風に身を刺すような冷たさが混じってきた。活動を緩めていた双魔神が休息を終え、いつものように吹雪を吹かせ始めようとしているのかもしれない。本格的な吹雪になるのはもうすぐの事だろう。 「英雄……か、」 そんな風を背に受けながら、カムイに棲む者の間では特別な意味をもつその言葉をつぶやいてみて、サマイクルはため息をついた。 英雄になると言った男。カムイに暗雲をもたらしているあの双魔神を倒せば、その名を戴くのは必然であろう。英雄となるための条件を満たすのだから。 英雄になる為には双魔神を倒さなければならない。だからクトネシリカを奪ったのだろうか。英雄になるならならないは別として、少なくとも彼は、そういう理由でクトネシリカを持ち出したのだと言っていた。 しかしそれは本当に英雄だろうか、とサマイクルなぞは思うのだ。英雄とはそういう人物のことをさして言う言葉であっただろうか、と。 少し考えればどこか違うのかもしれないと、以前のオキクルミならばわかったはずだ。口数少なくぶっきらぼうな態度を持つあの男は、それでも人一倍村のためを思っている男だ。村を不安に陥れることに対し、人一倍ひどい罪悪感を感じているはずである。はずなのだが。 「冷たい瞳であったな……」 吐き出された言葉と、こちらを見つめてくる瞳には罪悪感が見受けられなかった。 宝剣クトネシリカは、その強すぎる霊力でもって時に人の心を惑わすことがあると、以前読んだ文献にちらりと書かれていたことがあったのを思い出す。オキクルミの状況を説明するために最も合う状況は、それであろう。 オキクルミの双魔神を倒すという強い意志と、クトネシリカの強大な霊力が同調し重なり合って二つの力を更に強いものにしたのだ。とりあえずそう思っておこう。そう思っておくことで、昔からの知り合いであったあの男の奇行を納得しやすくなる。 「サマイクルー……さん、俺変なこと言っちまったかな?」 すっかり厳しい顔つき―――と言っても面の下の表情に気づいたのかはわからないが―――になってしまったサマイクルに、傍らでその様子をうかがっていたヨイチが申し訳なさそうに声をかけた。オキクルミが去ってしまったのは自分のせいだと言っているらしい。 確かにヨイチは少し論点のずれたことを悪気なくオキクルミに言った。場の空気も読まず、一人マイペースに話を進めていた。しかしオキクルミはそれだけで機嫌を悪くするような男ではなかったはずだ。 「いや、お前のせいではない……あの男が悪いのだ」 「うーん……ならいいんだけど……」 言いながらもまだ不安そうにオキクルミの去って行った方角を眺めている。思っていた以上にこの男は鈍感ではないのかもしれない、とその姿を見てサマイクルは思った。 それからふと、強くなってきた風に眉をしかめる。 「……ヨイチ、そろそろ家へ戻った方が……というか、どこに住んでいるのだ?」 「俺?カムイの外れのほうに一軒誰も使ってない家があったからさ、とりあえず借りてるんだがー……マズかったかな?」 「カムイの外れ……」 つぶやいて、確かに狩りの時やカムイの地に足を踏み入れる者を見定めるために使用する家が存在していることを思い出した。それは二軒あり、一つはここしばらく誰も使っていない空家で、もうひとつは今。 「……あぁ、俺一応オキクルミさんのこと、何度か見かけてるんだよね」 「!」 「もう一軒の小屋に住んでるじゃん、あの人。声はかけたことなかったけどさ、遠くからそっと見てたんだ、あの人が剣を振りまわして妖怪たちを斬り捨ててんの」 ヨイチの言葉にサマイクルは感嘆の瞳を向ける。 あのオキクルミに気配を悟られずその姿を眺めていることができるなど、この男は実は随分とできる男なのではないだろうか。あるいは、妖怪たちの殺気にのみ敏感になっていたオキクルミには、ヨイチの平凡な気配は気付かなかったのかもしれない。 ヨイチは続ける。 「あの人すごい強いんだねー、休む間もなく次々と妖怪を倒してさ」 「……」 「こりゃ俺も負けてらんねぇって頑張って弓の腕磨いてたんだけどさ、やっぱりあの人の迫力には勝てなかった」 へへ、と笑うヨイチの表情には悔しさは見受けられなかった。本当にその強さを尊敬している、そんな感じだ。 「あの人さ、妖怪倒して服汚して血まみれになってるんだけど、俺にはそれがおぞましい光景には見えなかったんだよ」 いつの間にかサマイクルはヨイチの話す内容に引き込まれていた。そして想像する。妖怪を倒し、あの面や髪が血にまみれるさまを。それでも輝かないクトネシリカを見ておそらく表情を歪めているさまを。 悔しいに違いない。それはもう悔しいだろう、どれだけ妖怪を倒しても輝かぬクトネシリカ。その間もどんどんと活動を活発化させていく双魔神。そのせいでいつしか氷漬けになってしまいかねない己の故郷。そんな状況を何もできずに手をこまねいて見ているしか出来ない、己自身。 そのオキクルミの気持ちを考えると、悲しいとも苦しいともなんとも言えぬ気持になった。 うつむいて拳を握り締めるサマイクルを横目に、おぞましく見えないのはなんでかなって考えてみたんだけど、たぶん、とヨイチは前置きをして。 「あの人は自分の守るべきものを背負ってるからだろうなって」 「!」 「だからあんなにもひたすらにひたむきに戦っていられるんじゃねぇかって」 ただがむしゃらに戦い続けるなんてそうそう出来ることでもねぇよ、とヨイチは真面目な瞳でそうつけ足した。そしてざく、と雪を踏みつけてサマイクルの方を向く。 「あの人が守りたいのはこのカムイで、あんたたちの住んでる村で、村で暮らしてる人達で」 指折り指折り数え、最後ににっかりと笑って。 「きっと、サマイクルさんのことなんだよ」 「…な、に?」 言われた言葉が一瞬理解できなくて、サマイクルは動きを止めた。その後で我に返って、細い眉をすっとしかめた。 そんな、ことが。あの男が、自分のことも守りたいなどと思ってくれているのだろうか。オキクルミが妖怪を倒しているのはただクトネシリカを輝かせ双魔神を倒すためであって、サマイクルを守るためなどとそんなことを考えているはず、が。 (ない…の、か?) 考えてみたが、実のところヨイチが言っていることは間違ってはいないのかもしれない、とわずか思った。そうだ、あのオキクルミという男はそういう男だ。誰よりも自分達の村を守らなければと強い責任感を抱いている男だ。クトネシリカを輝かせるためだと言っても、結果としてそれがこのカムイを守ることに繋がるのだ。それはサマイクルも、ということになるのではないだろうか。 そんな風に考えるのはおこがましいのかもしれないけれど。 サマイクルが戸惑っている間も、ヨイチは笑って続けた。 「オキクルミさん言ってたよ、ぽつりぽつりつぶやいてた。あいつが村を守ってる、だから俺は村の外へ出て妖怪共を倒すことができる。あいつって…サマイクルさんのことだろ?」 確認のように尋ねられた言葉に、サマイクルは瞠目した。 (あいつが…そんなことを、思って) かちり、と目の奥で何かが光った気がする。光が、頭の中にもたらしていた暗雲を取り払うように広がっていく。かちり、かち、り、と。 それはおそらく希望の光だ。決してサマイクルの前では本音を吐いてくれないあの男のことを信じて良いのかもしれないという、微かな希望の光。信じたいと思いながらも信じ切れなかった己の心の闇を奪い去って行く、まばゆい光。 「妖怪を倒しつくすとかさ、無茶だとは思うけど、自分に出来ることをみんなが探してるんだ。オキクルミさんも、俺だって……あんただって、そうだろ?」 「―――…」 小首をかしげ尋ねられ、サマイクルはあぁ、と目をつむった。それでも頭の中に広がる光はきえなかった。 そうだった。そういうことだったのだ。 双魔神が復活してからというもの、サマイクルは常に村の中で自分に出来ることを探していた。村の混乱を抑えるための統率や、村に侵入する妖怪を村人に被害が出る前に切り捨てること、再び双魔神を封印するための方法を探し文献を読み漁る事。それはサマイクルに課せられた使命であり、サマイクルに出来る全てのことだった。 それが、オキクルミにしてみたらクトネシリカを光らせ双魔神を倒し、村を救うということだったのだ。オキクルミはただ単に、英雄になるために戦っているのではない。今のこの状況に対し、自分に出来る事を探し、考え抜いた末にたどり着いたのが今回の行動だったのだろう。 村のことを捨て置いてでもクトネシリカを輝かせることだけに執着しているのは、村のことはサマイクルが守ってくれていると、そう信じてくれているの、だ。 (オキクルミ…) わかっていなかったのは我の方だったようだ、とサマイクルは空を仰ぐ。 ふわ、ふわりと鉛色の空から小さな雪が降り始めている。それは双魔神の起こす風により、サマイクルの元へ下りてくるよりも前に遠くへ飛ばされてしまった。 また吹雪が、来る。 「我に出来るのは…しなければならないのは、村を守ることだ…」 再度その事実を噛みしめる。 サマイクルが村を守る。だから、オキクルミは村の外で戦う。同じように、大切な村を守るために戦っているのだ。 サマイクルはすっと背を伸ばし、あーまた雪か、と呑気そうにつぶやくヨイチの方を向いた。 「ヨイチ…お前のおかげで我がしなければならないことがわかった、感謝する」 「ん?俺はなんもしてねぇよ、行くなら早く行ったほうがいいぜ。村の人たちがきっとサマイクルさんのことを待ってるだろうからさ」 ニッと笑って、まるで内心を見透かしたかのような言葉を投げかけてくるヨイチ。あぁやはりこの男はただの空気の読めない男ではない、とサマイクルは目を細めた。けれどそれは、今はどうでもいい問題だ。 「また…姿を見かけることがあれば声をかけてくれ。歓迎しよう」 「おう!サマイクルさんも、オキクルミさんのとこ寄ったついででもいいからまた俺んとこにも顔出してくれよな!」 「あぁ、壮健であれ」 笑って手を振る男に背を向けて、サマイクルはくるりと宙返りをし獣に転化した。ヨイチの見ている前だったが、この男にならそれぐらい曝け出しても良いかもしれないと、思った。それぐらい構わないと思える相手であった。 それをばっちりと見ていたヨイチは目を白黒させる。 「あれ?お前はあの時の…じゃああれは、サマイクル、さん?」 戸惑ったような声をあげるヨイチを一度だけ振り返り、グルル、と肯定の意を込めて喉を鳴らした。そしてそのまま、雪を蹴って走り出そうとした、のだが。 「あ、ちょっと待って!」 「?」 ヨイチのあげた制止の声になんとか爪を地面に立て立ち止まり、振り返ると、目の前に赤い球体が飛んでくるのが見えた。あれはなんだ、と焦ったが、それがなんであるかを瞬時に理解し、まっすぐ顔の前に飛んできたそれをサマイクルは口でキャッチする。そのまま、後ろを振り向かず走り出した。 それは林檎。雪の純白に良く栄える、美しい紅。 「またな!」 ナイスキャッチ!と嬉しそうにはしゃぎ、手を振るヨイチのその声を耳で拾いつつ、サマイクルは全力で地面を蹴った。 また、会えるだろうか。ヨイチがいつまでこのカムイの地に留まるかは知らないが、出来ればもう一度ぐらい、双魔神のいなくなった美しいカムイの地で会いたいと思った。その時は出来るのならば、オキクルミとともに。 考えながら走り去るサマイクルの姿を、ヨイチはいつまでも見送り続けていた。 (オキクルミ…お前があえて村の外で戦うという行動を選んだのなら) (ならば我は村を守りきらねば、我を信じてくれたお前に申し訳が立たん) (村の為に今も一人、孤独に闘うお前に我が出来ることはただ、一つ) たとえ立つ場所は違い、姿は見えねども、その心が同じであるのなら。 (信じ続けよう…お前の事を、お前の帰るべき村で) エゾフジに立ち込める暗雲を正面に、風のように村へと駆ける獣の口には、色鮮やかな紅がくわえられていた。 林檎 5<<4 とりあえず終わり…です。この話だけ長くなってしまった…のに、なんか、無理やり詰め込んだ感じ…説明不足かなぁ精進します。中途半端ですけど最初から一応ここまでのお話、ということで考えてました。これオキサマ…?とは、私も思いました。思ってます。 兎も角随分止まってましたがお付き合いありがとうございました。途中で感想くださった方もすごーく励みになりました! |