ぽつ、ぽつと天幕の天井を叩いていた雨音は、あぁ雨かと人々が認知し始めた短い間に、大音量で人の耳を騒がせる宴となった。人々もそれに負けじとぎゃあぎゃと騒ぎ立てながら自分にあてがわれた天幕へと走っていく。 その様子を濡れることのない天幕の中から眺めながら、アレスは一人空を見上げていた。数分前から漂いだした嫌な風の流れに雨が降り出すだろうことを感じ、一足先に天幕へと戻っていたのだった。そういったアレスの勘は結構、当たる。皆にそれを告げれば濡れることを防げたのだろうが、それをせず一人去っていくのはある意味アレスらしともいえた。濡れたところで死ぬ訳でもない、余分なことはしたくなかった。 「あーっとアレス!すまない!!」 ――この雨はおそらく、すぐにやむだろう。 そう思い、空を見るため掲げていた天幕の入り口の布を下ろそうとしたところで、ひとつの大きな声にその手を止めさせられた。空から地へ視線を落とすと、ばしゃり、ばしゃりと水を跳ねさせながら、向こうの方から走ってくる青い頭が見える。 ここへ来て雨宿りでもしようというのか、と察し少し待とうかと考えたが、そう思ってしまう自分に呆れてアレスは結局その人物がたどり着く前に天幕の布を下ろした。例えそれが解放軍の盟主であったとしても、わざわざいい人ぶって待ってやる義理などない。 それからほんの数秒後に再び布が上げられる。その向こうから顔を覗かせたのは、頭から足まで水に濡れたセリスだった。 「アレス、何も下ろしてしまわなくてもいいじゃないか……」 「ここは俺の天幕だ、俺の勝手にするさ」 「うん、まぁそうなんだけど」 あぁごめんちょっと入口を濡らしてしまった、と謝ってくるセリスに、だったら人の天幕に立ち寄るな、とアレスは冷たい言葉とタオルを投げかける。そんなことを自然とするぐらいには、セリスとアレスの間の溝は狭まっていた。だからこそ、素直に待ってやるのは癪だったのだ。 受け取ったタオルで体を拭きながらセリスが笑う。 「一番近かったのがアレスの所だったから、ちょっと雨が弱くなるまでいてもいいかな」 「これで追い出したら明らかに俺が悪いことになるだろう」 「ありがとうアレス。ふふ、でも実はそこまで計算づくだって言ったら?」 笑顔で言ってくるセリスにアレスは答えなかった。ひょっとしたら本気なのかもしれない、と思ったからだ。この無邪気そうな笑顔の裏にどれだけの邪気を潜ませていることか、とアレスは最近セリスに対する考え方を改めてきていた。 体を拭き終えたセリスはタオルをたたむと、後で洗濯所に持って行ってから返すから、と言ってそれを入口付近へと置いた。そのあたりは勝手にしておいてくれ、と言いながらアレスはちょうど入口の正面に座り込む。背後の布を叩きつける雨音は、先程よりも強くなっている気がした。 そう考えているアレスの視線の先でセリスが入口の布を掲げ、空の様子を見ていた。 「雨、まだ降るみたいだね」 「いや向こうの空は明るい。しばらくたてばやむ」 「そう?」 アレスの言葉を確認しようとセリスはもう一度外に目を向けた。そんなセリスの背中を見ていたアレスは、空を見上げようとする途中のある一点でセリスの視線が止まったことに気づく。何かを凝視しているようだ。 「どうした」 本当は尋ねるつもりなどなかったのだが、気がついた時には思わず口から滑り出ていた。随分と気を許したものだな、とアレスは自分でも内心苦笑する。セリスも視線を止めたことに気づかれたのか、と思いながらもにっこりと笑いながら答えた。 「うん?あぁ、いや、雨で濡れてるシャナンの髪も綺麗だなぁと思って」 満足げにそう笑ってつぶやかれた言葉を聞いたアレスは、自分でも無意識の内にセリスの視線の先に目を走らせた。そこで、雨に濡れながら一人の男が歩いているのをみつける。 薄紫を基調とした服に身を包んだ高貴な佇まいは雨に濡れてもなお変わらず、すでに雨にふられてしまっているからか急ぐこともせず雨を受けて歩くその姿は、遠目から見ているからか確かに綺麗だと感じた。いつもは絹糸のように風になびく黒曜の髪は、水分を含んで重力に従い地に向かって垂れている。しかしより一層の艶を含んだその髪が額や?に張り付いている姿は、やけに色を増して見えた。 雨のなせるわざだろう、と思うことにしておく。 そんなことを考えながら歩いていく男を眺めているアレスを、いつの間にか視線を天幕の内側に戻したセリスはしばし観察していた。そして少しだけ頭を動かしてみてもアレスに反応がないことを確認して、もう一度外を歩く男の方を見てからにっこりと笑う。 「アレスさぁ、シャナンのこと気になる?」 その台詞がアレスに届くまでに、数秒かかった。その後ゆっくりと視線をセリスに向けたアレスが低くつぶやく。 「……何を突然」 「ちょっと前から思ってたんだけどさ、気づいてないのかな。最近良くシャナンの方見てるよ」 「俺がか?」 「まぁ私も例外じゃないけどね」 信じられないことを聞いたようにアレスが尋ねれば、セリスは笑ってそれを肯定する。親しくなってきてからセリスはアレスに対して冗談も言うようになったが、今回のは冗談ではないのだろうとアレスは思った。 正直なところ――アレスには自覚がないこともなかったからだ。それほど良く見ているとは思ったことはないが、視界の端にちらりとその姿を見つけた時、ふと今のように見えなくなるまで追っている時もあった。だが他人に改めて指摘されるとそんなことはしていない、と思ってしまう。それはアレスの性格も手伝っているのだろう。 しかし他人の目から見てもそんな風に見えてしまっているのだろうか、とアレスが少し不安になった時セリスが笑い出した。 「心配しなくても他の人も本人も気づいてないんじゃないかな。戦場では鋭いくせにシャナンってばどっか抜けてたりするんだよね」 年かな、と今度は冗談交じりに、本人が聞いたら静かに怒り出しそうな事をセリスは言ってみせる。だがセリスにとってみればそうして怒られることさえ嬉しいのかもしれない。構ってもらえることが嬉しいのだろう。 セリスは自分の想像の中に入り込んでしばらくふふふと笑ってから、あ、と小さく言って。 「うん、それじゃあアレス、雨宿りとタオル貸してくれてありがとう」 「もう行くのか?」 「どうせだからシャナンと一緒に帰るよ」 ならば俺がタオルを貸してやった意味はなかったというわけか、とアレスが言うとそれを微かな怒りの言葉だと受け取ったのかセリスは、貸してくれて助かったよ、と床に置いてあったタオルを手に取った。そしてちゃっかりと、また次回も宜しくねと付け足す。 次回――雨が降った時というのならば、確かに遠からず再びあることだ。大体嫌だと言ったところで既にそれが本音、というか本気で言っているのではないと見透かされてしまっているだろうから、きっとセリスには押し切られてしまうのだ。やりにくい相手だ。アレスは整った表情を歪める。 (こいつといい、あの男といい……) セリスはもう一度礼を言ってから、覚悟を決めたように雨降り注ぐ外へシャナンの元へと一直線に駆け出した。そして彼の元へたどり着き、そんなセリスを不思議そうに眺めるシャナンと何かしばらく話した後、歩き出した二人の姿は他の天幕によって遮られる。それを見送り届けたアレスは天幕の布を下ろし、深く息を吐いた。 ――あれぐらい積極的でなくては全然伝わらんということか。 飛び掛るほどの勢いで駆けていったセリスの姿を考えて、ふと眉をしかめる。それはつまり、自分もあの男に何かを伝えたいということであろうか、と。 ――伝える?何をだ? (……心配そうな顔だったな、セリスが雨の中駆け寄ってくるのを見て) 自分のことなど差し置いて、風邪をひくぞと彼が忠告している姿がありありと思い浮かんだ。そしてそれとほぼ同じことをセリスからも言われているのだろうと考える。 頭の奥で、何かがぞわりとわき立つ。自然と険しくなる顔は不快な感情からくるものだ。 (……本当に大切にしている) それは、お互いに、だ。 シャナンの視界に、セリス以上に映ることは難しいのだろう。シャナンがセリスに抱いている感情は色褪せ消えうせることなどありはしないもので、同時にセリスがシャナンを想う気持ちも一途なものだ。 だがしかし、だからこそ明るく楽しげにふるまっているセリスは精一杯なのではないだろうか。シャナンの頭の中に刷り込まれたセリス像というのは、幼いころから現在に至るまでのすべてであり、言うなれば感覚は「家族」に近いかもしれない。それ以上の感情に発展するのは正直なところ難しいだろうと思う。 (いや、その点はすでにセリスは覚悟しているのかもな) シャナンが自分のことをどう見ているのかわかっているから、その通りに振る舞おうとしている節もある。とにかく、もう少し彼の視界に、思考に、自分の姿を留めていられればと思っているのだろう。家族としてのその立場でも良いから、少しでも長く一緒にいたいのだと。 ――ならばこの俺の立場は、セリスよりは良いのか。 今更、家族という感覚を抱きようがない。立場は同じ、聖戦士の血を引く者である。 馬鹿らしいと考えながらもそんなことを思ってしまうのは、あの男に惹かれている証だったのだろう。 (……さて、どうしたものか) 困ったように考えながらも、自覚してしまえば行動に出るのは簡単なのかもしれない、とアレスは面白そうに笑って今後のことについてしばらく考えていた。 其の名 獅子王の子 3続いた。セリスを絡めて、シャナンのことが好きなのだと認めたくない頑固なアレスをなんとか認めさせてみようと試行錯誤してみたお話。 <<2 2017.2 改訂 |