Ease


 戦場に立っていると、段々と時間の流れが曖昧になっていく。

 ――紅い殺戮の世界。

 それが戦場であり、それが自分を取り巻く全てのものだった。
 断末魔があがり血飛沫は飛び散り、世界は赤に彩られていく。辺り一帯に広がった独特の鉄の匂いに一時眉をしかめ、それでも次第に慣れてゆく感覚は不快感を消し去ってゆく。
 頭の中に忍び寄る残虐な心と、それを止めようとする理性とのせめぎあい。その相反する二つの心を持ったまま、目の前の敵を切り倒しまた世界を赤く染め上げる。戦場において歩兵がすることなどそれぐらいであった。いや――もうほとんど、敵を斬る、という攻撃的な意識しかないのかもしれない。下手な情は己の命を危険に晒すと本能的に察しているからだ。

 ぽつり、ぽつりとバルクムンクの剣先から血が垂れ、地面に吸い込まれていく。神剣と称されるそれは血に穢れてもなお、その美しさを損なわず輝きを保っている。すでに一体幾人の人間の血を吸ったかも知れない、その狂気にも似た剣を握り締めながら、シャナンは赤い世界に立ち尽くしていた。
 自分以外の部隊の人間が見当たらない。敵兵を一掃してきた道のりを振り返ってみると、そこには死体の山だけが築き上げられている。そもそも、この辺りに生者の気配がしない。
 一人だけ突っ込んできてしまった為にはぐれてしまったのか、本当に全員いなくなってしまったのか。後者の考えは、思ってからすぐに捨てた。皆生きているのだと考えていた方がずっと気分は軽い。

(あぁ、あるいはここはもう死後の世界なのか)

 緋に染まった世界を眺めて、まるで現実ではないようだ、と考え、自問する。

 ――己はまだ生きているだろうか。

 時々その問いを繰り返してみて、体についた傷の痛みにそれを実感する。どれだけ世界が異常であろうとも、ここは現であり、死後の世界ではないのだと教えてくれるものはそれだけだった。

 ――己の心は、まだ生きているだろうか。

 ただ肉の塊となったモノを見ても眉一つ動かさない自分を感じ取って、その問いを繰り返してみる。だがそれに対しては明確な答えを返すことは出来なかった。
 それでも斬るしかない。自分が生き延びるためには、相手を斬るしか道はない。すでに手に慣れたはずの肉を断ち切る感触は、しかし嫌悪感を感じて戻しそうになることもある。
 それでも。

(……私は、帰らないと……あいつの、ところへ)

 帰りたい、と思う心がある。まだ心が己のままでいるうちに、大切な人の所へと帰りたかった。
 ――あいつはどうしているだろう。
 ふと、シャナンの脳裏をその考えがよぎった。戦場で血にまみれた男が思うには随分と穏やかな考えだった。
 きっと彼は、彼が守るべき主君の近くで奮闘していることだろう。それが彼の役割であり、果たすべき忠義であった。
 とするならば、己の役割はなんだろうか、とシャナンは思考する。誰かを守る為に手にした剣だが、今は誰かを殺すためだけになってしまっているのではないだろうか。

(……いや)

 いや、違う。
 シャナンは自分の考えに即座に否定を入れた。
 ものは言い様というだけなのかもしれないが、敵を殺すことで誰かを―――セリスを、そしてあの男を守ることが出来るのならば、喜んで鬼となろう。そう思ったのだ。この戦乱の世の中で生き延びて、大切な人を守ろうと思えばそれぐらいのことは覚悟しなければならない。そんなことはもうずっと前から知っていたはずであったが、改めて確認するに至り、シャナンはふっと笑うと手にしたバルムンクに再び力を込めた。
 戦場に再び、鮮血の華が咲き乱れた。



 ――日が沈む。西の山にゆっくりと、日が姿を消してゆく。砂と血にまみれた不浄な大地を橙の光が照らし、やがて闇に包んでゆく。
 遥か遠くで勝鬨を上げる自軍の声を聞きながら、岩陰に座り込んだシャナンはその様子を眺めていた。その左足には一筋赤い跡があり、じわりじわりと血をにじませている。

(……そろそろ戻らねば、心配されるか……)

 思いつつ、力の入らぬ足を睨みつけた。戦も終わりに近づいた頃、倒したと思っていたはずの敵に斬りつけられたものだ。自分の服を破って止血はしたものの、少し感覚が鈍いように感じられる。強く止めすぎたか、血を失いすぎたのか。
 しかしここでずっとこうしているわけにもいかず、岩に手をかけて左足をかばうようにしてゆっくりと立ち上がる。そして帰る方向はどっちだっただろうかと確認していると、その視界の端に白いものが映った。それもこちらに気づいたのか、少し頭をかしげてシャナンに声をかけてきた。

「……シャナン……?」
「……オイフェ、どうしてここに」
「良かった、探していたんだ!」

 白い馬にまたがったオイフェは岩陰から見えたシャナンの姿に嬉しそうな声をあげると、ひらりと馬から下りてシャナンのほうへと駆け寄ってくる。そんなオイフェにシャナンもこちらから近づこうと足を踏み出そうとして、ぐらりと左足が崩れた。あ、と思った次の瞬間には、シャナンはオイフェに抱き留められ彼の腕の中に居た。

「と、大丈夫か、シャナン」
「あぁ……すまない、少し怪我をした」
「ひどいのか?」
「たいした怪我じゃない」
「……なんて、ロクに歩けない人の言う台詞じゃないな」

 私の前でまで強がらなくていい、とオイフェは呆れたように言ったが、彼の前だからこそなんでもないのだと思わせたいシャナンの気持ちに気づかぬのだろうか。まぁいいか、と諦めたシャナンの耳にはオイフェの心臓の動きと、そして熱とが伝わってきた。
 血を失いつつあるからか、あるいは戦いにおいて緊張し続けていたからか、少し体温の低いシャナンにはそれが心地よく感じられて、思わず両手をオイフェの背に伸ばしそこで交差させた。そのままぐいと力を込めて体を引き寄せ、肩に顎を乗せる。

「シャナ……」
「あたたかいな、お前は」

 心を冷え切らせる戦場において、おそらく求めたかったものはこれだ。浴びた返り血の温かさなどではなくて、心を暖めてくれるこの温度だ。大丈夫、己の心はまだ生きているのだと理解して、シャナンは初めて安堵の息をもらした。

「……オイフェ」

 呼びかけて、返事を待たぬうちに口付けた。オイフェが驚いている様がよくわかって、シャナンは満足そうに笑ってオイフェから身を離した。少し足は痛んだが、すぐ傍まで近づいてきていたオイフェの白馬に手をかけるのは簡単だった。

「帰るか。馬に乗せてもらうぞ」
「あ、それは構わないが……」
「ならば早くお前も乗れ」

 帰るぞ、と一喝するように背を向けて、シャナンは馬にまたがった。ぽかんとしていたオイフェも我を取り戻し、それを追って馬の背に乗る。本来二人乗りなど馬の負担以外の何者でもないが、城へ帰る道のりぐらいならば耐えてくれるだろう。体勢を確認してから、オイフェは馬を走らせた。

「……シャナン」
「どうした」
「急に口づけられると驚く」
「嫌か?」
「……嫌では、ないけど」
「そうか」

 くつくつと笑うと、背後でふぅと小さなため息が聞こえた。どうやら呆れているようだ。だが、それを本当に嫌がっていないことは彼の心音が早いことからよくわかる。

(……ここは本当に居心地がいい)

 いつの間にか安らいで、軽口さえ叩けるほどの心持ちに、シャナンは口元に笑みを浮かべた。

 ――己が帰るべき場所はここにある。彼がいる限り、自分は自分に帰ることができる。
 ゆらり、ゆらりと揺れる馬の上、沈み始めた夕日を見ながらシャナンはそれを思っていた。



揺れる橙


オイフェの口調が迷子。


2017.2 改訂