彼に抱くこの柔らかな気持ちが、おそらく愛おしいという感情であると気づいたのは少し前だったと記憶していた。
 出会って間もない青年の、それでもひたむきに前へ進もうとする強い意志と眸を今でも覚えている。雪国ファンダリアにあってもなお、すべてを温かく包み込む炎のような青年。それは、人々にとって不可欠の物。炎は凍えるような国に住む人々にとって、決して欠かせないものだった。
 そんな彼に惹かれてしまったのは当然だったのかもしれない、と今になってウッドロウは思うことがある。
 彼の、悪く言ってしまえば脳天気なまでの明るさと、その本心に潜む一途な熱さは、確かに周りの皆を変えていく。確実に良い方向へと。ウッドロウも、多少なりとも変わったのではないか、と思う。

 ウッドロウがファンダリアの次期国王であるということを知らない時点で、別にこの立場を見せびらかすつもりは毛頭なかったが、変わった青年だと思った。外見を知らなくとも、名前を聞けば大抵の人間がそれが「ファンダリアの次期国王」ウッドロウであることに気づく。
 けれど、彼は何一つ気付かなかった。気付かないまま、にこりと無邪気な笑みを浮かべた。
 あぁ、今までに見なかった類の人間だ。面白い、そして興味深い、そう思った。その想いが次第に強いものへと変わっていくのに、それほど時間はかからなかった。

 けれどそう思ったからといって何が変わるわけでもなかった。
 彼はリーネの一青年、己は一国の上に立たねばならぬ人間。それが変わることなど、世界がどう転んでもあり得ないだろう。だから変わらなかった。
 ただ唯一、スタンについて考える時間が少し、増えた。

 この気持ちが本物であることぐらいわかっている。

 けれどそんなことを告げて彼を戸惑わせることもないだろう。この旅路において一切必要のない感情だ。

 それにどうせ、告げる勇気などないのだから。



+++



 がた、がたりと小さな衝撃が絶え間なく続いているその感覚に、ゆっくりと意識が覚醒してゆく。あぁ頭がくらくらする、ウッドロウがその不愉快な感覚に気がついたのは、目を半分ほど開いた時だった。

(…嫌な、感覚だ…)

 目を開けるのが億劫で、ぐ、と眉をしかめた。そのまま、それが治まるのを待とうともう一度目を閉じる。暗闇の視界の中で、ぐるりぐるりと銀の粒子が廻る。
 しかしすぐさま目を開きなおした。今がそれどころではないと気がついたからだ。

(そうだ、私は一体…ここはどこだ?!)

 ばっと見開いた視界に映ったのは、所々黒ずんだ木目の天井だった。それが上下左右しているように見えるのは、ウッドロウの目のせいではなく体全体が揺れているからだろう。
 ウッドロウは状況を把握するために精神を落ちつけ、視線を巡らせた。

(木目…?しかし屋内、ではなさそうだな、車輪の音も微かにだが聞こえる…この振動は馬車か?)

 思っていた事は口に出していたつもりだったが、口に何か布のようなものが巻かれており声にはなっていなかった。思えば両手両足ともに縛られているようだ、じりじりとした痛みが伝わってくる。少し動かしてみたが、縄がはずれる様子はなさそうだった。

(…どういうことだ、確か…)

 体力温存のため抵抗をあきらめ、この状況に至るまでを思い出そうと目を閉じたところで、意外にも近くから人の声がした。

「しかしお頭…ガキの方が高くついたんじゃないですか」
「!」

 聞こえた声は聞きなれないものだった。

「あぁ?馬ァー鹿かお前は、見ろあの男を。雪国育ちのあの黒い肌に、日に透ける銀の髪、しまいにゃ容姿端麗ときてる。あれは高値がつく」

 もう一つ、少ししゃがれた男の声が続いた。
 そこではっとして、事の次第を思い出した。

(そうだった…思い出した)

 あれはスタンと別れてさほど時間の経たぬうちのことだった。
 街中を歩いていると、路地裏でガラの悪い男たちに少女が絡まれているのを見かけ、助けに入ったまではよかった。しかし少女を守りながらでは分が悪いため、せめてスタンにこのことを知らせてもらおうと持っていた道具袋を渡し、少女を逃がしたところで、新たに現れた男に睡眠薬のようなものをかがされてしまったのだ。

(…そのまま捕まって連れてこられたというのか)

 失態だ、と喉の奥で小さく唸る。仲間がいることを想定して状況を見極めなければならなかったというのに。
 考えているとまた男の声が聞こえてきた。

「それに見てみろ、この剣を。こっちも相当な高値で売れるに違いない」

 この剣、といってウッドロウに思い当たるものは一つしかない。

(イクティノス!)

 叫ぼうとして、けれど声が出ないかわりに、足もとの荷物ががたりと音をたてた。その音に、何やら話していた男たちの声が止む。

「ん?…目でも覚めたか?おい、後ろ見てこい」

 お頭、と呼ばれた方の男の声がした。続いて人の気配が近づいてくるのがわかる。
 どうする、と一度だけ迷った。どうする、このまままだ気がつかないフリをして情報を集めてみるか、手っ取り早く本人たちと対峙するか。瞬間で後者を選んだ。どうせ手を縛られた状態では出来ることなど限られている、それに今の会話からでも目的はおおよそ見当がついた。ならばより深い情報を手に入れるべきだろう。
 視界に影がさす。男が一人こちらを見下ろしていた。

「目が覚めたようだなぁ兄さん」

 口が使えないので視線を鋭くし、男を睨みつけた。すると男はおどけたように肩をすくめ、そんな睨みなさんなって、と笑う。勘に障る笑い方だと思った。

「お頭ー、どうしますか」
「声も確認しておきたいな、布を外してやれ。ただし、かみつかれないようにな」

 くつくつと笑う頭の言葉に、それもそうだ、と笑う男の手がウッドロウの頬に触れた。瞬間、言いようもない不快感に襲われた。生暖かい手も、ごつごつとした手の感触も、全てが不快だった。このような輩に触れられるなど御免こうむりたかった。

(…そんな風に私に触れることを許す人物など一人だ…け)

 そんなことを無意識のうちに考えて、次の瞬間盛大に自嘲した。
 己に触ることを許す人物。思い人。
 彼にそんな風に触れられることなど一生ないのに、そうやって触れられたいと望んでいる自分が浅ましく思えた。それも、このような状況で。
 それよりも今は目の前の問題に集中すべきだ。気持ちを抑え込んですぐさま切り替えるのは得意だった、馬車の後方、荷物の積まれた場所からきっと男たちを見据える。

「お前たちは何者だ、何が目的だ」
「ひっひ、随分と気合いの入った偉そうな態度じゃねぇか、この状況でその度胸は褒めてやるぜ。だが…」
「…ぐっ…!!」

 顔は傷つけるなよ、というつぶやきとともに腹部に衝撃を覚えた。蹴られたか、と理解したのはごほとせき込んで顔を下ろし、男の足がゆっくりと離れていくのを見た時だった。
 痛みをこらえ、声などこぼしてやるものかとぐ、と顔をしかめる様を、楽しそうに男たちが見ている。

「気を付けな、残念だがお前はモノだ。逆らうともっとひどい目にあうぞ」
「…私を売ろうというのか」
「どこぞの悪趣味な金持ちたちに売れば高値がつくんでな」

 まぁ今痛い目見たくなけりゃおとなしくしてることだ、そう吐き捨てるとウッドロウは再び荷物の方へと無造作に寝ころばされた。

 どうやらこの男たちはウッドロウがウッドロウであるということには気づいていないようだ。ファンダリアの国王であろうが、まだ即位して間もないからかフィッツガルド地方にはあまり知れ渡っていないのかもしれない。いや、名前を聞けばわかるのかもしれないが、その方が好都合だった。王だとばれては、この身を質として利用され、国に莫大な金品を要求されるかもしれない。そうなっては国民に迷惑をかけてしまう。それだけは避けたいところである。
 できるならばこのまま知られずに脱出出来ればいいのだ、が。
 ふと、脱出した後帰るべき場所を想像して、ウッドロウは表情を歪めた。

(あぁ…皆に迷惑をかけているのだろうな)

 考えて、思いを遠くへ馳せる。
 あの少女はうまくスタンと出会えただろうか、あるいはスタンが帰ってこないウッドロウを置いて帰ってしまっていたなら達成は出来なかっただろうが、ウッドロウは彼がそんな青年でないことを知っていた。そうであってほしいと願っていた。
 スタンはこの状況を察してくれただろうか、厄介な事に巻き込まれたものだと思われていなければよいのだが。皆は助けようと画策してくれているのだろうか。
 あぁ失態だ、ごく私的な考え事をしていたせいでならず者に捕まるとは。ぐるりぐるりと考えだけが回る。

『ウッドロウ』

 その思考の靄を振り払うかのような明瞭な声が、ウッドロウの名を呼んだ。はっとして視線をそちらへ向けると、机の上に置かれたものが目に入った。

(イクティノス…!)
『ウッドロウ、気がついたか…良かった』

 マスターである己にのみ聞こえる、親しい声。その声を聞いただけで、自分でも驚くほど安堵したのがわかった。

『喋れないのはわかっている、だが聞こえているなら何か反応を返してくれ』

 イクティノスの声に、ごほ、と咳をこぼした。男たちは気にもとめなかったようだが、イクティノスには伝わったらしい。

『すまない…そのままで聞いてくれ、ウッドロウ。今俺たちを乗せた馬車はこいつらがねぐらとしている山中の小屋へ向かっているらしい、ノイシュタットからは少し遠くまで来ているようだ』

 そうか、と言う代わりにもう一度咳き込んだ。それよりも遠くとはどれぐらいを指しているのだろう、今が喋れる状況ならば堂々とイクティノスに尋ねるのだが、生憎とそれは出来ないので仕方なく声を発した。

「…私はどれぐらい眠っていた」

 その声をとらえたのは、ならず者の男たちだった。彼らは、ん、と首をかしげて嘲笑する。

「さぁな、知ってどうする」

 明確な答えが返ってこないことは予想していた、目的は別にある。それをうまくくみ取ってくれたイクティノスが言葉を発した。

『あぁ、お前が眠っていたのは30分程度だ。ここがどこなのかは…すまないがわからない』

 イクティノスの言葉に心の中で、そうか、とつぶやき口をつぐんでいると、まだ先ほどの言葉にこだわっている頭が、にやにやと笑みを浮かべた。そして、どん、と机に手を置く。

「知りたいことがあるなら、従順にお願いでもしてみたらどうだ?買われた後はずっとそうやって生きていくんだ、練習だと思って、ほら言ってみろよ」
『ッ!この男…!』
「…誰が、そのようなことを」

 ふざけるな、と声を荒げそうになったところを、なんとかおさえつけて返した言葉には明らかな嫌悪が混じっていた。誰が貴様達などに低姿勢で対応せねばならぬというのだ。そんなこと意地でもしてやるつもりはなかった。
 普段は温厚なイクティノスの声のトーンも、今まで聞いたどの声よりも怒りがこもっているようだった。ひどい侮辱だ、ととらえたのだろう。擁護を望むわけではないが、今はその怒りが心地よい。

「…ほぉ?まだ立場がわかっていないようだなぁ」
「私には他の立場があるからな、貴様らの言う立場など誰が…ぅぐ!!」
「そのうち嫌でもわからせてやるよ」

 もう一度、今度は背中に一撃蹴りを入れた男が、喉の奥でくつくつと笑った。けれど今それを実行に移すつもりはないのか、あと少しで俺達のねぐらに着くからそれまでに考えを改めとくんだな、とウッドロウに背を向ける。
 考えを改めるつもりなど毛頭ない、けれど。

(…下衆め)

 しばらくすると、ぽつりとイクティノスが言葉をこぼす。今この状況で何も出来ない自分がひどく腹立たしいように、その声色は低かった。

『すまない…俺が背後の気配に気づいていればこんなことにはならなかったんだが…』
(…そんなことは言わないでくれイクティノス)

 心の中で首を振る。それは、イクティノスに謝ってほしくなかったからではない。

(こちらがそれを責めたり諭したりも出来ぬ時に言うのは、卑怯だ…)

 一方的に話される謝罪には無視を決め込んだ。イクティノスだけが悪かったかのように言われるのは不愉快だった、自分の不注意に問題があったというのに、だ。
 うんともすんとも反応しないウッドロウに、イクティノスもある程度の事を悟ったのだろう、話題の転換を図った。

『とにかく…どうにか抜け出す機会を待とう。おそらく相手はお前を縛っているからか、気を抜いているはずだ』

 それに、ごほ、と一つ咳をこぼした。



「―――…で、あいつらはどうするって?」
「少し経ってから合流するそうです、後始末は任せて…」
「…わかった…」

 相変わらず無駄な話を続ける男たちの声が聞こえる。けれどやがて話題がなくなったのか、黙り込んでしまった。

 がたがたがたと己が揺らされている音だけが、絶え間なく続いていた。



この想いに名をつけるなら 

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実はちゃっかり続いてます。やっぱり第三者的な、しかもそれが悪党っていうのはなかなか楽しいシチュエーションですね。いつ襲われるのかヒヤヒヤして仕方がな(略)イクティノスとの秘密の会話が書けて楽しいです。