砂上の月 3


 シャナンは一人、自室で椅子に座って書物を読んでいた。
 すでに太陽は空高くに上っており、軍の大半はすでに起きて行動しだしている時間だ。シャナンもいつもならばその人々に混ざって起き上がっているのだが、今日は状況が違っていたため、部屋に一人篭って本を読んでいたのだ。

 ぱらりぱらりとページをめくり書物に目を走らせる。その目は忙しく上下に動き、文字を追っていた。
 しかし実際は、綴られている言葉の羅列を目で追っているだけだった。本を読んでいるわけではなく文字を見ているだけで、内容は少しも頭の中に入ってはこない。それを知りながらシャナンは文字を追うことを続けていた。
 今のシャナンにとって本を読むという行為はそれを目的としているのではなく、ただほかの事を考えない為のものだった。文字を追うことに集中していれば少なくともその間は周りの状況を忘れられると思ったのだ。だがそれも結果的には無駄なこととなっていた。

 シャナンの頭の中をぐるぐるとある一つの事が巡る。それは早く忘れたいと願い、ゆえに本に没頭しようとしているというのに、それが叶わない。何度も、何度思っても、何度思考の外に追い出そうともすぐに意識の前面に浮かび上がってくる。
 腹立たしいその状況に、シャナンは知らず眉間にしわを寄せていた。

(……早く、忘れてしまえ……)

 まるで催眠術か何かのように、目は本の上を滑らせながらシャナンは繰り返していた。



 ――昨日、レヴィンに抱かれた。

 抱きしめられたとかそんな古典的なオチではない。女性よろしく抱かれたのだ。
 それが今のシャナンを悩ませている原因だった。
 犯されている時から信じがたいことだったが、起こってしまった今もなお信じられない。信じたくなかった。
 だが実際に起こってしまったことは仕方が無いのだと、努めて忘れさってしまおうとしているのだが、少なくとも翌日には心にも体にもその記憶を残していた。忘れることを許さないかのようにそれらはシャナンに痛みをもって訴えかけてくる。

「……、は……」

 時折、息を大きく吐く。
 起き上がったり動くだけでもあらぬ所が痛む。こんな不快な痛みなど二度と御免だと思うほどに、それはシャナンを苦しめていた。だが表情には出さないようにしているし、こうして部屋に篭っているため他の誰にも気づかれてはいない。
 知っているのは当事者であるシャナンとレヴィンだけだ。
 だがこんな秘密の共有など不快以外のなにものでもなかった。

「……」

 不意にシャナンの瞳が本から外され、窓の方へと向けられる。日の傾きから時間を確認しようと思ってのことだったが、彼は振り向いたと同時にその行動を悔やむかのように、綺麗な顔に露骨に嫌悪感を表した。彼の目線の先に置かれていたものは、明け方まで彼が眠っていたベッドであった。
 同時に、まぶたの裏にちかりとある光景が浮かび上がる。それはちょうどその同じベッドの上で行われていた行為が、映像として映し出されているかのように鮮明に思い浮かんでいた。

 ――組み敷かれる自分。ろくな抵抗も出来なかった自分。足を開き、抱かれた自分。

 その姿がありありと、見てもいないのに思い浮かび、あぁ目に入れるのではなかったとシャナンは暫く停止してから体勢を元に戻した。それから多少乱雑に手に持っていた本を閉じる。厚めの本はぼふと鈍い音を立てた。

「……早く忘れてしまえ……」

 眉間にしわを寄せ目をつむり、再びつぶやく。言い聞かせ、記憶から消し去ろうとする。だが渦巻く思いはどこからも逃げていくことはなかった。内にこもり更に激した感情となって溜まっていく。それがまたシャナンのけだるさを増幅させた。

 昨晩の出来事ははっきり言うと苦痛ばかりしか感じなかった。後孔を無理に広げられ、内臓を押し上げられ、無理矢理に揺さぶられ、それでどうして快感を得ることが出来ただろうか。いや、逆にそこで感じてしまわなくて良かった、とも思う。
 とはいえ同時に性器を直接弄られており、結果的に射精はしている。精を吐き出した後は特有のだるさがあり、加えて状況が状況だけに精神面にも相当な負担がかかっていた。
 もとよりシャナンはそういった方面に淡白だった。欲を剣を振るうことによって発散させているからか、自分で慰めることさえほとんどなかったのだ。だというのに、まさか他人に、しかも男に触れられることになるとは思ってもいなかった。その屈辱にも、羞恥にも似た感情がひどくシャナンの精神を蝕んでいた。
 今思えば、もの凄く今更だが非常に恥ずべきことであり、そして受け入れた自分が信じられない。考えれば考えるほど、自己嫌悪に陥っていった。

「……はぁ」

 本日、何度目のため息だろうか。控えようと思っても、自然と口から洩れるのだから止めようがなかった。心も体も疲弊している。
 そしてなにより、自己嫌悪を加速させていることがあった。それは、襲われた時に本気で抵抗したのかと聞かれると、正直なところ「はい」と即答できる自信がなかったことだ。抵抗しなかったわけではない。ただ戸惑いが本来の力を抑制していたのは確かではあったが、本当は最初から諦めていたのではなかっただろうか、と囁く声があった。

(……そう、だってあの人は)

 思い出し、ゆっくりと目を開く。
 相手は――レヴィンは、シャナンが幼い頃から強くて立派で、そして尊敬する人の内の一人だった。シャナンとは目指す先が違っていたとしても、その生き方や強さは目標とするにふさわしいものだった。
 だから無意識の内に、自分なぞが勝てるような相手ではない、と思ってしまっていたのかもしれない。もしそうであったとしたら、むしろ合意の上での行為だったのではないかと思えてくる。それがまた悔しくて、情けなくて、息苦しくなった。レヴィンがこんな行為に及ばなければこんなに苦悩することもなかったのに、と自分の非は棚に上げて怒りすら湧き上がってくる。
 それでも。

「……堕ちたものだ、私も」

 ――それでも、あの人のことを嫌いになれない自分のままならない心を、シャナンはただ嘲笑っていた。



堕ちた剣聖


シャナンのお悩みぶつぶつ話。愛のある話なのかそうでないのかよくわからない。



2017.2 改訂