事はないと信じたい。
 ――いつかきっと全てを打ち明けてくれる。
 ――ならばそれはいつだ。
 ――いつかなんて曖昧な日は一生来ないのだ。
(……うるさいな)
 意識から剥離して言葉を重ねる脳内が不愉快だった。
 そんなスカサハの視界を、ふっと影が覆った。考え込んでいたために反応が遅れ、あ、と思った時にはすでにシャナンの手がスカサハに向かって伸びてきているところだった。それがいつものように頬に触れる寸前、思わず振り払ってしまい、ぱし、と乾いた音がした。
「あ……」
 振り払ってしまってから、はっとして瞠目する。シャナンの驚いたような表情が目に入り、一瞬、ひやりとしたものが背中を走った。だが、慌てて手を取ってしまいそうになるのをぐっと堪えて、代わりに手を握りしめる。
「すみ、ません、今日は……」
 咄嗟に謝ってみせるものの、その先の言い訳を何も思いついていなかった。必死に脳を回転させ、なんとか言葉をつむぐ。
「まだ……病み上がりですし、無理をさせるわけには……」
 いかないので、と続けたはずの言葉尻はほとんど消えかかっていた。
 その時初めて、スカサハはシャナンの申し出を断った。今まで誘われれば絶対に断る事などなかったのだが、今の気持ちではどうしても喜んで誘いを受ける気にはなれなかったのだ。
 しかしその鋼の意志とは裏腹に、スカサハの内心は穏やかではなかった。
(……これで、良かったのか?)
 自問する声には焦燥の色があった。ただでさえスカサハの存在理由がわからなくなっているのに、相手が求める時に断るようではいよいよ用無しだと言われても仕方のない態度だ、と己の行動を悔いる心があるのだ。
 どんな理由でも必要とされるだけでいい――そう決めたのではなかったのか。
「……そうか」
「っ……」
 落胆したかのような静かなシャナンの声に、どっと冷汗が流れた。今からでも撤回して相手の望むとおりにしてやっても遅くない、と囁く声がある。
 だがシャナンは、振り払われた手をちらりと一瞥しただけで、困ったように笑い素直に手を引いた。
「そうだな、お前にはちゃんと休めと言われたばかりだった。悪かった」
「いっ、いえ、あの……俺の方こそ、すみません……その、」
「私に気を遣ってくれたのだろう?気にしなくていい」
 お前の言う通り今日は早めに休もう、とスカサハの肩をぽんぽんと叩き、シャナンは何事もなかったようにスカサハに背を向けた。
 その態度に拍子抜けした、というのも本音だった。これまでの反応からすると、別に病み上がりでも関係ない、ともう一押しあるかと思ったのだ。いつも、それぐらいの執念に似た何かを彼の態度から感じていたが、今日はそれが感じられなかった。スカサハの反論を許さず、さっさと話を切り上げたのは、スカサハへの落胆が現れたものだったのか。
(……わからない、この人が何を考えてるのかも、俺がどうしたいのかも……)
 感情が入り混じり、考えが一つもまとまらない。
 それから部屋を出るまで、スカサハは正面からシャナンの顔を見る事が出来なかった。部屋に戻ってからもシャナンの声色が忘れられず、何をする気力も湧かず、ただ眠りにつくだけだった。



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