砂漠の砂の色にも似た丸い月が空に浮かんでいる。
 ティルナノグの路地裏からでもはっきりと見えるその月を見上げつつ、シャナンは路地裏に追い詰めた三人の男達の姿を見回した。男達の手には各々に剣と、それから大きめの袋とが握られている。シャナンの目的はその袋の中身だった。でなければ、男を追い回して楽しむ趣味など持ち合わせていない。

 盗賊が出た、という街の者の悲鳴を聞いたのは日も沈み店も閉まり始めた頃だった。

 ちょうど街に降りていたシャナンが偶々それを聞きつけて、盗賊達の討伐に乗り出したのが十分ほど前だ。この里に匿ってもらっている身としては人々の助けにならねばならぬ、というのが大きな動機であったが、実際はそう頭で考えるよりも早く体は動き出していた。いずれにせよ、順番はどちらでもいいだろう。とにかく助けなければ、という思いが若きシャナンを突き動かしていた。
 そして追いかけること十分ほどで、彼らをこの路地裏に追い詰めたのだった。

(……ふん、あっけないな)

 追い詰めた盗賊達を見てシャナンは肩をすくめる。シャナンとやりあうだけの剣の腕前もなければ、三人がかりでシャナン一人から逃げ出すだけの頭脳もない。そんな杜撰な計画で盗みを働くというのだから、愚かなものだ、と男たちをいっそ哀れに思った。いや、愚かで哀れだからこそ、窃盗を繰り返すことしか出来ないのか――そんなことを考えていた。
 まだ捕まえたわけではなく油断は禁物なのだが、たかが平民からのなりあがりの盗賊如きに本気を出さずとも勝てるだろうと考えていたのは事実だった。剣の構え方や剣自体の鋭さを見ても、自分に負ける要素などないと思っていた。

 ――だから、自惚れたのだ。

「さて……おとなしく奪ったものを返してもらおうか」

 そう言いながら近づいていくシャナンを見て男のうち一人が笑ったことに気がつかなかったのは、完全に驕ったシャナンの失態だっただろう。
 大体おかしいと気づくべきだったのだ、追い詰めた男たちの誰も、大してうろたえもせず、かといって状況を打破しようともしていなかったことに。それは馬鹿だからではない、何か裏があるからなのだ――と。

「大人しく物を返せば、今ならまだそのまま解放して……」
「――シャナン、後ろだッ!!!」

 突如背後からそう自分の名前が呼ばれるのを聞いて、シャナンはようやく自分の後ろに別の人間の気配があることに気が付いた。はっとして振り返ると、剣を振り上げた大きな男が逃げ道を塞ぐかのようにシャナンの後ろに立ち、にやにやと笑みを浮かべている。ちら、とシャナンの後ろの男たちに目配せをしたのを見て、この男が盗賊の頭目なのか、とシャナンはそこで己の失態を悟った。賊を追い詰めたはずのシャナンは、しかし実は追い詰められていたのた。
 前方の敵ばかり見ていて後方に気を配らなかった自分の甘さを、その時はただ悔やんだ。自分は強いのだと自惚れて、負けるはずがないなどと余裕ある態度をかましてみせて、それでこの状況かと笑い飛ばしてやりたい気持ちさえあった。
 すでにシャナンのすぐ背後まで迫って来ていた頭目の持つ剣先は、真っ直ぐ天の月に向かっている。あぁ、美しい月だ――剣の先を視線で追い、そう思った次の瞬間、白刃が振り下ろされるのが見えた。

 ――死ぬ。

 スローモーションで流れる刃の軌跡を見ながら、漠然とただそれだけを思ったシャナンの目の前に、残像のような影が割り込んだ。その際、どん、と身体が押された衝撃に三歩ほど後ろに足が下がる。そのシャナンの前で、ゆっくりと倒れていくものがあった。

「な……」
「くっ、う……!」

 それは――先ほどシャナンの名前を呼んだ男だった。幼い頃からもう十年以上、数奇な運命を共にしてきたその男の肩に、赤い花がぶわっと舞ったのが、見えた。

「っ……オイフェッッ!!」

 それを認識した途端に、シャナンの視界から赤以外の色が消えうせた。

 その後のことはほとんど覚えていなかった。
 ただ気づいた時には、目の前に一つの死体と、三人の瀕死の人間と、肩に傷を負い血を流す男がいただけだった。





「哂ってくれ。貶してもいい。いっそ殴れ。お前の気が済むのなら、好きなようにしてくれ」

 血の量の割にはあまり深い傷でなかったオイフェが、傷口の処理をしてから少し眠り目覚めた時、ベッドのすぐ隣に居たシャナンが発した第一声はそれだった。
 一瞬、何のことだ何を言っているのだ、と状況が理解出来ずに尋ねようとしたオイフェは、しかしこの状況から考えて一つしか思い当たらずに、言葉は飲み込んだ。
 代わりに起き上がろうとして、肩の傷口に走った痛みにほんの少し動きを止めると、シャナンはそれを見て一層罪の意識に苛まれていた。別にそんな顔をさせたくて助けたわけではないのに、とオイフェは思いながら笑いかける。

「傷のこと?だったら別に気にしてないけど…」
「それでは私の気が済まない」

 今のオイフェの行動を見てしまったから尚更に、とでも言いたそうにシャナンの瞳が揺れた。確かに、傷が痛むのは事実だ。だがそれを謝って欲しい気持ちは一切なかった。
 あの時オイフェがあの場に現れたのは、盗賊騒ぎを聞きつけ、人々からシャナンらしい男が賊たちと捕り物劇を繰り広げているとの話を追って、ちょうど駆けつけたところだった。そこでシャナンの背後で剣を構えている男を発見したのだ。気づけば名前を呼んで走り出していた。考えたのはただ一つ、シャナンを助けなければ――ただそれだけだった。
 そして、現にこうしてシャナンのことを助けられた現実に、オイフェは満足していた。オイフェにとって重要なのはそこだけだった。

「シャナンが悪いわけじゃない。助けたのは私がそうしたかったからだ」

 シャナンが助かってよかった、という切実なこの想いが伝われば良いと思って口元に笑みを浮かべてみせると、シャナンは一瞬ぴくりと眉を動かして辛そうな表情を浮かべた後、髪をなびかせて首を振った。

「代わりにお前が怪我をしては意味がない」
「あのままならシャナンは死んでいたか、大怪我を負っていた。それを、私の少しの怪我で済んだのだから、最善だったと思うよ」
「っだが!……私が、愚かにも……自惚れて、油断していたばかりに、お前に怪我を負わせてしまったのは事実だ……本来ならば、私がもっと気をつけていれば絶対に負わなくても良い怪我だ」

 視線をオイフェの肩口に向けて、心底悔しそうに、申し訳なさそうにシャナンが声を絞り出した。仕方なしに負った怪我と、自分に欠点があったせいで負わせてしまった怪我とでは随分と感じるものが違う。それに苦しんでいるというのなら、もう十分だとオイフェは思っていた。

「でもシャナンのおかげで盗賊は退治され次なる被害を防ぎ、盗まれた物も持ち主のもとへと返った。だったらそれで十分だと私は思うんだけど……」
「私はお前が傷ついたのが許せない。弱い自分が……許せない」

 ぐ、と拳を握りしめ肩を震わせるシャナンに、オイフェは眉尻を下げた。
 その気持ちはオイフェにもよくわかる。自分の無力さを痛感するのは本当に悔しくて苦しい。そして、自分のことを責めたくなるのだ。何もできなかった自分が許されるべきではない、と。
 加えて、シャナンは自分が原因で誰かが傷つくことにひどく恐れを抱いている。それは過去のあの出来事が原因だ。
 そうしたこともあり、先程、シャナンが殴れだのなんだのと言ったのはそういうことなのだろう。何もオイフェの怒りを発散させるためだけではなく、彼自身が罰されたかったのだ。

(シャナンばかりが悪いわけではないのに……)

 だがこう言い出した彼はきっと、オイフェが一言でも詰るなり怒るなりしなければ自分を許すことをしないのだろう。自分に厳しい男である。
 だがそんなシャナンだからこそ、助けてやりたいと思うし、甘やかしてやりたいとも思う。これは、イザークの王子として他人に対しては凛と立たなければならないシャナンの甘えなのだ。その弱音を吐けるのが自分だけだと思うと、オイフェはやはり怒りよりも喜びが先に胸を満たす。

「じゃあシャナン、この肩が自由に動かせるようになるまで私の面倒を見てくれないか?」
「面倒を?それならば手馴れた者の方が……」
「私はシャナンがいいんだ」

 畳み掛けるようににこりと笑ってそう言うと、少し面食らったようにしていたシャナンだったが、暫くの沈黙の後、わかった、と言って頷いた。たったそれぐらいのこと、と思ったのかもしれないが、何も言いつけられないより少しは気が軽くなっただろう。
 それでいいのだ。オイフェはシャナンに対して怒りも呆れもない。確かに驕りはあったのかもしれないが、オイフェにだってそんなこともあった。誰もが通る道だろう。
 その自分の弱さを認め、他人に対し口に出せるというのは、心が強いからだとオイフェは思っている。だから今回のシャナンの言動を咎めるつもりなどなかった。大体オイフェとて、考えもなしに飛び込んで行った結果がこの傷だ、シャナンのことを責められる立場ではないのだ。

 頷いたシャナンが纏っていた雰囲気が軟化したのを確認したオイフェは、ふと思いついて、自由に動かせる左手の方でちょいちょいとシャナンのことを手招きした。ん、とシャナンが背中を曲げて顔をオイフェの方へ近づける。
 その端正な顔立ちを少し眺めた後、オイフェはシャナンの唇に自分のそれを軽く合わせた。驚いたように目を見開いたシャナンを横目に、すぐに顔を離して、オイフェはふふと笑いかける。

「これもお詫びということで」
「……詫びって……」
「あぁ、いつものシャナンに戻った」

 いつもの、かどうかはわからなかったが、少なくとも先程までの暗い表情はすっと影を潜めた。オイフェの思惑通りで、内心ホッと胸をなでおろす。
 ある一人の女性が姿を消したあの日から、オイフェはシャナンの落ち込んだ表情ばかりを見て来た。気丈に振る舞い剣の腕を磨き続ける中でも、ふとした瞬間にその表情には影がさす。今でも夢にうなされる日があることを知っている。
 だからこそ、自分といる時ぐらいは、シャナンにそんな表情をしてほしくないと思っていた。まして、恋人というにはおこがましいが、情を抱く相手が暗い顔をしていれば、こちらも寂しくなるものだ。
 しばらくオイフェを見つめ沈黙していたシャナンだったが、オイフェの気遣いが伝わったのか、それ以上先ほどの件を蒸し返そうとはしなかった。代わりに、オイフェが触れた口元に指をやり、つ、となぞってからゆるく首をかしげる。

「詫びは、それだけでいいのか?」
「え」

 問いかけに、今度はオイフェが驚く番だった。
 その隙に、次はシャナンの方から唇が重ねられる。そのままゆっくりと離れ、吐息がかかるほどの至近距離で見つめられ、オイフェはその顔にぐいと手のひらを当ててシャナンを遠ざけた。

「……肩を動かすと痛むと言ってるのに、あまり煽らないでくれ」
「お前が望むなら、私が動くが」
「ぶっ」
「ふふ、そういう面倒は見なくてもいいか?」

 オイフェの手を取り、すっかりペースを取り戻したように笑うシャナンに、オイフェはもう片方の手を額に当てて項垂れた。
 あまり積極的に手を出さないオイフェに対し、時折シャナンが煽ってくることはあったが、何も今でなくてもいいだろう、とは思う。手を出さないとは言うが、オイフェとてまだ枯れているわけでもないのだから、誘われれば相手をしたくなってしまう。だが、行為の最中に傷の痛みでオイフェの動きが止まれば、またシャナンは辛そうな表情を浮かべるだろう。それは望むところではない。

(……だがまぁ、それでシャナンの気が晴れるなら……)

 ふとそんな考えに至ったのは、こちらを見つめてくるシャナンの瞳の熱にあてられたからかもしれない。つい今しがたと考えていることが矛盾している、と困ったように眉を寄せるが、明らかに煽られたのだから仕方がない。
 そう自分に言い訳をしたオイフェは、明確な答えを返す代わりにシャナンに握られていた手で彼の肩をつかむと、そっと引き寄せてもう一度唇をふさいだ。





オイフェからのシャナンへの二人称ってお前ですか君ですか貴方ですか。小さい頃は君でいいと思うけど個人的にはお前とかいうフランクなの希望。



2017.2  改訂