林檎4



 手に持ったリンゴの鮮やかな色が視界から消え去ったような感覚に陥った。知らずリンゴに立てた爪がざくりと食い込み、果汁が指を濡らす。その声はサマイクルを一気に現実へと引き戻すものだった。
 あぁそうだ自分は何をしにここまでやってきたのだったか。ヨイチとの邂逅ですっかり遠くへと飛ばしてしまっていた記憶をかき集め、サマイクルは体を後ろへ向ける。少し丘になった雪の上に熊の面をかぶった男が仁王立ちしながらこちらのことを見下ろしている。あるいは、先ほどの言葉に刺が感じられたあたり見下していたのかもしれない。
 きっと今自分はひどく困惑したような顔をしているのだろう。面があってよかったと、サマイクルは内心息をつく。

「オキクルミ、お前に……会いにきたのだ」
「俺のところへは来るなと言ったはずだが」

 サマイクルの言葉を一言で切り捨てると、オキクルミは腰に履いた剣をすらりと音もなく抜く。それは太陽の光を受けきらりと光った。クトネシリカだ。いまだ青鈍色には輝かず、オキクルミが切り捨てた妖怪の血で赤黒く染まっている。

「それともそれさえ聞き取れなかったか」

 くつくつと笑ってオキクルミはクトネシリカをサマイクルの方に突きつけた。挑発されている、とサマイクルは思った。激昂した人間ほど己の意のままに操りやすいことをオキクルミは知っているのだろう、おそらくサマイクルを怒らせ帰らせるつもりなのだ。だがその手に乗るほど甘くはない。

「それにしてもこんなところで呑気に林檎を食いながら休憩とは、体力が落ちたんじゃないのか。…何故林檎かは知らんが」
(我も知りたいな……)

 なぜあのヨイチという男は林檎なのだろうか。こんな状況ながら、ふと先ほど駆けて行った男のことを思い出した。
 ざっ、とオキクルミが一歩踏み出し雪を沈ませながらサマイクルに近づいてくる。その音に気づきはっとしたサマイクルも、改めて体ごとオキクルミに向いた。

「オキクルミ、教えてくれ。なぜクトネシリカを奪った」
「またその話か。お前だってわかっているだろう。双魔神を倒す為だ」
「双魔神を倒すためにクトネシリカを奪い、そのせいで村がつぶれてしまっては本末転倒ではないか!大体勝手に持ち出すなど、村の者はお前のことを……」
「許可を求めて、許可が下りるのか」

 つぶやかれた一言はひどく冷めていた。面の隙間から見えた瞳も、冷たかった。この男はこんなに冷たい瞳をする男だっただろうか、とサマイクルは己の記憶を疑う。そんな困惑の中でありながらも、オキクルミの言っていることは理解できた。
 そうだ、許可など下りるわけがない。村の者たちは皆、クトネシリカが国を守ってくれると信じて奉っているのだから。

「絶対に下りぬだろう。だから奪ったまでだ」

 無駄なことならば省けばいい。オキクルミは至極当然の様に言った。サマイクルもまた確かにそうだと思ってしまうところもあった。ある意味では彼の言っていることも正論だ。なにより、あの勇猛な男は無駄を嫌っている。

「だが……だがオキクルミ、それでも我は」
「なぁサマイクル、お前は俺を心配してくれているのか」

 突然、話がすり替わったような気がした。オキクルミにしてみれば話の延長戦だったのだろうが、サマイクルには180度変わったように感じたのだ。クトネシリカの話から、オキクルミについての話へ。

「……は?」

 サマイクルは思わず間の抜けた声を上げる。

「お前の心配、がなんだって?」
「まぁ、いい」

 つまらなさそうについと顔をそむけたオキクルミは、ざくりざくりとゆっくり歩み寄ってきている。二人の間にはもう15歩の距離ぐらいしかない。
 どうする気なのだろうか。手に持った宝剣を先ほどのように突きつけるつもりか。突きつけられたとてあとに引くつもりはサマイクルにはなかった。それとも―――と考えてふと気がついたことが、一つ。先ほどサマイクルは彼に宝剣を奪った理由を訊ねた。彼はそれに、双魔神を倒すためだと答えた。これでサマイクルの目的は達成されたことになるのではないか、ということだ。
 ではおとなしく帰るのか。それは否、である。
 一歩も引かないサマイクルに、オキクルミは焦れったそうに舌を打つ。

「双魔神を倒す以外に、どんな理由ならお前は引き下がる」
「引き下がるとかそういう問題ではない」
「どちらにしろ俺が引き下がることをしない限り、無駄だがな」

 ざく。あと十歩。

「……相変わらずの頑固者だな。いいだろう、もう一つ理由をくれてやる」
「なにを」
「俺は、」

 五歩。

「俺は、お前を」
「サマイクルさん!ホントに待っててくれたんだなぁ!!」

 突如として聞こえてきた声は、この場に似つかわしくない大きく明るいものだった。言葉を止めたオキクルミは反射的にばっと背後に飛び、サマイクルとの距離は八歩程に広がった。
 声の持ち主はサマイクルの後ろの方から走ってきたヨイチだ。右手に弓を携えているところを見ると、金丸というのは弓の名前だったのだろうと合点がいく。近くまで寄ってきたヨイチは、そこでやっとオキクルミの存在に気づいた。
 オキクルミは突然の介入者を睨みつけていた。勿論面をしていたが、サマイクル程の付き合いならばそれもわかる。他者に対してひどく警戒をしているのだろう。

「ん?えーっとあの人は……サマイクルさんの友達?」
「あぁ……あ?いや、なんというか」

 相も変らぬペースで話すヨイチ。空気の読めない男である、オキクルミからあふれ出す殺気にも似た気配に気づかぬというのだろうか。もし気づいていてこんな態度がとれるのならばこの男、随分と大物だ。
 すると、サマイクルと打ち解けた様子で話す男に何を思ったのか、オキクルミが口を開いた。

「なんだその男は」
「あ、俺はヨイチってんだ。兄さんもかっこいい面してるねぇ、持ってる剣も随分と業物だろ?おぉそうだ、これでも食べるか?」

 自己紹介とオキクルミへの賛辞の言葉を並べると、ほい、と言って彼が取り出したものはやはりリンゴであった。それをオキクルミの方へ向って軽く投げる。だがオキクルミはそれを一瞥すると受取ろうとはせず、右手に構えたクトネシリカで一閃、真っ二つに割ってしまった。
 クトネシリカでリンゴを斬るとは何事だ、と憤慨しそうになったサマイクルは、しかしそれよりもなんと無礼な態度だろうかとヨイチの様子を窺う。男は笑っていた。

「ひょっとしてリンゴ嫌いだったか?だが生憎とそれ以外になんも持ってねぇんだよなぁ、勘弁してくれ。サマイクルさんも知ってたなら言ってくれりゃいいのによ」
「そんな猶予があったか……で、なくてな」

 なんとまぁ嫌味のない男だろうか。もしくは馬鹿なのか。オキクルミの今の行動はどう見てもヨイチを警戒し威嚇しているようにしか見えない。リンゴの趣向など微塵も関係ない。あえて気づかぬフリを演じているのか、ただ鈍感なのかどちらだろうかこの男は。
 オキクルミはしばらく真正面からヨイチを睨みつけていたが、やがてフンと鼻を鳴らした。

「成程、そのリンゴもその男から貰ったというわけだ。そして俺に会いに来たという目的さえ忘れてのんびり休憩するほどの存在か?」
「何を言っているのだオキクルミ?」

 もとより機嫌の良くなかったオキクルミはさらに機嫌を悪くした。それにサマイクルは眉をしかめるが、こちらを見てはいない。

「それよりオキクルミ、さっきは何と……」
「俺はそんなに簡単に忘れられる存在か」

 ザン、とクトネシリカが地面に転がったリンゴに突き刺された。分厚い雪を貫き、地面にまで突き刺さった鈍い音がした。その剣を抜き放ちオキクルミは再びクトネシリカをサマイクルに向かって構える。

「村に帰れ、そして待っていろ。俺が英雄になって、その存在を二度と忘れられぬようになるのを」
「なに?おいオキクルミ……!」

 言い捨てたオキクルミは返事など待つ気はないようで、一瞬の間に獣の姿に転化したかと思うと彼の家のある方へと駆けて行ってしまった。数秒で、白い雪の中に黒の獣は消え去る。
 その背を追っても無駄だと思ったのだろうか、サマイクルはその場に立ち、オキクルミの消えた方角を見つめていた。



林檎 4


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オキクルミはなんというか、なんなんでしょうね(おい