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「――シャナン様」
 穏やかな声がシャナンの耳を打つ。
 それに導かれるように、深いまどろみの中からゆっくりと意識が浮かび上がってくる。
 途中で、ふと頬に触れる優しい感触があることに気づいた。
(――温かい)
 朧げな意識の中、無意識にそれを手に取って頬を寄せると、それがびくりと震えるのがわかった。一瞬遠ざかるような気配があったが、しかしすぐにシャナンの手が熱に包まれる。それに安堵して、再び意識が闇の中へ沈みかけ――。
「……シャナン様、朝ですよ」
 もう一度、同じ優しい声色が己の名を呼んだ。その感覚ですら心地よく、頭が覚醒を拒否しているかのようになかなか目が開かなかった。
(もう少し、このまま……)
 だがその願いが叶うことはなく、無慈悲にも声は続ける。
「そろそろ起きないと、朝議に遅れますよ」
 躊躇いがちにかけられた言葉の内容を理解するのに、少しの時間を要した。その間も、シャナンの手を優しく、温かく包む熱に心がじわりと満たされていく感覚がある。
 そして、ゆっくりと訪れる覚醒――。
「……遅れる?」
 不穏な単語に気がつき、ぱち、と目を覚ますと、覗き込むようにしてシャナンの顔に影を作っていた男の姿が映った。その表情が困ったような、安心したような複雑な感情を浮かべているのを見て、シャナンは緩く首を傾げる。
「――どうした、スカサハ」
「あっ、おはようございますシャナン様」
 スカサハは嬉しそうに紫紺の目を細め、シャナンに笑いかけた。その光景に、おや、と疑問符が浮かぶ。
(スカサハならさっきまで私の隣で寝ていたはずだが、いつの間に……)
 そう思って寝台の隣を見るより先に、カーテンの隙間から漏れ出る光の明るさが朝である事を告げていた。ついさっき闇に包まれる中で寝たはずだと思っていたのに、と思っていると、その戸惑いを知ってか知らずか、スカサハは穏やかに続けた。
「よく眠られていたようで」
「……そうか、私は朝が来たことも知らないほどに、しっかり寝ていたのか」
 珍しい事だ、と思いながらも、その原因には思い当たっていた。昨晩はいつもよりも寝台の中も、自分の体も温かかったのを覚えている。そしてその、理由も。
(……そうだ、とりあえず起きなければ)
 先ほどのスカサハの言葉を思い出し、慌てて上体を起こす途中、ふと自分の手が何かを握ったままである事を思い出した。目視すると、それは人の手だった。それに繋がる腕を辿り、肩口を経て、首元を上っていくと、困ったように視線をそらすスカサハの顔がある。
「……お前の手だったか」
「えっと……すみません、これはその……シャナン様があまりにもよく眠っていたのでつい、思わず手を伸ばしてしまったというか……気がついたら動いていたというか、やましい気持ちがあったわけではなくて、ちゃんと眠られている姿を見て嬉しかったというか、」
「温かい手だな」
「えっ……、……っ!!」
 スカサハがもごもごと弁明しようとしているのを遮り、ふ、と笑ってその手の甲に唇を寄せると、目で見てはっきりとわかるほどにスカサハの体が跳ねた。明らかに困惑している様子が伝わってきたが、しかし力任せに振り払われたりはしなかった。代わりに、伺うような視線をこちらへ向けてくる。
「あっ、の、シャナン様、」
「私の手と、違って」
ぽつり、と付け足すように口からこぼれた言葉は思ったよりも冷たい響きがあった。その温度差を感じ取ったのか、スカサハもぴたりと動きを止めた。
「――朝起きると、私の手はいつも冷え切っていた」
 今日はさほどではないが、ともう片方の手の甲を己の首元に当てて温度を確認する。いつもは氷かと間違うばかりの冷たさだが、今は少しひやりとしたものを感じる程度だった。
「見る夢が血の気を奪い、呼吸は浅く、身体は勝手に震えていた。もうずっと昔からそれに慣れてしまっていたが……人の身体というのは、本当はそんなものではないんだな」
 嘲笑するように口元を歪めて笑い、シャナンはじっとスカサハの手を見つめた。
 ――己に罪が刻まれたあの日以来、シャナンは悪夢を見ることに慣れすぎてしまっていた。夢を見るのは自分の責任だからとその日々を受け入れ、いつしか救われたいと望む事をやめてしまった。許されてはいけないのだと戒め続け、その中で生きる事を日常とするのに慣れてしまっていたのだ。
 しかしそれでは何も変わらない、と気がつくまでにどれほどの年月を費やしてしまったのだろう。そう考えると己の愚かさが際立つようだった。
(……だが、その日々が無駄だったとは思わない)
 罪を背負って生きていたあの時間は、紛れもなくシャナンの心を支え、挫けそうになる足を何度も立ち上がらせてくれた。混迷の闇の中にあり、絶望の未来に飲まれそうな中でも、その執念にも似た意識のおかげでずっと立ち続ける事が出来ていたのだ。
(だが、それもようやく……)
「――今日は、夢を見なかった」
 お前のおかげで。
 そうは言わなかったが、言いたい事を理解したかのようにスカサハの指先にぐっと力が入った。
「それなら良かった、です」
「あぁ、良かった」
 スカサハが心底安心したように、まるで自分のことのように笑う姿に、シャナンもつられて笑った。
 これほど落ち着いた心穏やかな朝が迎えられる日が来るとは夢にも思っていなかった。もし悪夢に苦しむ過去の自分にこの未来を届ける事が出来たなら、どれほどの希望を与えられるだろう。
 だがそれも、全て乗り越え、終わった事だ。
「……しかし、夢を見ないどころか寝坊までするとは気が緩みすぎているか……?」
「……あっそうでした!こんなゆっくりしてる場合じゃありません、早く支度してください。さっきからもう何度か様子を見に来た衛兵を追い返してるんです」
 こんなところ見られるわけにはいかなくて、と慌てたように言うスカサハに、シャナンは首をかしげて言い返す。
「何もやましいことをしているわけじゃない、堂々としていればいいだろう」
「……貴方はそうでも、俺は」
 いつだって貴方に触れたいと思っているので、と心の内にあるやましさが暴露されるのと同時に、掴んでいた手が遠ざかり、代わりに温かな感触が唇に触れた。
「……ん、」
 相変わらず、触れるだけの口付けだった。その至近距離のまま視線が絡み合い、貫くような鋭い瞳に正面から見据えられた。
(……真っ直ぐな目だ)
 真っ直ぐに――シャナンの事を思ってくれている。
 しばらく見つめた後、先に顔を逸らしたのはスカサハだった。
「――さぁ、早く起きてください。そろそろ本当に時間が押してますから」
 そのまま離れていくスカサハに、何もしないのか、と少し残念に思う気持ちもあった。だが、スカサハの気遣いを無にするのも、朝議に遅れてしまうのも本意ではなく、シャナンは立ち上がるために床に足を下ろした。
 その眼前に、再びすっと手が差し伸べられる。
 大きくて温かいスカサハの手だ。
(……あぁ、まるで正反対だ)
 その手を掴みながら、ふと笑った。
「どうしました」
「ん、あぁ、いや、いつも手を伸ばすのは私の役目だったのになと思って」
「……俺が貴方に手を差し伸べるのはおかしいですか?」
 不安そうに、あるいは不満そうにつぶやくスカサハに、シャナンは小さく首を振った。
 思えばこれまでの関係は双方向であるものの、酷く歪なものだった。物理的にはお互いに手を伸ばしあっていたのに、その心は遥か遠くにあった。互いの事を思って手を伸ばしながらも、色々なことを諦めて相手に接していたのだ。
 だがこれからは違う。互いを阻んでいた壁はもう乗り越えられた。乗り越え、そしてすぐ隣へと引き寄せられた――この手によって。
「スカサハ」
「はい?」
「私は今、ここ最近で一番幸せだと思う」
「え……」
 陳腐な言葉だが、その言葉は本心からのものだ。
 己の生き方を縛り続けているあの罪がある限り、自分が幸せになるなど、求めることも、叶うこともないと諦め、久しく遠いところにある夢にすぎないと思っていた。
 だが、目の前のこの男は、それを望んでもいいのだと気づかせてくれた。シャナンがそう望む事を、心から望んでくれた。その人生全てをかけて、今度も望み続けてくれるのだろう。
 そう考えた時、心の中を喜びに似た温かなものが満たした。それがおそらく、幸せと呼ぶべきものなのだ。
(お前が私の幸せを願ってくれるのなら、側にいて、この手を差し伸べてくれる、ただそれだけで……)
 口にせずともこの想いが届くように、シャナンはスカサハの手を強く握った。それを握り返すスカサハの瞳が幸せそうに細められたのを見て、シャナンはまた、心の内にじわりと熱が広がる感覚を覚えていた。







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最後まで読んでいただきありがとうございました。
支部に上げたものにさらに少し文を足してます。小説本を作ってみようかなーと思っておまけのために書き始めたものですが、本は頓挫したので供養にここに。

シャナン受ならなんでも美味しくいただける私ですが、戦後の事を考えると一番見込みがあるのはスカサハだろうなと昔からずっと思っていたので、一つの形を書けて満足しています。もっと色んな形があると思います。