――幼いスカサハが、闇の中で泣いている。
 泣きながら、シャナンの部屋の扉を叩いている。やがて扉が開かれ、中から不思議そうに首を傾げたシャナンが顔を覗かせた。その身体に抱きついて、スカサハは小さな嗚咽をもらす。
「シャナンさまぁ……」
「どうした、スカサハ?」
 泣いていてはわからない、と優しい声色が降ってきて、スカサハはさらに涙が溢れてきた。喉が詰まって声を出せずにいると、そっと頭が撫でられる。
「怖い夢でも見たのか?」
 尋ねられ、こくりと頷く。そうか、と一言だけ言って、シャナンはスカサハの背中をゆっくりと撫で続けた。そこから温かい気持ちが広がっていくようで、ぎゅうと抱きしめたままスカサハはしばらく動かなかった。
 落ち着いてきた頃合になって、シャナンがまた頭を撫でた。
「そろそろ落ち着いた?」
「……うん、あの……ごめんなさい、こんな時間に突然……」
「気にしなくていい、俺も眠れなかったところだからな。ところでどんな夢を見たんだ?」
「えっ、と……その、シャナンさまが、僕たちを置いてどこかへいっちゃうゆめ……」
 それは、今思い出しただけでも恐怖で体が震えそうな光景だった。遠ざかっていく背中を追うことも出来ず、何故か声を出すことも出来ず、いなくなるシャナンを見つめ続け、そして完全に消えてしまう夢。
 そう言うと、またぽんぽんと頭に手が置かれた。顔を上げると、そこには穏やかな笑みを浮かべた従兄の姿があった。
「大丈夫だ、俺はお前たちのそばから離れたりしないよ」
「ほんとに……?」
「もちろん。俺がスカサハに嘘をついたことがあった?」
「……ない、けど」
「ほら。じゃあ信じてよ、俺はお前たちが大きくなるまでずっと一緒にいるから」
「……大きくなったらどこかへいっちゃうの?」
 シャナンの言葉に不穏なものを感じて見上げると、彼は複雑そうに眉根を寄せた。
「さぁ……どっちかと言うと、離れていくのはきっとお前たちなんじゃないかな」
「えっ!そんなことないよ!ぼく、ずっとシャナンさまの側にいる!!」
 そう言った時のシャナンが、何故だか目の前からすっと消えてしまいそうな気がして、逃すまいとぎゅっとシャナンの服の裾を握りしめる。こんなにもスカサハはシャナンのそばにいたいのに、どうしてシャナンがそんなことを言うのか全く理解できなかった。
 しばらく固まっていたシャナンだったが、やがてその手が緩やかにスカサハの頭を撫でた。
「……ごめん、スカサハ。変なことを言ったね」
「じゃあ一緒にいても、いい?」
「もちろんだよ、ありがとう」
 優しく微笑むシャナンに、スカサハも安心して手を離した。だがその手を、今度はシャナンが握りしめた。
「そうだ、怖い夢を見るのなら、今日は一緒に寝よう。そうすれば安心だよね?」
「……うん」
「よしっ」
 そうして繋がれた手は、スカサハの手をしっかりと覆うほどに大きかった。そして、全ての不安が溶け消えてしまうほどに温かかった。

「――シャナン様、あのね……、……?」

 発した己の声で、目が覚めた。
 カーテンの隙間から入り込む微かな光が、白い天井を灰色に彩っている。ぱち、と一度瞬きをして、あぁ夜か、と知覚した。
(……なんだ)
 懐かしい――夢だった。
 幼い頃のスカサハは怖がりで、個別の部屋を与えられ一人で眠るようになってからも、恐ろしい夢を見るたびにシャナンの元を訪ねて一緒に眠らせてもらっていた。シャナンと一緒に寝たくて、また夢を見たと嘘をついたこともあった。それに気付いていただろうに、シャナンはスカサハの言葉を疑うことも拒否することもなく、いつも隣で寝てくれたものだった。
 その後、一度はスカサハが外聞を気にしてシャナンの元へと行くのをやめたのだが、この歳になってまた同じ寝台で眠る日があるということなど、当時は予想もしていなかっただろう。
 今にして思えばあの頃からずっと、シャナンの夜は短かった。一緒に寝た日はそうでもなかったために気が付かなかったが、いつもスカサハが眠るまでずっと起きていたし、スカサハが起きる前にはもう剣を構えて外に立っていた。それが可能な体質でもあった事が幸いしたのか不幸であったのか、悪夢は彼を安寧へと誘う事はなかったのだろう。
(俺は本当に何も、知らなかったんだな……)
 そんな頃からずっと、スカサハに対する扱いは変わっていなかったのだ、と思って思わずため息がもれた。あれほど温かな場所にいたのに、急に寒空の下に放り出されたような気分だった。
 悶々と考えていたら、すっかり目が冴えてしまった。いつもならば朝方までぐっすり眠るスカサハにしては珍しいことだ。しばらくごろごろとしていたが眠りの訪れはなく、仕方なくスカサハは起き上がった。それは何か飲もうとしての行動であったが、月明かりを淡く受け止めるカーテンの隙間から見えた光景にふと動きを止める。
「……シャナン様?」
 その名の人物が、遠く、城の回廊を歩く姿を見かけたのだ。
 一人、寂然とした闇の中を上着も羽織らずに足を進めるシャナンの姿に、スカサハは眉を寄せる。休むと言ったのにこんな夜中に起きて歩いているなんて、と彼自身の言葉が守られなかった事を歯がゆく思いながらも、一体どうしたのだろうとシャナンの行先を見守った。彼の足は中庭を越え、兵達の訓練所の方へと向かっている。その先にあるのは見張り台を兼ねた塔だった。
 大体の見当をつけ、スカサハはその後を追うべく慌てて部屋から駆け出した。それはもはや条件反射のようなものだった。



「シャナン様!」
 塔の上は西方からの冷たい風が容赦なく流れ込んでいた。自分も上着でも羽織って来れば良かったとここへ来て思ったが、今更戻るのも時間の無駄だとそのまま声をあげる。
 呼びかけると、シャナンは髪を手で押さえながらゆっくりと振り返り、またすぐに視線を城外へと戻した。
 どうしてここに、とは尋ねられなかった。階段を上る足音で、それがスカサハであるととっくにバレていただろう。代わりに、こんな時間にどうした、と静かに問われた。
「どうしたって……」
 先ほど部屋で聞いたよりも張りのないシャナンの声を心配に思いながら、確かに何をしに来たのだろう、とスカサハは自分の行動を顧みた。早めに休んでもらえなかった事は残念なことであったが、それを自覚している人に向かってどうして休んでないのかと問うても仕方のない事だ。
 だが心配に思う心は止められなかったのだ、と心の中で言い訳をして、スカサハは事の経緯を説明した。
「ふと目が覚めた時に貴方の姿が見えたので、つい……どこへ行くのだろうと、気になってしまって」
「景色を見たかった」
 言いながら、シャナンの瞳は遥か遠く――方角としては、グランベルの方を眺めている。その瞳は先刻部屋で会った時と異なり、どこか色を失っており、スカサハの不安を掻き立てるようなものだった。
「様々な土地を見て回ったが、やはりこの土地は心安らぐ場所だ。グランベルやレンスターの街並みも、トラキアの山岳地帯も立派なものだったが……故郷とはそういうものだろうか」
 シャナンが何を言おうとしているのかわからず、スカサハは沈黙を保ち続ける。返事を求められている話し方ではないと思ったのだ。
「だが……この地にいても、遠い日の事を思い出す」
 ぴくりとスカサハの耳が動く。
「どれだけ離れようと、この心は今もあの地に縛り付けられている」
(知っている)
 知ったのはついこの間だが、痛いほどに理解した。スカサハが感じるシャナンとの距離は、その心の距離だ。同じ地に立っているのに、彼の居場所はあまりにも遠かった。
 そして、遠いはずなのに自分が一番近いのだと勘違いしていたその愚かしさはスカサハの無知によるものだった。それを、シャナンが隠していたからだ、と喚く心もあった。
(どっちにしろ、遠いことに変わりはない)
 その折、冷たい風が頬をうった。寒い、とはっきり自覚し、ようやくスカサハは提案する。
「シャナン様、夜風は体に障ります。どうぞお早めに部屋でお休みになられますよう……」
「眠れないんだ」
「!」
 急に、明瞭とした言葉が発された。そしてまた、すぐにくぐもったものになる。
「どうしても……眠れなくて」
「……シャナン様、」
 それは、スカサハが初めてシャナンから聞いた弱音だったのかもしれない。
 シャナンはいつだってスカサハよりも大きな存在で、人々の上に立つものとして常に高潔な姿を崩さなかった。昔からそうだ。セリスやスカサハ達兄妹、それから解放軍の皆の前では、この人は完璧な人間だと思わせるような行動しか取らなかった。少し大きくなってからはそんな事はないと理解していたが、それでも生活のほとんどにおいて彼はスカサハの規範だった。だからスカサハは、本当に崇める勢いでシャナンに忠誠を誓っているのだ。
 そのシャナンがこぼした言葉に、心臓の音が煩く鳴り響いた。
(――ひょっとして、何か話してくれるんだろうか)
 あれほど打ちのめされたはずなのに、それでも、期待する心を止められない。部屋に戻ろうと言った事も忘れて、スカサハは身じろぎ一つせずにじっと次の言葉を待ち望んでいた。
「いや……眠りたくない、というのかもしれないな」
 ふっと視線を伏せて、シャナンは口の中で言葉を転がした。
「それは……」
「夢を見る。まだ子供だった頃の」
 ぽつ、と語られる内容に、スカサハは心当たりがあった。
 夢は夢だ、恐れる事は何もない、と以前のスカサハなら笑えただろう。たとえ実際に恐ろしかったとしても、所詮は幻想であり、いずれ忘れゆくものだ。
 だが彼の見る悪夢の存在を知ってしまい、軽率な反応が取れなかった。彼の悪夢は、そのまま彼にとっての現実だ。死ぬより辛い現実を延々と見せつけられているのだ。
「だから眠りたくない。何も考えずに眠れたらどれほど……」
 楽なものか、と弱々しく呟く姿は、一瞬でも目を離したらそのまま消えてしまいそうな儚さがあった。たまらず、深く考えもせずに言葉が口をついて出る。
「な、ならば、城の薬師に薬草など処方してもらってはいかがですか?心を落ち着けるものから、眠りに誘いやすくするものまであると聞きます。効果のほどはわかりませんが、一度試すだけでも……」
「だがそれでは意味がないんだ」
 帰ってきた声は、また力強さを取り戻していた。それに戸惑いながら、意味、とスカサハは繰り返す。何も考えずに眠りにつきたいと言っているのに、意味とはどういう事だろうかと怪訝そうに目を細める。シャナンはまっすぐに闇を見つめたまま夜風に声を乗せた。
「――楽になってはいけない。だから、せめて痛みを伴う方法でなければ意味がない」
「痛み……?」
「あの悪夢を、私の罪を……忘れるためでなく、思い出すための、痛みが欲しい」
 ――例えば、お前が私にしてくれたように。
 すっと長い指先をスカサハに向かって伸ばし、シャナンは悠然とスカサハの事を見つめた。その瞳に光はなく、夜の海を思わせるような静けさがあった。その闇に吸い込まれるかのように知らず足元がふらつく。正確には、その言葉を聞いた時に胸中を覆った絶望の黒い靄が、スカサハを揺らがせたのだ。
 スカサハがシャナンの言葉でひっかかったのは二点だった。
(……痛み)
 それが何を指しているのか、少し考えて、目を見開く。
 スカサハがシャナンに与えられていたものなど多くない。近衛として日々の護衛、親族としての日常、そして――夜のあの逢瀬。
 シャナンはそれを「痛み」だと言った。慰めでも気晴らしでも処理でもなく、痛みである、と。それはスカサハにとって最悪の答えだった。
 スカサハがシャナンの心がついてこないと知ってもなお、あの行為を続けたのは、それで少しでもシャナンが救われるのならばと思ったからだ。何度も求められる以上、そこには確かに意味があるのだと信じ、心に宿した苦しみや悲しみが少しでも軽くなればいいと思っていたからだ。決して彼を傷つけたかったわけではない。
 なのに、シャナンは今、スカサハに抱かれていたのは痛みを得るためだ、と明言した。言い変えれば、あれはシャナンが傷つくための行為であったのだ。
(ずっと……俺が、傷つけていた)
 彼を傷つける者は絶対に許さないと誓っていたはずの、スカサハが――それに気づいた時、足元の地面がぐにゃりと歪むような感覚があった。
 スカサハのように元から好意を持っていたのならともかく、同性に抱かれるという行為は本来ひどく屈辱的なものだろう。快感は得られるものの生産性はなく、ともすれば苦痛を受けるだけの暴力にもなり得る。その繰り返される行為に、彼の名誉と尊厳が如何程に傷付けられていたのかを考えると眩暈がした。
 だが、それを敢えて行うことで、彼は自分自身を傷つけていたのだ――その傷跡に、己の罪を深く刻むかのように。
 そう、罪を思い出す為だ、とも言ったのだ。
 そう考えているのを読んだようにシャナンは続けた。
「私が忘れたかったのは、夜の眠りを妨げる一時の悪夢だ。全てを忘れたかったわけではない。どんな形でも、痛みがあれば私は自分の罪を思い出す事が出来る。抱かれている間は何も考えなくても、疲れきってしまえば悪夢を見ることがなくても、翌日起きれば心身の痛みと共に嫌でも思い出す。だから……あれは丁度良かった」
 無感情に呟かれる言葉はどこか遠くに聞こえるのに、心を抉る痛みは的確にスカサハの意識を現実に引き戻した。
(……俺は、ずっと思い違いをしていたのか)
 色々と忘れたい、と彼は言った。だがそれは寂しさでも、背負った重圧でもなかった。すでにその言葉がシャナンの嘘だった。そんな最初から彼はスカサハに事実を告げず、スカサハは何も知らないままここまで来てしまった。
 だから、スカサハはずっと思っていたのだ。シャナンがあの行為の先に求めるものは忘却であって、何も考えずに眠ってしまいたいために逃避していたのだ、と。
 ――だが実際は、忘れるためではなく忘れないために抱かれていた。そう真実を告げられて、愕然とした。
(そんなの……あまりにも、)
 言葉通りであるのだとしたら、シャナンの望む通りに彼を抱いたとしても彼は傷つき、それが嫌だからと拒んだ場合には悪夢が彼を傷つける。どちらに転んでもスカサハの望む結末は訪れない。そう気づいた時の絶望を誰が理解出来ただろう。
(あまりにも、ひどいじゃないか……)
 握りしめた拳の爪が、手の平の柔らかい部分を突き刺した。だが痛みなど感じなかった。心の方が、痛かった。
 どんな理由を並べ立てようと、そんなものはただの自傷行為だ。百歩譲ってそれは仕方のない事だと受け入れることは出来る。納得はしないが、痛みが苦しみを癒してくれる事もあると理解しているからだ。
 だがそれを、シャナンの事を本当に大切に思っているスカサハにやらせるのはあまりに残酷だった。シャナンを傷つけるものは許さないと息巻いていたスカサハが、絶対にしたくなかった事をやらされていたのだ。
 シャナンがスカサハの事が好きで抱かれているわけではないとわかっていたのだから、己の行動に疑問を持ち、少し考えればその結論に至れたかもしれない。だが欲望は真実を見定める瞳を濁らせる。シャナンの為にという建前を盾にしていただけで、スカサハは結局己の欲望に勝てなかった。
(でも……だって、シャナン様が、)
 そんなひどい事をさせる人ではないと信じていた。信じたかったのだ。それなのに――。
 様々な感情が濁流のように頭の中を流れていく。
 悪いのはどちらだ、と問いかける声がある。全てを承知で相手の好意を利用した男か、全てに気付かず相手を信じ切った男か。けれど今は、前者の気持ちが強かった。信頼を裏切られたような、純心を踏み躙られたようなどろりとした負の感情がスカサハの全身を覆う。
 怒りを込めた瞳で目の前の男を見つめた。スカサハから溢れる怒気を見て、シャナンはふっと笑った。
「……何が、おかしいんですか」
「お前が私にそんな瞳を向けるなんて初めてだなと、思って」
 まるで他人事のように、スカサハが何に怒っているかなど少しも知らないかのように嘯くシャナンに、スカサハは激昂する。
「っそんなの――!!!」
「あぁ、当然だな」
 だが、続けるはずだった言葉を先にシャナンに言われてしまい、開いた口がそのままになる。
「お前が怒るのは当然だ。お前の感情に、善意に付け込んで利用していたのだからな。お前が、私の言葉なら断るはずがないと見越してこの話を持ちかけた。お前が……きっと、苦しむだろうとわかっていたから、それもまた痛みに変わる」
 声には感情がない。それがどこか悲しくて、スカサハの語勢を完全に削いでしまった。このスカサハの怒りや悲しみさえ、シャナンの罪悪感を一層募らせる要素の一つになっているのだ。スカサハが苦しむほどに、シャナンもまた苦しむのだろう。
 シャナンに誘われたあの時、本当は断らなければならなかったのだ、と今更ながらに後悔した。自暴自棄に走るシャナンに拍車をかけたのは、スカサハの諦めきれなかった恋慕の情だ。逃げ道の与え方を完全に間違えてしまった。
 だがあの時のスカサハに一体何が出来ただろうか。申し出を断って、一人抱え込むシャナンになんの言葉をかけられただろうか。シャナンの抱える悪夢を知りもしなかったスカサハには、結局何も出来なかっただろう。
「軽蔑したか」
 そう言うシャナンの声には、それを恐れている色はなかった。むしろそうあって欲しいと願っているような必死さすら感じられる。スカサハは縦にも横にも首を振らず、ただ唇を噛み締めて立ち尽くしていた。
「それでいい」
 シャナンは自嘲するように吐き捨てた。
「お前が慕ってくれていた男は、所詮この程度の人間だ。お前が慕う……価値もない」
 その言葉に、スカサハは目を見開いた。聞き捨てならない言葉だ、と心の内で騒ぐ声を聞いた。
(価値が、ない……?)
 そして、削がれたはずの怒りは次の言葉で再び蘇る。
「近衛の任は明日にでも解く、だからお前はもう行きたいところにいくといい。きっとその方が、お前も幸せに」
「っ――勝手に決めるな!!!」
 最後まで言葉を言わせなかった。弾けるように詰め寄って、遠い目をしたその男の肩を掴む。
「俺の中の価値を貴方が勝手に決めるな!俺がどうしたいかは俺が決める!だから、勝手に俺の気持ちをわかったような顔をして一人で決めるな……!」
 燃えたぎる怒りを瞳に宿し、シャナンのことを睨みつけた。あの、立てる大地が全て崩れ去ったかのようなスカサハの絶望でさえ、細事にされてしまったような心地がしたのだ。そんな扱いをされるほど単純な想いではない。なのに、それを他人に決められてしまった事が許せなかった。
 だが、そんな溢れ出す怒りを受け止めたのは、スカサハの思ったような無表情でも辛そうな表情でもなかった。
 スカサハの指先を肩に食いこませながら、彼は諦観の笑みを浮かべていた。全てを諦め、抗わず受け入れる、まるで刑を言い渡された罪人のようだった。
「っ……!」
 それを見て、理解する。
 ――この人は結局、スカサハの気持ちを全て知りながらそういうことを言うのだ。恐ろしく冷静に、客観的に全てを観察し、その上でスカサハを煽っている。何がスカサハの怒りを誘発し、何が悲しみを与えるのか。スカサハがシャナンにそんな感情を抱くのも全て計算済みなのだろう。
 その全ては――この時を想定していたのだ。
(……なんて、悲しい人だ)
 今度こそ、激しい怒りの熱が引いた。
 哀れだ、と思った。まさか尊敬するこの人に、そんな失礼極まりない感情を抱く日が来ようとは思っていなかった。だが、今は不敬だの差し出がましいだなどと少しも思わず、ただただ悲しかった。
 だが完璧な王だとスカサハが思い込んでいただけで、シャナンはずっとそうやって生きてきたのだろう。誰にも言えず、誰からも救われず、一人で抱え込んで。そして、唯一その脆い部分を共有できるオイフェに甘える形で、けれど素直に甘え切ることも出来ず、抱かれることでその身を傷つけていたのだ。これは慰めだと言い聞かせながら。
 スカサハは肩を掴んでいた手を離し、ふらりと一歩距離を置いた。
「……わかりました」
 つぶやいた言葉は低く冷たい音を伴っていた。それを聞いたシャナンは顔色を変えず、スカサハに掴まれた部分を緩くさするだけだった。何も期待していないその男に、スカサハは更に言葉を重ねた。
「剣を、取ってください」
 ようやくシャナンの眉が動いた。
「……なに?」
「下で戦いましょう。そんなに痛みが欲しいのなら、俺が、貴方のことを打ちのめしてあげますから」
「お前が私を?」
「ええ。オードの直系である貴方が傍系の俺に剣術で負ければ、心も痛むでしょう?」
 ひどく不遜で勝手なことを言っている自覚はあった。だが、普段は抑えられるはずの静かな怒りが口をついてでてしまう。
(そうだ、怒りだ)
 だがそれはスカサハを利用していた事に対するものではない。確かにさっきはなんてひどい人なのだ、と瞬間的に激しい怒りを覚えた。だがその怒りは結局長続きしなかった。利用されて喜んでいたのは紛れもなくスカサハ自身だったからだ。
 だから、今の怒りの対象は物事を一人で判断し、勝手にスカサハの気持ちを決めつける、その閉鎖的な態度に対してだった。そして、いつまでも過去に縛られ、囚われなければならないと思い込んでしまっているその思考回路に対しても同様だ。
 スカサハはシャナンの返事を待たずに踵を返して訓練場へと向かった。きっと後をついてくる、と確信があった。そして、ついてくるのならば、スカサハはシャナンに言いたい事があった。



 空気の冷たさに反して、剣を持つ手は燃えるように熱かった。感情がそのまま熱となり発散されているようだ。
 目の前には、同じように剣を構えた師の姿があった。スカサハはこの人から剣を教わった。当然のように構えも同じだ。
 その相手と、まるで本物の戦場よろしく睨み合っている。お互いの心が全く違う方を向いたままに打ち合おうとしているのだから、例え殺意がなかったとしてもそれは戦と変わりなかった。
 だが不思議なほどに心は凪いでいる。心の中の一箇所だけが冷え切っていて、それが感情を支配していた。
「久しぶりですね、貴方と剣を交えるのは」
「あぁ、そうだな」
 シャナンの口調も冷静だ。無気力とも取れるほどの静けさがあった。だが剣を握った途端にその背後から立ち上る目に見えない気は、スカサハの心を歓喜に奮わせた。
(あぁ、シャナン様だ)
 スカサハのよく知る剣聖の姿がそこにあった。
 聖戦士の血はその身体能力においても強大な影響力を及ぼす。直系であればなおさらだ。そして、オードの血を受け継いだシャナンはまさに思い描く剣聖そのものだった。
 だが、今のシャナンに負ける気はしなかった。病み上がりの相手に馬鹿な事を、とこの行動を蔑むスカサハがいるのも確かだったが、それとは関係なく、バルムンクを握らぬ彼に負けるとは思えなかった。
 バルムンクは神器と呼ばれるその名の通り神の器だ。ただの人を、神の領域まで引き上げてくれる。神に勝とうなどそんな大それたことは考えてはいない。
 だが今のシャナンは人だ――それも随分と、脆い。闇の中で誰に手を伸ばすこともなく、一人で生きていかなければと言い聞かせながら膝を抱えている子供なのだ。だから、負けられない。いや、負けては――いけない。この人をその闇の中から救い出すには、ここで負けてはいけないのだ。
(それで、言ってやる。思ってることを全部。貴方が考えてる事全部、ふざけるなって)
 手にした剣に力を込める。
 一連の言動を見て、聞いて、スカサハはシャナンの真意を自分なりに理解した。そしてだからこそ、ふざけるな、と言おうと決めたのだ。
 ――シャナンはスカサハに憎まれたいのだ。
 あるいは、なんて駄目な大人だと呆れられて、哀れまれ、嫌われ、疎まれたいのだ。
 自分が皆から尊敬され崇められるような立派な人間ではなく、たった一人の人すら守れなかった弱く惨めな人間であると知って、安心したいのだ。
 そうして意図的にスカサハを遠ざけ、一人きりになって、彼の世界は閉ざされる。誰に手を伸ばすこともできない状況になって、ようやく一人で生きていく事を受け入れようというのだろう。それが自分の罰であるかのように戒めて、呪いをかけて。
(……そんなことさせるか)
 本当に腹が立つ。あまりに沈んだ考えに縛られ続けるシャナンにも、それに対して何も出来ない自分にも。
 なにより、初めからスカサハが離れていく事を前提で物事を考えていたのだとしたら、あまりにひどいことだ。スカサハの罪悪感が、彼の罪の一つとして数えられている事も許せなかった。
 そして、その怒りは何事にも揺るがぬ決意へと変化する。
(そんな人生をこの人に送らせない。この人の思い通りになんてなってやるものか……!)
 スカサハはもう、シャナンが手を伸ばしてくれるのを待ち続けていた子供ではない。あの頃とは違い、自分の意思で、自分の力で全ての行動をとることができる。それはシャナンの意思であっても介入することなど出来はしない。
 一生、死ぬまで罪を負い続けなければいけない――そんなバカなことがあってなるものか、とその考えを否定する。
 選ばれていようが、選ばれていなかろうが、もはやそんな事は関係ない。今となっては、くだらない事で悩んでいたものだとさえ思う。スカサハがシャナンの幸せを願うのに、彼の意思など関係なかった。
 スカサハは、ただシャナンに幸せになってほしかった。そのためにスカサハは彼の隣に立つのだ。それが、昔から揺るがないスカサハの願いであり、使命だった。



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