月明かりを受けた白銀の煌めきが、幾度も闇夜で交差する。他に人影のない訓練場で二つの影が死闘を繰り広げていた。
 バルムンクを持たぬシャナンは、それでもやはり速かった。しばらくシャナンの剣さばきを目にせず、周りの兵達と足並みを揃えて鍛錬をする事が多かったせいか、脳内で思い描いていたよりもずっと俊敏な動きでスカサハとの間合いを詰め白刃の軌跡が振り下ろされる。
 だが何度も打ち合う内に過去の感覚が蘇ってきて、その速度に反応出来るようになってきた。そして、少しだけ冷静に相手の動きを観察することも出来るようになった。
 ――イザークの王子シャナン。
 それはこの大地に住む人々の希望だった。
 スカサハはずっとその背中を見てきた。追いつきたくて、隣に立ちたくて、そして心の片隅ではこっそりといつか追い抜いた自分を認めてもらいたくて、ただひたすらに見つめ続けてきた。その動きはスカサハの脳裏に焼き付いていて、呼吸をするかのごとく鮮やかに蘇る。剣の軌跡、髪の流れ、振るう腕の速さ、その呼吸と間合い。全てがスカサハの理想とするシャナンの姿のまま、今目の前に彼が立っている。
 だから、それに呼応するのも容易かった。彼が本能で行う動作は、彼以上にスカサハの方がよく知っている。その動きも癖も、全て。
(ずっと――貴方だけを見てきた)
 誰よりも一途に、誰よりも近くで。
 その一瞬、体全体に力がみなぎった。ギィン、と鈍い金属音が鳴り渡り、スカサハの手に衝撃となって響く。スカサハの剣に弾かれたシャナンの剣が、ざ、と遠くの地面に突き刺さったのを視界の端にとらえ、構えた剣を相手の眼前にまっすぐ突きつけた。
 ――スカサハの勝ちだった。
 お互い、肩で息をし合っている。その息遣いが闇に溶けていく。
 先に声を出し、問うたのはスカサハだった。
「どう……ですか、俺も強くなったでしょう……」
 シャナンはしばらくスカサハの瞳を見返していたが、やがて、ふと瞳から闘志を消失させて、視線を地面に落とした。
「……ふふ、ははは、そうだな……」
 それに比べて私は弱くなったものだ、とシャナンは声を低く笑った。嘲るような声色に、少し、怒りの音が混じっていた。明らかな敗北を突きつけられた悔しさもあるのだろう。そうでなければ、スカサハが彼を打ちのめした意味がない。
 だがすぐに思い直したように、いや、と首を振る。
「弱くなったわけじゃない。私はあの頃から何も変わっていないんだ。ディアドラ様を守れなかった、あの日から……」
「貴方は、いつまで過去にとらわれているんですか」
 シャナンの独白のような発言に対し、するりと言葉が滑り落ちていた。心のどこかで、その回答を予想していたのだろう。詰問のような強い言葉に、シャナンは視線をあげなかった。気にせずスカサハは続ける。
「もう貴方は許されていいんだ。いや、許すも何も、貴方を許していないのはもう貴方だけしかいない。だから、どうか自分自身を許してください」
 過去を知らないスカサハには、全てはオイフェからの伝聞とそこから導き出される人物像からの推測でしかない。だが、シグルドは元からシャナンの事を恨んでなどいなかった。ディアドラにしても、それは勝手をした自分の責任だと嘆くはずだ。セリスが恨んでいるなどそもそも聞いたことがない。
 ならば、あの時のシャナンを許していないのは他でもないシャナン自身でしかないのだ。全て自分の中で物語を完結させてしまっている。その彼が自由になるのはとても簡単で、しかし実際には一番難しい事なのだろう。
(だとしても、もう許さないと)
 誰一人として幸せになれない。少しでもそれを許す事が出来なければ、彼が幸せになるために前へ進めない。
 スカサハの願いに対し、しかしシャナンは片膝をつき視線を伏せたまま、ゆるりと頭を左右に振った。
「……許されるはずがない」
「いいえ、もう許されています。セリス様からの手紙に、貴方を責める言葉がありましたか?」
 答えは否だ。スカサハはそれを知っているし、例え知らなかったとしても絶対にあり得ないと言い切れる。彼を知る誰に聞いても同じ答えが返ってくるだろう。そんなことはいつものシャナンならばすぐにでもわかりそうなものだ。だが自分に都合のいい情報が入ってこないように、心を閉ざしているのだろう。
 やはり、シャナンは首を振った。そして、小さく、本当に小さな声でスカサハの言葉を拒否する。
「……許されたく、ない」
「っ……いい加減にしろよいつまでもいつまでも!そうやっていつまで引きずる気なんだよ!!」
 思わず叫んだ言葉は、自分の言葉かと疑うほどに荒々しく、相手を糾弾する鋭さを持っていた。シャナンを盲信するスカサハにはあり得ない言葉だ。だが、それはシャナンがスカサハの盲信に足る人物だったからだ。そう――演じていたからだ。お互いに。
 王としてのシャナン、そしてその王に使える忠実な僕としてのスカサハ。お互いに相手の望む姿を演じ続けていた。だが、その関係は崩された――いや、崩すべきだ、と思った。
「貴方は立派にセリス様を守り抜いた!シグルド様とディアドラ様の無念は晴らされたんだ!貴方が背負うものは罪なんかじゃなくて、ただイザークの国と、それから、貴方自身の人生だけだ!!」
 どうしてそんな簡単なことがわからないのだろう。言葉の通じないもどかしさがスカサハの感情を高ぶらせる。
「貴方が傷つく必要なんてどこにもない!そんなことは誰も望んでいないし、もし望んでいる奴がいるなら俺はそいつを許さない!例えそれが貴方自身であったとしても!!」
 なおも口を閉ざし続けるシャナンにスカサハも少し落ち着きを取り戻し、諭すような口調に変わる。
「……俺は、貴方がそうして過去に囚われている姿を見たくありません。でもそれは、俺の中の理想が壊れてしまうとかそういう理由じゃない。貴方が苦しんでいるのが嫌なんです。このあたりが……苦しくて」
 左手を胸のあたりに当て、ぐっと握り拳を作った。
「俺は貴方に……ただ、幸せになって欲しいんだ……」
 それを願う事すら許されないのだろうか。
 幸せなど人によって形の変わるものであると知っている。スカサハの願う幸せが、シャナンにとって幸せであるとは限らない。
 だが、笑顔のない生活が幸せだとは思わなかった。傷ついて生きていく事が幸せだとは思えなかった。悪夢に魘され続ける毎日が幸せであるはずがなかった。
「――私は」
 ふと、シャナンが口を開いた。
「自分の事を考え続けるあまり、幸せを願ってくれるお前にさえそんな辛そうな顔をさせるような人間だ。だから……もうお前は離れた方がいい。その方が幸せだろう」
「だから、勝手に決めないでください。幸せかどうかは俺が決めます。それに俺だって……それが貴方を苦しめているとわかっても、貴方の幸せを望むような人間です」
「それはお前の善意だ」
「貴方のものと何が違うんですか」
 一歩も引かないスカサハの言葉に、シャナンは一瞬困ったように眉根を寄せた。それに確かな手応えを感じる。シャナンの理屈ではスカサハを押し切ることなど出来ないのだと思わせなければならない、とさらに言葉を重ねた。
「貴方が俺には幸せになって欲しいと思う気持ちと、俺が貴方に幸せになって欲しい気持ちに違いなんてありません。もしあるとしたら、貴方の中の罪悪感がそう思わせているだけだ。それに、貴方が幸せになることを貴方以外の沢山の人が望んでいます」
「そうだ、ありがたいことにな。だが、だからこそ私だけでもあの罪を忘れるわけにはいかない。なかったことになど、させない……」
 シャナンの言葉と瞳に、不意に力強さが宿った。そのまま口を開こうとするのを見て、ようやくシャナンが閉ざし続けていた心を開いたのだ、とスカサハは理解し、続く言葉を待った。
「……お前もわかっただろう、私は皆の言うような立派な人間ではない。たった一人の人すら守れなかった、そしてその過去に今尚振り回され続けている。自分を心配してくれる者を傷つけて、それをわかっていながら変わろうともしない……出来ないんだ」
 シャナンの表情が忌々しげに歪んだ。徐々に感情が表に出始めている。
「本当の私は弱く愚かなものだ。だがそれでも、この体に流れる血は、私が王である事から逃してはくれない。実際、この血がなければ私はとっくの昔に死んでいただろう。だからせめてその責務を果たさなければと、慕ってくれる皆の信頼に応えようとして必死になって立派であるように演じていた」
 子供っぽいプライドを掲げ周りから庇護される力無い少年のままではいられなかった。大切な人たちを守れなかった心に折り合いをつけれないまま、早く強くなることを求められ、上辺だけを理想に合わせてしまった。
「そして今も、それを続けている。皆を騙しているも同然だ。嘘で塗り固めたその姿を皆が信じ、その信頼で過去の弱い自分の姿が埋もれていくのが……恐ろしい。だから、忘れてはいけない。許されてはいけない」
 シャナンは力なくつぶやいた。その独白に、スカサハはシャナンの苦悩を垣間見る。
「……貴方は、」
 イザークの王として、絶望の淵で生きながらえ続けていた民たちの希望足り得る為に、どれだけの努力を重ね、見栄を張り続けてきたのだろう。どれだけの重荷を背負って、それでも皆の期待に応えようと、本当の自分を押さえ込んで王であろうとしたのだろう。弱い自分をずっと心の内で悔やみながら、それを隠すためにも強くあらねばならなかった彼の葛藤はどれほどのものだったのか、スカサハにはわからなかった。
 帝国に蹂躙されるイザークの、たった一つの希望。皆が信じ拠り所にしていたそれが偽りの姿であると知っているために、自責の念と人々からの尊敬の念の間で揺れ動き、苦しんでいたのだ。人から望まれれば望まれるほどに、比例して彼の背負う罪は重くなり、罪が重いほどそれを忘れる事は許されないのだとシャナンを追い詰めていく。
(そうしてひどく重くなってしまったものを、一人で、抱え込んで)
 それは、彼が王を演じる限り、その命が尽きるまで――。
 ふと、頬を何かが滑り落ちていった。涙だ、と気がついたのは、見つめていたシャナンの瞳が困惑したように揺れたのを見たからだった。あれだけ激しい感情の起伏がありながらここまでよく流れなかったものだ、と場違いにも感心してしまった。
 そして、自分の涙に揺らぐ心がシャナンにあるのだ、と気づき、それがスカサハに懺悔の心を呼び起こす。
「俺は……貴方の苦しみに気づいてあげられなかった。貴方が必死に演じていたイザークの王という姿を鵜呑みにして、その姿だけを見てきました。今日まで、ずっと」
「そう、お前の前でも私はずっと偽り続けてきた。だからわかったはずだ、私はお前の尊敬に足る人物ではない」
「いいえ」
 シャナンの自虐的な言葉に即答する。少しでも、彼が自分を否定する言葉を許容する隙を与えてはいけなかった。
 確かにスカサハが思い描いていた完璧な王たるシャナンはここにはいない。だが、そもそも完璧な人間などいないのだ。完璧に見えても、皆どこかに瑕を持って生きている。その瑕を、いかに許せるかだ。許せなくても、受け入れるか、諦めるか、変えようともがくのかは人それぞれであるが、完全無欠の人などこの世界にはいない。神々ですら思うがままに生きられない世界で、人々は生きている。
 スカサハはシャナンの弱さを知った。知ってなお、ここに立つのは紛れもなくスカサハが慕っている相手なのだ、と断言出来る。
「だって――たとえ本心がどうあったとしても、貴方は俺をずっと、ここまで育てて、導いてくれた。俺は、貴方のその優しさや温かさまで嘘だとは思いません。騙されたなんて思いません。貴方が俺の幸せを願ってくれているのは、王だから――ですか?」
「、それは……」
 王として、民の幸せを願う気持ちと同じなのか――おそらく違うはずだ、とスカサハは自惚れている。スカサハがシャナンに抱く気持ちとは多少異なっているかもしれないが、彼はスカサハに対して、国の民であるという以上の感情を抱いているはずだった。そうでなければ、夜の誘いはなかっただろう。スカサハだったからこそ、シャナンはその身を預け、そしてその罪悪感に傷ついているのだ。
 それらは全てスカサハの推測と願望に過ぎなかったが、それを前提に強引に話を進めることにした。そうでなければ話は進まないと思ったからだ。何か現状の突破口が見つかるならよし、違うなら違うで否定の言葉をもらうだけだ。
「もし貴方が、一人の人間として俺の幸せを望んでくれるのなら……俺の人生を全て貴方に捧げます。イザークの王ではなく、貴方個人に。それがずっと夢見てきた俺の幸せなんです。だから、どうか背負ってください」
 シャナンの眉がぴくりと動くのがわかったが、言葉を撤回するつもりはなかった。
 随分と身勝手で無茶なことを、強引に押し通そうとしている自覚はあった。それでも、断られないという根拠のない自信もあった。それはシャナンの弱さであり、優しさだ。
 シャナンはおそらく、自分が幸せになるためには生きられない人なのだ。過去の、永遠に忘れられない罪が、幸せを掴む事を拒んでしまう。
 だが他人の幸せを願う事は出来る。ならば、多少身勝手な話でもこの方法しかないと思った。他人を――スカサハを幸せにするための道を、歩ませる事。そしてその道を隣で共に歩む事が、スカサハに出来る唯一の事なのではないかと考えていた。
 シャナンはスカサハがまっすぐに告げたその卑怯な提案に、考え込むように沈黙を保っていた。そして、彷徨わせた視線をスカサハの顔を見る事なく地面に落とし、口を開く。
「……こんな私に、お前の人生を背負わせるのか」
 そこには、微かに悲観の音があった。スカサハが愚かな選択をしている、とでも思っているのかもしれない。だが、それ以外の何かの感情が混じっているようにも聞こえて、スカサハは急かされるように言葉を重ねる。
「はい。貴方だから、背負って欲しいんです。決めました、俺はもう何があっても貴方のそばを離れないって。例え悲しくても、苦しくても、貴方の側を離れると考えただけで辛いから。だから……貴方も、幸せになってください」
「私、も?」
「えぇ、当然です。貴方が幸せでなければ俺は幸せにはなれないから、俺の幸せを望んでくれるなら、まずは貴方に幸せであってほしい。でも、その代わりに貴方の苦しみも、俺に一緒に背負わせてください。さっきから、抱え込んでいたものを話してくれたみたいに」
 すらすらと並べ立てながらも、無茶苦茶な言い分だ、とスカサハは内心で笑う。出来の悪い脅しのようだとも思った。しかし、言おうとしていた事はちゃんと伝えられたはずだった。ただ共に、幸せでありたかった。
「……重いな」
 ため息とともに返ってきた言葉は、静かなものだった。やはりスカサハでは彼の悪夢を払う一筋の光にはなれないだろうか、と不安になったが、少しでも可能性があるのなら、まだ、引けなかった。
「そうかもしれません。でも、俺が少し傷ついたぐらいで離れる程度の覚悟で貴方に触れたと思っているのなら、考えを改めた方がいい。俺はずっと貴方だけを見てきました。貴方の側にいない自分の事など考えたことがなかった」
「……重い」
「……はい、そう、ですね。でも俺は」
「重すぎるぞ」
 かぶせるようなシャナンの発言に違和感を覚え、スカサハは一瞬伏せた視線を上げ、シャナンの事を見つめた。
「……お前にそこまで言われるとは、思っていなかった」
 地面に視線を落としたままだったシャナンはそう神妙に呟いた後、顔を上げて、ふと――笑った。
(あ……)
 それは優しい笑みだった。スカサハはそこに在りし日の光景を見た。幼いスカサハが転んで傷を作った時に、やれやれと言いながらも傷を手当てしてくれた、あの時のシャナンと同じだった。何かしたくないと駄々をこねた時に、最後まで親身になって話を聴いてくれた、あの時と――。
「シャナン、様」
 憑き物が落ちたような清々しさを感じ、スカサハの強引さがわずかに身を潜めた。代わりに、元来の臆病な部分が顔を覗かせる。
「……それでも、俺は貴方の側にいてもいいですか?」
「なんだ今更、駄目だと言ったら引くのか?」
「……貴方の言うことは絶対だと、前はそう決めていました。でも今は……」
「私はまた、お前の気持ちを利用するかもしれない」
 それでもいいのか、と言外に問われていた。気持ちを切り替えることも、心の傷を消すことも、根が深ければ深いほど自分の意思ですぐに出来ることではない。
 だが、スカサハはその言葉が聞けただけで十分だった。その問いがスカサハに届くように発されたという事実が、彼が変わろうとしてくれているという事だからだ。これまではそれをひた隠しにして利用していたのだから、大した進歩だろう。
 それに、本当に悪意を持って利用しようとするなら、そんなことを確認したりしないはずだ――そう信じて一度は裏切られたが、もう一度彼の、スカサハへの思いを信じようと思った。たとえもし裏切られたとしても、もう離れないと決意しているのだから関係ない。
 だから、とスカサハは気を取り直して笑いかける。
「それは貴方の甘え方なんだと思っておきます。我儘とでも言うんでしょうか。貴方は本当は駄目な人で、酷いこともだって出来る人だっていうのはよくわかりましたから、貴方は好きなだけ俺を利用すればいいですよ。それで貴方の気が晴れるのなら、いくらでも付き合います」
「利用すればいいって……」
「俺を利用する事で貴方が傷つくなら嫌だなとは思いました。でも貴方が甘えているのだと思えば俺は傷つかないし、俺が傷つかなければ貴方が気に負うことは何もないわけで、問題はどこにもありませんよね」
 思っていることを素直に言うと、シャナンの眉間に薄くシワが寄せられた。
「……私にだって罪悪感はあるんだぞ」
 なんの見返りもなしに、裏切られても良いからと利用されるだけのスカサハを哀れに思ったのか、シャナンはそうつぶやいた。だが、それも想定の内だ。
「知ってますよ、貴方がそういう人だって。だから俺も、貴方のその気持ちにつけ込んで好き勝手言ってるんです」
「……言うようになったな」
「……だって、貴方が俺を試すような事ばかり言うから」
 俺も試そうと思ったんです、と言うと、シャナンは眉をしかめた。
「何をだ?」
「貴方が、俺を切り捨てられるかどうか」
「……それで、どうだった」
 少し不満げにシャナンが口を尖らせる。その態度は、すでに答えを知っているかのようだった。いや、スカサハの発言に否定を返せなくなった時から、当人ももうわかっているのだろう。
 思わずゆるむ口元を隠しきれず、スカサハは笑った。
「やっぱり貴方は俺の大好きなシャナン様ですよ。少しも変わってなんていない。俺が何をしても、絶対に最後まで側にいて、途中で見捨てたりしなかったあの日の貴方と同じです」
 スカサハの事を決して無下にせず、慈しみ見守り続けてくれたあの頃と本質は何も変わっていない。たとえそれが作り上げた虚像だったとしても、与えられた優しさは今もスカサハの心に思い出として残っている。
 スカサハは何も知らないわけではなかった。シャナンの手の温かさや、笑顔の優しさ、剣技の美しさ。本人が知らないたくさんの事を知っている。だからこんなにも、ずっと彼の事を想い続けていられるのだ。
 今だって、シャナンはスカサハがどんな無礼な感情を抱いても、どんな強い口調で責め立てても、最後までスカサハの言葉に耳を傾けていた。途中で遮って終わりにしてしまっても良かったのに、最後まで心を閉ざさなかった。
(……この人はほんとに甘い)
 心が弱っているからだとしても、スカサハの事を薄情に切り捨てられなかったのは明らかな彼の失態だろう。そして、スカサハの想いの強さを測りきれなかった彼の誤算だ。
(でも)
 それが、スカサハだからこそ向けられる甘さであるのなら、これ以上ない喜びでもあった。
 シャナンは少し考えるように視線を逸らしていたが、やがて、はぁ、と息を一つつき、手をスカサハの頬へと向かって伸ばした。それを見ても、今度は振り払わなかった。躊躇いがちに伸ばされた手に、性的なものは一切感じなかったからだ。
 伸びてきた指先は、乾いてしまった涙の跡をそっと拭う。
「お前は、昔はよく泣いていたな」
「……はい」
「剣の稽古に負けたラクチェが悔し涙を零すのにも困ったが、色々と溜め込みがちなお前がふと涙を流すのも辛かった。どうしたのか、わからなくて」
「貴方はその度に優しく俺を撫でてくれました。俺はそれが嬉しくて、心地よくて……貴方のことが大好きだった。昔から今まで、その気持ちが変わった事は一度もありません」
「本当に……強くなった」
「貴方のおかげです」
「そうか」
 シャナンがいなければ、今のスカサハもなかっただろう。スカサハにとってはそれだけで、相手がシャナンであるというだけで、何物にも代え難い意味があった。
「こんな私にも、お前は価値を見出してくれるんだな」
「あっ、またそういう事を……言いましたよね、俺。貴方を傷つける人は、貴方であっても許せないって。それは、蔑んだり貶めたりすることも一緒ですよ」
「あー……そう、だったな。すまない」
 スカサハに睨まれて、シャナンは困ったように口元に手をあてた。まっすぐなスカサハの視線から逃れるように視線を闇夜へ彷徨わせて、またスカサハを見返す。
「ただ私は……お前や、民からの賞賛の言葉を受けるたび、自分だけがこんなに恵まれた環境にあっていいのかとずっと悩んでいた。私のせいで親を失ったセリスや……アイラのことだってそうだ。私を王にするという役目に縛り付けて、戦い続きの生活ばかり……そして、お前たちを残して戦いの中で亡くなってしまった」
「でもそれは貴方のせいじゃない」
「そうだ、わかっている。だが考えずにはいられない。どうしても無関係ではいられない」
 頑なに自分の罪を主張するシャナンだったが、それは仕方のないことだとスカサハも理解はしていた。すぐに振り切れるものなら、きっとこれまでにそうしていただろう。どうしても考えてしまうからそれを拗らせてしまっているのだ。
「だが、お前がそれを全てひっくるめて、それでもまだ側にいると言ってくれて……嬉しかった。あんなにも酷いことをしたのに、お前にとっては、まだ必要とされる人物だった事が嬉しかったんだ」
 そういうシャナンの表情には、確かに喜色があふれていた。ここしばらく見ていなかった表情に、スカサハは軽く目を見張った。それに気が付いたかどうかはわからないが、シャナンの手が先ほどよりももっと目の際に近い部分を擦る。
「さっき部屋でお前にこの手を払われた時、利用しているだけだと自分でわかっていたのに、ひどく心が痛かった。そう仕向けていたのは私なのに、ついにお前まで離れていくのかと思って……身勝手な話だろう?」
「そう、ですが、俺もあの時は……自分のことを考えるのに精一杯で、つい建前を並び立てて断ってしまって、」
「どちらにしろ、潮時なのだと思った」
 スカサハに断られたことで眠りを得られぬまま、けれどもう自由にしてやらなければ、と考えていたところにタイミングよくスカサハが来たため、全てを話すことにしたのだとシャナンは言った。あの時、スカサハが目を覚まさず、シャナンの後を追っていなければ今こうして全てが語られる事はなかったのかもしれない。夢に導かれたのだ、とでも言えば運命的だろうか。
「だが、お前に色々と言われて……ようやくわかった。私は自分で思っているより、お前の事が大事だったようだ。お前の幸せを願うなら遠ざけるべきだと考えていたのに、結局、この有様だからな」
 そういうシャナンの顔に浮かんでいたのは、呆れたような優しい笑みだ。スカサハの心音が知らず早くなっていく。先に続く言葉を期待していた。
「だから……私も覚悟を決めた。お前に約束しよう」
「は、い」
「お前が私に全てを捧げてくれると言うのなら、私はお前を幸せに出来るよう……努力する。お前に泣かれるのは今でも辛いし、同じような思いをお前にさせるのは嫌だからな。だから、側にいてほしい。側で――見守っていてくれ」
 努力する――それは、約束すると言った割には随分と曖昧で、臆病な言葉だった。だがスカサハはそれでも良かった。その臆病な部分こそ、これまでシャナンがスカサハに見せなかった弱い部分なのだ。それを素直に曝け出し、スカサハのために変わろうという意思を表現してくれただけで泣きそうになるぐらい嬉しかった。それを、都合の良い男だと思われても構わない。
 これまでは、シャナンの弱音を聞くのはオイフェだったのだろう。だが彼が側からいなくなり、代わりにスカサハがその位置に立った。偶然が重なって手に入れた立場だとしても、この場所を他の誰かに譲る気は無かった。
 スカサハは一度息を吸った。冷たい空気が肺に満ちる。その空気に、一言一言を噛みしめるように、音を乗せた。
「はい――貴方の側に、いさせてください」
 スカサハの返事に、月明かりの中、シャナンは柔らかく笑った。それだけで、スカサハは確かに心の奥が満たされたのだ。それが――ずっと待ち望み、夢にみていた幸せだった。



 不意に吹いた冷たい風がシャナンの毛先を弄んだ。手合わせでかいた汗が冷やされ、寒い、と改めて感じ、スカサハは今一度提案する。
「シャナン様、そろそろ……部屋に戻りましょう。随分と手が冷えていましたし、今日はもうお早くお休みください」
 先ほど頬に触れた冷たさを思い出して言うと、シャナンは急に笑みをかき消してふっと目を反らした。
「……眠れないと、言っただろう」
「あ……」
 静かにつぶやかれた言葉に、そうだった、とスカサハは彼の悪夢を思い出す。言われてみれば、確かに悪夢を見る原因を取り除けたわけではない。だが、ふとスカサハは思い浮かんだ事があった。
「……だったら、一緒に寝ませんか?」
「……今日断ったのに?」
「え……あ、そういう意味じゃなくて、ほんとに寝るだけです!!俺が知ってる貴方は、そういう事をしなくても夜にちゃんと眠れていたから、ひょっとして人が側にいれば眠れるのかもしれないって思って……」
 スカサハの提案にシャナンはなんとなくあまり乗り気ではなさそうだった。だがスカサハはこの考えが間違っているとは思わなかった。その効果はスカサハ自身がよくわかっていたからだ。
「もし魘されていたら俺が起こします。だから今日は何もせず、隣で寝させてください――昔のように。昔、怖い夢を見て泣いていた俺に、貴方がしてくれたように」
 きっとそれだけで、心のあり方が随分と違うはずだった。それで駄目ならまた別の方法を考えるしかないが、きっとうまく行くはずだ、と信じていた。
「……寝るだけでいいのか」
 ぼそ、とシャナンが呟いた。だからそう言っているのにさっきから何を不満そうにしているのだろう、と軽く首をかしげると、シャナンは言いづらそうに口を開く。
「お前の気持ちは、まぁ察しはついていた。私のことをずっと想ってくれていた事は……知っている」
「あ……えぇ、まぁ……」
「だから、何もせずに寝るだけではあまりに酷ではないかと言っているんだ」
 つまり――生殺しだとでも言いたいのか。
 言っている事は、確かに間違ってはいない。昼間はともかく、夜に、あの部屋で隣にシャナンがいれば、経験と期待によってスカサハの気分は否応なしに上がっていくだろう。健全な青年男子であれば自然の理だ。
 だがそんな事を気にさせていたのか、と思うと、余計なお世話だとも思うし、ままならない欲望を情けなく恥ずかしくも思うし、スカサハのことをよくわかっていると感心したくもなる。今回は一番最初の考えだった。
「……そんなことを気にする余裕があるなら、早く、大人しく寝てください!!」
「わ、わかった」
 むすっとして睨み付けると、シャナンは慌てたように頷いた。それがおかしくて、ふふっとスカサハは吹き出す。ここしばらく、ずっと遠くにおいてきてしまったように感じていた日常が、身の回りに戻りつつある気がした。
「……というか、少し前からずっと気になってたんですけど」
「なんだ?」
「俺の気持ち知ってて利用したっていうのはわかりましたけど、今もそうやって煽るような事言って……俺、貴方にもそういう気持ちがあるんだって、勘違いしそうになるんですけど……」
「……待て、お前はずっとそういう意味で言ってたんじゃないのか?」
「えっ、あ、はい、俺はそういう意味でしたけど、だって貴方のは、」
 親族としてのそれを上回る事などないのだと思っていた、のに。そう言いたげなスカサハの表情を見て、シャナンは小さくため息をついた。
「お前の気持ちはわかっていると言った上で、お前がそういう意味だったのなら、私だってそういう意味で言葉を選んだつもり、なんだがな……」
「え……いや、全然そんな風には……だって、いつから!?」
「いつ……気づいたのは、お前と話をしてからだが……戦いが終わった後、お前を無理にでも遠ざけなかった時点で、そういう気持ちがあったんだろう」
 たぶんな、と他人事のようにシャナンは素っ気なく言う。だが、困ったように寄せられた眉根が、本人の戸惑いを雄弁に物語っていた。
 それは、つまり――。
「……シャナン様」
「……」
「口付けても、いいでしょうか」
「……今までしなかったのに、急にどうした」
「今の貴方にならしてもいいかなって……」
 最初に己を戒めたあの時は、まだ畏れがあった。心の距離も遠い気がしていた。そう考えると、なんだかんだと理由をつけ、一歩引いて壁を作っていたのはスカサハも同じだったのかもしれない。
 だが今は、もうそこに壁は見えなかった。手を伸ばせば手に入る位置に欲しいものがあるのなら、手を伸ばしても許されるだろう。
 シャナンはスカサハの視線を見返して、照れたように小さく口を開いた。
「……お前がしたいのなら、別に……」
「では失礼します、」
 そう言って、スカサハは素早くシャナンの両肩に手をかけた。その手が微かに震えていたのは、緊張と歓喜からだ。接吻などよりもっと深いことをしていたというのに、改めてとなるとやけにどきどきしていた。
 自分よりも低い位置から、双眸がじっとスカサハの事を見上げている。その二つに誘われるように、スカサハは初めてシャナンの唇に自分のそれを重ねた。
 ――それは誓う場所だ。
 全てをシャナンに捧げる、スカサハの誓い。この誓いはスカサハだけのものだ。心に消せぬ想いがある限り、シャナンにも他の誰にも破られはしない。
 触れた唇は、冷たく、少しかさついていた。この寒空の下に立ち尽くしていたことと、体調が万全でないからだろう。それと、スカサハの方が体温が高いからだ。
 それでも、スカサハの心をふわりと温めてくれた。初めて、心が近くにあると感じられた。
(……やっぱり、俺、この人が好きだなぁ)
 ほんの一瞬だけ触れて、離れると同時に抱きしめる。そのスカサハの背に、ゆっくりと二つの熱が回された。
「……ずっと側にいます。貴方が、俺の事が嫌いになって、俺のことなんて不要になるまで」
「……それでは本当に一生かもしれないが、いいのか」
「望むところです」
 望まれるのならば、望む限り、ずっと側に。
 ――それが、誓いだ。

 冷えた手を温めるようにお互いの手を握ったまま、二人は部屋へと戻った。
 そして、二人並んで共に眠る。



「――そういえば、知っていたか、スカサハ」
「なんですか?」
「昔……お前が眠れないからと言って一緒に眠ったことで、安心して眠れていたのはお前だけじゃないんだ」
「……あ、じゃあさっき俺が言った事って……」
「あぁ、だからきっと、今日、夢は見ない……と、思う」

 どうかそうであってほしい、と願った。そうであったなら、何も出来ないと思っていたスカサハが、側にいるだけで彼のためになれるのだ。
 その願いを見届けようと、スカサハは隣に並ぶシャナンが静かな深い眠りにつくまで、ずっとその横顔を見つめ続けていた。





久遠の夢 完



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