しばらく毎日は平穏無事に流れていった。
 ピオニーを狙っているという輩もすぐ近くのガイ以外見当たらなかったし、ガイもまたおとなしく雑務をこなしていた。なにしろ旅に出ていた期間の長かったジェイドは仕事が溜まっているらしく、グランコクマを留守にすることが一切ないのである。流石にジェイドがグランコクマにいる時は手出しをするのはまずいだろうと機会を窺い続けているのだった。
 どうやら二人の態度を見るにガイの考えていることはばれていない、ようだ。ジェイドならばガイを油断させるためにそれぐらいの素振りをとることなど朝飯前であろうが、おそらく気がつかれていない、と直感で思った。ガイのそうした直感は大体当たる。
 そうして様子を窺っている間にすっかりいろいろな雑務が身に馴染んでしまって、なんだかなぁとガイは一人肩を落とすのだった。

 そんなある日のこと、夕方のブウサギの散歩から帰ってきたガイはピオニーに呼び止められた。

「どうしました陛下」
「あぁ、お前これから暇か?暇だろう、そうか暇か、それはちょうどいい!」
「何も言ってませんが…」

 と言ってもこの人に逆らえないことぐらいガイにもわかっていた。実際に、率先してやらなければならないことがあるわけでもなく、素直に立ち止まる。それを見たピオニーが嬉しそうに喋りだす。

「実はなぁガイラルディア、この本の続きを探してきてほしいんだが」

 そう言って渡されたのは、一冊の古い本だった。太さや外観、題名から察するになかなか難しそうな本である。一瞬陛下がこんな本を読むのだろうかと本人を目の前にして考えてしまって、急いで頭を振った。それを目ざとくピオニーが見咎める。

「ガイラルディア、お前今俺がこんなの読むはずがないと思ったな?」
「いえそんなっ…」
「いい、いい。気にするな。俺だって読みたくねぇしなーこんなの」
「?でも続きを探すというのなら読みたいということでは?」
「読みたくはない。しかし読むフリをしなければいかんのだ」

 曰く、ジェイドが読んでおけと勧めた本らしい。おそらくこの皇帝に皇帝たる正しい態度でも教え込みたいのだろう。多分というか絶対に無理だとわかっているだろうけれど。長年この皇帝と付き合っているあの死霊使いは、すでにこの皇帝の性格については諦めるという事を覚えているが、それでも一応形として勧めるのだ。何度も言うように無駄だとはわかっていながら。
 とりあえず受け取ったガイは、それからはっとして尋ねる。

「それならジェイドに頼めば喜んで持って来てくれるんじゃないですか?」
「あん?お前知らなかったか?ジェイドは今朝方から明日まで、エンゲーブの生活調査に向かってるぞ」

 え、と漏らせばピオニーは言ってなかったのか、と首をひねっていた。言われれば今日王宮を歩いていてもジェイドの姿を見かけなかった気がする。ただそれほど気にかけていたわけでもないし、一日会わないことも珍しくないから気にもしていなかった。
 しかしそれならば、ピオニーが身近なガイに頼むのもわからなくはない。自分で探しにいく、なんて面倒なことを進んでやるような男ではないからだ。

「夜遅くなってもいから、頼んだぞガイラルディア」

 ぽん、と肩に手が置かれる。それに、ぎり、と少しだけ力が込められたような気がした。ピオニーの顔を見れば、しかし彼はいつもと変わらぬ表情を浮かべている。気のせいだったろうか、とガイは内心首をかしげた。

「…わかりました、探してきます」
「いつでもいいから、だが今日中によろしくな」
「今日中ですか…出来る限り急ぎます」
「おう!」

 にかにかと笑っていた顔が少しだけ作り物めいていたように感じたのも、ジェイドがいない内にまた何か善からぬことでも考えているのだろうかと、ガイは気のせいだったのだろうと思うことにした。



 グランコクマの一般開放されている図書室は、流石皇帝の膝元であるというのか、マルクト帝国でも最大級を誇るものだった。マルクト軍の得意とする譜術に関する書物から、雑学やら生活やら全ての分野における本が置かれている。
 司書も優秀な人材がそろっているのだから、探している本はすぐに見つかるだろうと思っていたガイだったが、その考えは間違っているようだった。どうやら目的の物は図書室ではなく、書庫に置いてあるらしい。大まかな場所は把握しているが、細かな場所はわからないのだという。

 仕方なく許可を得て書庫から本を探しあてた時には、すでに日はとっぷりと沈んでいた。あぁ遅くなってしまった、と思ったが、遅くなってもいいというピオニーの言葉を確かに聞いたことを思い出し、早く見つけようと努力はしたのだ、と自分を正当化した。
 そうして皇帝の私室へと訪れる。

「陛下、遅くなりましたが頼まれていた本です」

 返事がない。時間的にはまだ起きていてもいい時間だ。ガイはもう一度だけ声をかけて、それでも返事がないことを確認してからそっと扉を開けた。もし寝ているのだとしたら、本だけでも机の上に置いておけばいいと思った。これで下手にピオニーに遠慮して、陛下を起こすといけないと思ったので翌日にすることにしました、などと言って明日、どうして昨日のうちに届けてくれなかったんだ、と怒られても厄介だ。
 部屋の中は大きな窓から入り込む月明かりにのみ照らされていた。机の上には今日中に片付けられなかった書類が散乱しており、そのせいで後日あの男にねちねちと嫌味を言われるんだろうに、と思ったら思わず肩をすくめていた。学習しないのか、あるいはそんなやりとりさえもを楽しんでいるのか。
 ふっと部屋中に視界を走らせると、もぞ、とベッドの上で何か動くものがあるのを発見した。どうやらそこにこの部屋の主がいるようだ。

「陛下…おきて、ますか?」

 小さく声をかけてみるが反応はない。かわりに、すぅと小さな寝息が聞こえる。
 男は完全に眠っていた。まるで自分の命が狙われていることなどすっかり忘れたように、入り口に背を向けて警戒心の欠片も見せずに眠っている。これではガイでなくとも簡単に殺害してしまえそうだ、侵入するまでが問題ではあるが。

(まったくこの人は…だから旦那も苦労が絶えないのか)

 貴方は命を狙われているのですよもう少し危機感というか自分の身は自分で守るぐらいのことをしていただかないと困ります一回死なないと治らないんですかねぇ貴方のその頭は。
 あの男の眼鏡の奥の瞳が呆れて閉じられるのが簡単に予想できた。同じようにガイも苦笑を禁じ得ない。

(まぁそんなところが陛下らしくて、なんとなく可愛らし…)

 はっ、とした。
 今自分は何を考えようとしたのだろう。
 何かひどくおかしなこと、を。
 しっかりしろ俺、と頭を振り、旦那がいなくてよかった、と思ったところでもう一度はっとする。

(…今なら、殺せる…?)

 ど、と心臓が大きく跳ねた。
 最大の障害になるだろうと思っていた男は、この場所にいない。ここに来るまでの道のりも誰にも見つかっていない。普段から部屋を抜け出すことの多いこの皇帝の部屋の扉のすぐ前には、どうせ見張りをしていても抜け出されるものは抜け出されるのだと多少の諦めがあるのか、それよりも城の入り口や裏口の見張りを強化した方が得策だと見張りの兵の姿はない。
 手がそっと懐に伸ばされる。かつ、と小刀の柄に手が当たった。それを汗で湿った手でつかむ。

(殺せる…ここを、かっ切るだけだ…)

 金の生え際が付きに照らされ、白く見えた。ぐ、と小刀を両手で握る。両手で握っていないとうっかり落としてしまいそうだった。微かに震えているのが自分でもわかる。

(達成されることへの喜び、か…?)

 後はこの手をまっすぐに下ろすだけだ。それだけのはずなのに。

(これで俺の復讐が…終わる?)

 終わるのか、とふと思考が揺らいだ。

(この人の命が…終わる)

 もう二度とあの声を聞くことがなくなるのか、と漠然と思った。自分の行動が何を意味するのか改めて気がついたような、ガイ自身不思議な感覚であった。
 そんなこと、初めからわかっていたことなの、に。


「…どうした、刺さないのかガイラルディア・ガラン・ガルディオス」


 固まるガイの耳に声が聞こえたのはその時だった。



演繹の光 帰納の闇 4

 

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