心臓が一度止まった、気がした。
 一瞬、意識もどこかへ飛んでいってしまったような感覚を覚えた。
 その直後に、ど、と心臓の音が一段と大きく聞こえた。部屋の中にいるもう一人の人物にさえ聞こえてしまったのではないかと思う程にはっきりと、大きく脈打っている。
 あぁ、心臓がまだ動いている。そう考えたところで、ようやく意識も戻ってきた。それと同時にひやりと背筋が凍った。

(いま、なん…て)

 一体何という言葉が聞こえたのか。誰、から。

(…そんな、の…わかりきってること、じゃ、ないか)

 今この部屋にいるのは己と、もう一人だけ。
 恐る恐る振り返ったガイの視線の先で、金の頭がごろりと向きを変えた。その中央にある美しい二つの海色が、しっかりとガイの瞳を捉える。月光を受けたそれはいつもよりも淡い色合いに見えた。あぁうつくしい色だ、と思った。
 同時にそれに見詰められた瞬間どうしようもない焦燥に駆られて、思わず一歩後ろに飛びのいていた。ひどく焦っていたが、小刀を落とさなかったのはさすがと言えるだろう。
 くつくつ、と音がした。

「そんなに警戒するこたぁないだろー俺は丸腰だぞ?」
「起き、て…」
「あんな熱い視線で見つめられちゃ気付かないわけねぇだろ、なぁガイラルディア」

 よいしょとゆっくり体を起こしながらピオニーは笑う。自分が冷静でないせいか、その表情からは感情がうまく読み取れなかった。それよりもピオニーの発した言葉の方が気になる。
 己はそんな風に彼を見ていたというのだろうか。何かを勘付かれるほど異なった視線を向けていたのだろうか。臣下として取る態度としては間違った態度を取っていたか。
 ぐるぐると視界さえも回りそうに困惑しながら深く考えてみると、あぁあるいは殺そうと何度も何度も思っていた、その視線が熱を含んでいたならばそうだったのかもしれない、と変に納得した。

(小刀は…見られたの、か?)

 この状況はまだ誤魔化すことができるのかどうかを考えた。しかし一瞬視線をピオニーから外したからだろうか、くっと皇帝は笑った。

「今更誤魔化す必要なんてねぇよ。殺したいんだろう、俺のこと」
「…!」

 知っていたのか、という問いは口から出ない。知っていて当然だろう、と囁く声もある。故郷が消えたあの日の事実をガイに知らせたのは、まぎれもなく彼なのだから知っていて当然のことだ。ならば今更問い直す必要もないだろう。
 けれど。
 けれど心のどこかで、ガイは復讐なんて考えていないだろうと、彼はすっかり自分のことを信用しているのだと思っていた。そうでなければ誰が自由に部屋に出入りできる様な役職にガイをつけるというのだ。殺されるかもしれない、いや殺す気なのだと思いながらも。

(…あぁでも)

 少しだけ、手から力が抜けた。

(この人は全て知っていたんだな)

 そのことはガイの心にすとんと落ち着いた。その時は不思議には思わなかった。知っていたんだなと思ったら、それが当り前のことのように思えてきた。
 でも何故だ。知っていたのならば尚更、おかしなことになってくる。
 ピオニーは当惑するガイのことを見ながらうんと伸びをする。今まさに殺されようとしていた人間の行動には見えない、緊張感の欠片もないような動作だった。

「お前が俺を殺そうとしてたのは知ってたさ、その理由の正当性もな」
「…ジェイドがいないと知らせて、なおかつ人払いまでして俺に貴方を殺す機会をつくったのですか」

 なぜそんなことをするのかガイには理解できなかった。これが罠で、殺そうとしたところを捕えられるのかもしれないと瞬時に思ったが、ジェイドがいないのは確かなことだった。ジェイドがいないということは、それだけでガイの行動の成功率を半分以上もあげることになるだろう。ならばそんな日に罠を仕掛けることもない。あるいはそんな日だからこそ、なのか。
 とはいえ、並大抵の兵士相手ならば逃げきれる自信もあったが、顔を見られて名前も素性も何もかも知られている今、逃走はなんの役にも立たないだろう。この皇帝の考えていることによってそれは変わってくる、が。

「なぜって、だってなぁ、ガイラルディアがなかなか手を出してこねーから」
「手をって…貴方…」

 確かにあいつがいたらやりにくいかと思って状況もセッティングしてやったんだが、と己の懐刀の男の存在を示すピオニー。ならばあの、ガイが一人心の中で葛藤していた、さらけ出された首筋はすべてガイになんとか行動を起こさせる為の故意の態度だったというのだろうか。

(だからどうして、そんなことを)

 どうしても、どう考えてもそこが理解出来ない。
 ガイの行動を促進するような言葉を投げかける、という意味がわかっているのだろうか。俺は貴方を殺そうとしているのですよ、ともう一度確認を取ってしまいたくなった。
 この男は死にたがっているのだろうか。いやそんなはずがない。死にたいだなどと思う男ではない。
 さて、とピオニーが仕切りなおす。

「これで仕舞いにしようぜガイラルディア。今しかない、殺すなら殺せ。お前の持ってるその小刀で、一思いにな」

 ちらりと後ろ手に隠したソレを指摘されて、今更だがぎくりとした。そして、これが飾り物でないことぐらいわかっているのなら、どうしてそんな、とうっかり小刀を落としそうになった。
 何も言わないガイにピオニーは続けた。

「だがここで殺さないなら、この件について俺はもう口を出さない。代わりに俺のもとでしっかり働け」

 見据えてくる瞳に迷いはない。ただ静かにガイの答えを待っている。平時のような明るさはなく、珍しくも鋭い瞳だ。
 恐ろしい程にまっすぐなその視線がガイの迷いを浮き彫りにしていく。
 殺せ、殺してしまえと囁くのは、過去に己の持っていたすべてを奪われた幼少期の自分か。どこかでそれを止め惑わせるのは、短い期間であったがこの皇帝の元で働いてきた自分か。

(どうして俺は…うごけ、ない…!!)

 殺せ。殺すのは今しかない。怒りを忘れたか。悲しみを、苦しみを忘れたのか。どうして自分がここにいるのか思いだせ。
 そう囁き続ける声があるのに、身体は前へと進まない。それどころか、足が一歩、下がった。それに気づいているのかいないのか、そんなガイに対し、蒼い瞳を向けたままのピオニーがいつものような口調で話しかける。

「どうした、ガイラルディア」

 まっすぐなひとみの

「それとも、ころせないのか」

 蒼、が







 気がつけば、ガイは王宮の廊下を走っていた。
 音も立てず、それでも全速力で、ただあの空間にいられなくなって、気が付けば逃げ出していた。途中何度小刀を落としそうになったかわからないほど手は汗にまみれていた。

(俺は何がしたいんだッ…!)

 逃げている間でさえ、どうして逃げるのだと己を叱咤する声が頭の中を回っていた。何故殺さなかったのだと牙をむく獣の姿が思い浮かんでいた。
 ただ、あれ以上あの瞳に見つめられていてはダメになると思った。だから、逃げ出した。
 すべてを許容するかのごとき穏やかな瞳は、ガイのしようとしていることさえ受け入れて、そのまま抗うことなく消えてゆくつもりだったのだろう。本心はわからないけれど、それ以外の考えは浮かんでこなかった。
 それが急にひどく恐ろしいことのように思えたのだ。自分の行動を棚に上げて。

(クソッ…くそ!なんなんだどうしたいんだよ俺は!)

 苛々する。理解出来ない感情を持て余す己自身に。
 苛々する。

 静寂を保つ廊下に響くのはガイの微かな足音と、息を切らす音、そしてそれ以上に自分の心音が耳に障って、ガイはただひたすら王宮の出口を目指して走った。全てを振り切るように後ろを振り返ることもせず。
 ブウサギの散歩のときはそう思ったことはなかったが、皇帝の部屋から出口までの道のりがやけに長いように感じられた。



演繹の光 帰納の闇 5

  

暗殺失敗。失敗というか…?