幼いころの風景は今でも目をつむればはっきりと思い出すことができた。
 豊かな自然、大きな屋敷、厳しいけれど優しかった姉、兄のように親しくしていた男、そして両親。幼いときに二度と見ることのできなくなってしまったその全てのものは今でもガイの心にしっかりと焼き付いていた。決して不幸ではなかったそこでの暮らしを当時はなんてことのないように享受していたが、今になって思えば贅沢な暮らしだったのだろう。
 その島での暮らしは楽しかったのだと思う。嫌なことなどほとんどなかったし、なにより生まれてからずっと眺めてきた光景である、ある意味ではその光景がガイにとってすべてであった。この世界はなくなることなく、ずっと続いていくのだろうと思っていた。
 けれど、あんなにも鮮明に覚えているはずの光景の中で一瞬だけ靄がかかったように思い出せない時があった。
 5歳の誕生日を迎えた日であった。続いていくはずだと望んでいたものは、ガイという存在を形作っていたすべての世界が崩壊したことによって断たれた。暮らしてきた屋敷も、大好きだった人々も、そして足をつけるはずの大地さえも。それは一瞬だけ記憶を飛ばして忘れたいと願う程にむごい光景だったのではないだろうか。幼かった己にとって精神に傷をもたらしたまでに。

 そ、と目を開けると故郷の風景は消え去り、両方の瞳いっぱいにグランコクマの青い海が映った。幼い頃に見た海に似ている、と潮風を浴びながらぼんやりと思った。
 だが周りを見回した時目に映る、屋敷の周辺に張り巡らされた水路、そびえ立つ宮殿、地続きの大地。それらは故郷とはまったく異なっていた。体に吹き付ける風も、街の雰囲気も、人々の生活の様子だって記憶の中の故郷とは似ても似つかない。
 ただ、果てしなく広がっている青い海だけはどこも同じだった。この海も昔は故郷に続いていたのに、と目を細める。
 ガイは、こうして時々海を眺めに来ることがあった。グランコクマに設けられた屋敷から見える景色とて決して悪いものではないけれど、海を見ていると心が安らぎ、ほっとするのだ。故郷の感覚を思い出すからだろうか。あるいは身の回りの世話を甲斐甲斐しくしてくれるメイドの存在に慣れていないだけなのかもしれない。今までは自分がそれをする側であったのだ、赤毛の少年、に。

 ちゃぷ、と足下の壁に小さな波が押し寄せる音がして、ガイははっと思考を止めた。見れば近くの水鳥が飛び去ったところだった。

(わかってる…わかってるさ、過去に振り回されてちゃ先に進めないってことぐらい…)

 けれど、と拳を握りしめた。
 ここは、グランコクマは皇帝の膝元だけあって美しい国だと思う。気候も比較的過ごしやすく住みにくい土地ではないし、なにより現在の皇帝によって善政が敷かれている。預言廃止の問題について賛否両論分かれるところではあるが、街の者たちは根本的に今の皇帝を嫌ってはいなかった。皇帝も民を嫌ってはいなかった。
 そんな国で未だ後継者のいない皇帝が死んだらどうなるのだろう、ガイは少しそれを思った。思った以上に好かれているこの国の皇帝は、長年敵対していたキムラスカとの間における戦争の抑止力でもあるのだろう。そもそも今回結ばれたの平和条約の申し入れとて彼からの願い入れであったわけで、彼がいたからこそ平和条約が無事結ばれることになったのだ。そのあたりは偉大な皇帝だと言えるだろう。
 その、偉大な皇帝を失えば条約はなかったものとされ再び戦争は勃発するのだろうか。彼が死んだことを口実に。

(…ま、そんなことを俺が思うのなんてお門違いなんだろうが…)

 どちらにしろそれはないだろう。そんな愚かなことを考える人間がいたとしても、それ以上に平和を望む者がグランコクマには存在しているはずだ。
 ふぅ、と息をはいてガイは顔を上げる。水面に反射した光が目を刺し、思わず両目をつむった。
 同時に脳裏に思い起こされる故郷は温かい。懐かしくて、愛おしい。

(それが…一瞬にして、消し去られたんだ)

 しばらくしてガイは目をあけ、踵をかえす。

「…さて、と…そろそろ顔を出さないと陛下がお怒りになるか…」
(…だから、俺は)

 この国がどうなってしまうのだろう、それを考えるのは馬鹿馬鹿しいことだ。
 自分がここにいる理由は、己からその懐かしく愛おしい全てを奪った先代の皇帝の息子である、現在の皇帝を殺すため、なのだ。もはやそんなものはやつあたりにすぎないと言われてしまうのかもしれないけれど。

(それを背負う覚悟ぐらい、してるさ)



演繹の光 帰納の闇 1



そんな捏造。