また、数日が経過した。
 その日は、昼過ぎから雨が降り出した。朝はしっかりと晴れていたので、一日その天気が続くものだろうと皆が思っていたところ、昼ごろになって急に辺り一帯が暗くなり、暗くなるが早いか水滴が降って来たのだった。
 ケ艾はちょうど鍛錬を終えようとしていたところで、後一歩雨が遅ければ良かったのに、と思うが、残念ながら雨に降られてしまった。その後の水浴びの時間が短縮されたのだ、と前向きに思うことにして、今は鍛錬場の近くの廊下で兵達に混ざって服の水をしぼっている。
 友人には恵まれていない、といったケ艾であったが、部下や兵達からは人並み以上の信頼は得ていたので、こういった場に紛れ込むのは日常的であった。その上、最近のケ艾は無理のない範囲で人を信じ関わろうとしているため、これまで不仲であった者達からの評価も変化しつつある。いい傾向だ、と自分でも思う。
(自分がこう変われたのも、きっと郭淮殿のおかげだ――)
 そんなことを思って、自然と顔が緩んでくる自分を自覚し、あぁまた気持ちの悪いことを、とケ艾はため息をつく。近頃、どうにも自分の意思と行動とをうまく制御できなくなっているような気がした。あることを考えると、無意識に表情から険が抜けていくのだ。悪いことではないが、少々――いや、結構力の抜けた顔になってしまう。
 そんな自分を少し厄介だな、とは思うが、それさえもやはりいい傾向だと嬉しく感じてしまうのだから、重症なのであった。
(郭淮殿…今日は何をなさっているだろうか)
 ふと、郭淮の屋敷がある方角を眺めて、思う。
 明日は仕事を片付けなければ、と昨日会った時に言っていたので、大方執務をしているとみて間違いないだろう。郭淮は将ではあったが、ケ艾と違って皆に混ざってこうして鍛錬をすることよりも、机の前に座って執務をしていることのほうが多い。
 そうほとんど結論のような答えを導き出しているのに、一度気になるとそわそわと落ち着きがなくなってくる。いつものように、あの少し困った表情で書簡を睨んでいるのだろうか。あるいは真剣な表情で、神経質そうでいて美しい文字を刻んでいるだろうか。
 考え出すと、脈が少し早くなって、気分が高揚し、やはりまた顔が緩む。
(…だから、この顔は、良くない)
 戻れ戻れと念をかけ、困ったように頬を両手で挟んでぐにぐにと筋肉をほぐしていると、隣にいた兵士が、どうかしましたか、と怪訝そうな顔で問うてくる。特別なことは何もないのだが、この思うようにならない表情をおかしなことと言うのなら、ケ艾は今相当におかしい自覚があった。
 そのため、余計な詮索をされる前にとケ艾は疑問を適当にかわし、急いでその場を離れるのだった。

「これは、ケ艾殿。雨は大丈夫でしたか?」
 屋敷へと向かおうとしたケ艾が途中の廊下で出会った郭淮は、なぜか上から下までしっかりと水に濡れており、水分で重くなってしまった衣服を纏っていた。雨に降られたのか、とケ艾が聞こうとするのと、私は雨に降られまして、と郭淮が言うのは同時だった。
「調子が悪いという連弩の様子を見ていたら急に雨が降って来たもので、雨宿りする間もなく…このような有様です」
「それは災難でした。ならば早くお着替えになったほうがよいのでは?お身体に障ります」
「えぇ、そうですね。風邪を引いては皆に迷惑をかけてしまう…ごほっ」
 こんこん、と咳き込みながら歩き出す郭淮の隣を、ケ艾もついてゆく。ついてこい、と言われたわけでも、ついていきます、と言ったわけでもなかったが、郭淮もケ艾がついてくることに疑問も不満もないようだった。随分近しくなったものだ、とケ艾は隣を歩く細身の身体を気にかけながら思う。
(自分は――夏侯淵将軍よりも、歩み寄れる日はくるのだろうか)
 この間、考えることをやめたはずの思いがゆっくりとケ艾の中に蘇った。あの時以来思考の奥深くへ沈めていた感情であったが、ふとした時に浮上してきてしまうようだ。
 しかし、そんなこと考えるだけ無駄だともわかっていた。郭淮が夏侯淵のことを思わない日がないのなら、ケ艾などはどうあがいても思い出より上の順位につくことはないのだ。
(それも仕方のないことだと、思っていたはずなのに)
 喚き出したくなるような、心揺さぶるこの思いはなんなのだろう。
 このような感情は今までに覚えのない感情だった。いや、ケ艾とて人の子だ、誰かより上に立ちたいとか、誰かには負けたくないだとかの闘争心を燃やすことは多々あった。だがこの感情は、それらのものとはどこか違っていた。
(どこかで聞いた話だが…なんだったか)
 うーんと首をひねって、はっとひらめく。
 あれはそう、力ある雄に囲い込まれその寵愛を受ける宮中の女性達の愛憎入り乱れる世間話だ。英雄色を好むというが、妻を多く取りすぎて、あの女ばかり可愛がるなだとか、私を一番に思ってほしい、誰かと比べることなく愛してほしい、などの話に似ているのではないだろうか。
(…ん?これ、は)
 彼女達が話す内容の行き着く先は――愛、だ。
(いや、それは…)
「ごほ、ごほごほっ…っ、ぐ、…っ!」
 突然、郭淮が激しく咳き込み、足を止めた。
 はっとしてケ艾も歩みを止め、郭淮へと視線を向ける。
「郭淮殿?!」
「げほっ、っ…はっ」
「郭淮殿、大丈夫ですか…、…っ」
 変なことを考えている場合ではなかった、と崩れ落ちそうな郭淮の身体を支えようと手を伸ばしかけたケ艾は、ふと、己の瞳が捉えた光景に息を呑んだ。
 ごほ、と苦しそうに咳き込むたびに、郭淮の背中を覆っていた黒髪が、房を作って肩を流れ落ちる。その合間から見える雨で濡れた白い項に、ケ艾の目と思考が一瞬で奪われてしまった。
 白い肌を滴る透明な雨が、やけにその艶っぽさを強調する。
(――郭淮殿、の)
 ごく、と喉を鳴らす。己の中の獣の唸り声が聞こえて、一気に体温が上昇したのがわかった。
 引き寄せられるかのように、ケ艾は郭淮の首元へと手を伸ばした。それは己の意思とは別のところで動いているようだった。
(首に)
 普段は髪で隠されてしまっているその秘境に、もう少しで触れるというところで、郭淮がもう一度、強く咳き込んだ。その音を耳にして、ケ艾ははっとなり、伸ばしたその手をそのまま郭淮の背中へと添えた。
「…大丈夫、ですか?」
「げほ…えぇ、すみませんケ艾殿…」
 涙目になりながらも礼を言う郭淮に、ケ艾はさらに自制心を試されている気分だった。風邪でも引いてしまったのかと思うほど、頭がぐらぐらとしている。
(――危なかった、今、自分は何を…)
 己の無意識の行動を振り返って、ケ艾は冷や汗をかく。我に返っていなかったら何をしようとしていたのか――考えて、ケ艾の心臓は早鐘を打つ。
 正直なところ何をしようとしていたのか明確にはわからない。だが、非常によろしくないということは理解できた。なぜなら今、郭淮のことを見て身体の中を駆け巡った感情はおそらく――未だ覚めやらぬ興奮を悟り、ケ艾は戸惑った。
(ならばあの時思った感情も、勘違いでは――ないのか)
 それは、郭淮という男の中で、誰よりも近い存在でありたいという願望。
 そして、触れたいという確かな欲望だ。
 二つの望みの間に立って、ケ艾は首を振る。
(だが、相手は男で、年上で、位とて自分よりも高くて、何よりも国のためにと自分を信頼してくれている人に対して、こんな…)
 こんな不埒な感情は持ってはいけないはずだった。純粋にケ艾を信じてくれている相手を裏切るような感情だ。だからあれ以上は考えるなと、何度も理性が警告していたのだ。
 けれどケ艾の中の本能が、理性などという柵を軽々と飛び越えてしまった。その現実に、ケ艾はいよいよ己の考えに向かい合わなければならなくなった。
(自分は…そういった理屈を抜きにして、郭淮殿のことを好いているの、か?)
 初めこそ、自分と同じ志を持つ仲間であり、友人が出来たことが嬉しかったのだと思っていた。これまでは気にしないようにしてきたが、やはり一人きりで生きる孤独はケ艾の心を寒々と凍えさせていたのだろう。だから、人と接するという温かみに触れて、幸せだと感じることにこそケ艾の喜びがあったのだと思っていた。
 しかし、それはケ艾の本能を優しく寝付かせるための暖かな布団であった。その言葉の裏に隠され封じられていたのは、もっと原始的な欲求だった。
(――そう、だった)
 気づいてしまえば、思い当たることはいくつかある。
 ある時、郭淮と夏侯覇が親しげに話しているのを見かけた。郭淮と仲良くなる前にも、幾度か見た光景であったが、親しくなってからはより一層微笑ましい光景だ、と思っていた。
 しかしその温かな感情とは別のところで、彼らと自分の間にある壁を感じ、ずくりと心が痛んだ。それを、友人の少ないケ艾にとって、友人を取られたような寂しさであると自身に言い聞かせたのではなかったか。
 何より、夏侯淵の話である。郭淮が語る夏侯淵の話を心穏やかに聞いていられなくなったのは、いつからであっただろうか。正確なことは思い出せないが、羨ましい、悔しい、と感じ始めたあたりからすでに、ケ艾は自分の気持ちを誤魔化していたことになる。郭淮の夏侯淵への想いを知るほどに、その感情は比例して大きくなっていたのだ。
 仲良くなる以前は確かに、ケ艾は郭淮への興味を持っていなかった。それだけは、自信を持って断言出来る。しかし、その後の対応がケ艾の感情を形成したともいえるだろう。
 郭淮のケ艾に接する態度はきっと裏があるのだろうと、ぎりぎりまで信用しないようこらえて、こらえ続けていたものが、求めていた言葉を受けたことで一気に反対に振り切れてしまったのだ。
 随分と単純で説得力には欠けるかもしれないが、人の心とは案外変わりやすく出来ている。ケ艾がこれまで培ってきたものを変えてしまった郭淮相手ならば、尚更だ。
 今は本心から、自分を認めてくれた彼の人の傍にいたいと思っている。そして出来ることならば、誰よりも近くありたいとさえ思った。自分が必要としているのと同じだけの強い感情で、相手が自分のことを必要としてくれたなら、と我侭にも願っている。
 ――この感情を、果たしてなんと呼ぶか。
「――ケ艾殿?」
「…、あ、申し訳ありません、」
 ふと、不思議そうにかけられる言葉に、ケ艾はここが廊下のど真ん中であることを思い出した。考えていたのはほんの僅かの時間だったようだが、その僅かな時間の中で、ケ艾の気持ちは随分と変化していた。
 どうかしたのかと見上げてくる郭淮を見ると、動悸が騒がしくなる。背に添えた手から伝わる熱に身を焼かれてしまいそうだ。その確かな身体の変化こそが隠しようのない答えだった。
(そうか…自分は郭淮殿のことが好きなのか)
 言葉にして認めると、少し気持ちが落ち着いた気がした。自分の中の得体の知れない感情に名前をつけることで、そういうものなのだと受け止める余裕が出来たのだ。
 そうして浮ついた気持ちが落ち着いたところで、ケ艾はふと苦笑を浮かべる。
(だが――そんなことが、どうして言えようか)
 こんな想いを抱いているのだと、言えるはずがなかった。
 ただ純粋に、ケ艾のことを信用してくれる郭淮に対して、その信頼を裏切るようなことは出来なかった。折角これほど居心地の良い場所を手に入れたのに、欲望に負けてみすみす手放すことだけは避けたかった。これ以上を望むべきではないと、自分の居場所に満足しようとしたのだ。
(そうだ、この方と共にいられれば、自分の寂しさは癒される。それ以上は――)
 望んではいけない、と強く言い聞かせた。
「…すみません、少し用事がありますので、ここで失礼します」
 廊下を進み岐路にさしかかったところで、ケ艾は急にそう切り出した。ケ艾の言葉に振り返った郭淮は、そうでしたか、とつぶやく。その際、少し残念そうな顔をした、と思ったのはケ艾が見せた願望であったか。
「ではまた…」
「はい」
 そのまま郭淮と別れ、ケ艾は一人廊下を歩く。頭の中にあるのは、気が付いてしまった己の思いについてだ。ケ艾はそれを、なかったものとして扱おうとしている。気付いてしまった途端に封じなければならぬとは、可哀想なものである。
(だがこれも、あの方と共にいるためだ…仕方がない)
 一生傍に寄ることさえ許されなくなるか、自分の気持ちを押さえ込むか。考えるまでもなく、取るべき道は一つだろう。そう己に言い聞かせ、気持ちを落ち着かせようとした。
 しかし、ずっとこうして思いにふたをして生きていかなければならないのだろうか、と思うとひどく心が痛んだ。ある意味では、思いを伝える相手がいなかった孤独であることよりも、辛い気がした。
 ならばいっそ、昔の一人、孤独のままのほうが楽だったのかもしれない、と自嘲気味に思ったケ艾だったが、芽生え、気付いてしまった以上、この思いを捨て去ることは難しいのだろうとも冷静に考えていた。



 ケ艾はそんな複雑な郭淮への気持ちを燻らせながらも、これまでと同じように過ごし続けていた。そして、割と普段通りに接することの出来る自分に安心して、やはり孤独よりもこちらの方が数倍マシであろう、とこの立場を貫く決意を新たにしたところである。
 そんなある日のことだった。
 ケ艾が書庫の前を通りかかったところ、何やら中で幽鬼のようなものがうごめいていて、びく、と思わず身体を揺らしてしまった。咳き込む音から郭淮であるとわかっていたのに、そんな反応をしてしまったのは、書庫内にいた郭淮の顔色があまりに悪かったからだ。常日頃からあまり芳しくない顔色であるが、今日に限ってはそれとわかるほどに青褪めてしまっている。
「郭淮殿?大丈夫ですか…?」
 すぐさま歩み寄って郭淮の隣にしゃがみこむと、そこでようやくケ艾の存在に気づいたらしい、虚ろな瞳がケ艾へと向けられた。
「あぁ…ケ艾殿、でしたか」
「ひどい顔色だ、体調が優れないのではないですか」
「いえ、これぐらいはいつものことで…ごほっ!」
 そう言われても、明らかにいつもの顔色ではない。声にも張りがないし、これでいつも郭淮を気にかけているケ艾を誤魔化せると思っているなら見くびられたものである。
 そう思いながら郭淮のことを見つめていると、郭淮はばつが悪そうに視線を伏せ、困ったように眉根を寄せた。
「…すみません、今日は少し、夢見が悪くて…いえ、体調が悪いから夢見が悪かったのか…」
「そうでしたか。お休みになったほうがいい」
「これだけ、終わらせなければ…」
 机の上にはいくつかの書簡が広げられている。見れば、分類して片付けるだけのものならばケ艾にも出来そうなものであった。
「手伝いましょう」
「いえ…そのような、ご迷惑は」
「いつも測量を手伝ってくださるお礼です」
 有無を言わせず郭淮の言葉をさえぎると、早速ケ艾は書物の整理にとりかかった。本当は今すぐにでも休んでほしかったのだが、仕事を気にして休めないというぐらいなら終わらせてしまえと思ったのだ。なにより郭淮の役に立てるのであれば、ケ艾には何の躊躇もない。
 ケ艾の行動を申し訳なさそうに見ていた郭淮であったが、やがて、ありがとうございます、と礼を言うと、ごほごほと咳き込みながら文字をしたため始めた。
 しばらく、二人とも何も話さなかった。ケ艾は郭淮の邪魔になってはいけないと思っていたし、郭淮は仕事を早く終わらせてしまうことこそ、手伝ってくれているケ艾のためだと思っていたのかもしれない。
(相当に体調が悪そうだ…夢見が悪いとは、一体どのような夢を見たのか)
 作業を続けながら、時折郭淮の横顔を眺めつつケ艾は思う。悪い夢を見た、などと郭淮が言ったことは今までにほとんどなかった。あったとしても、それを笑い話にしてしまえる程度には、郭淮の心は脆くない。
「…あ。それは部屋に持ち帰るので、残しておいてもらえますか」
「え?」
 不意にかかった制止の声に、こちらのことも見えていたのか、とケ艾は驚きつつ郭淮のほうを振り返る。ケ艾が手にしているのは、漢中付近の地形が描かれた地図だった。そうですか、とそれだけ横によけておこうとしたケ艾は、途中であることに気がつく。
「持ち帰る、とは…お休みになられるのではないのですか」
「眠る前に、でも」
「駄目です」
 体調の悪い人間が何を言っているのか、と無慈悲にもケ艾はそれを棚に戻してしまった。あぁ、と残念そうな声を上げる郭淮にも気づかないふりをした。様々なことを学ぶのは結構だが、もう少し自分の体調にも気を使ってもらいたいものである。
 大体、今の顔色ですがケ艾がどれほど心配しているかきっとわかっていないのだ。いや、絶対わかっていない。
 それで話は終わったと思っていたのだが、意外にも郭淮が食いついてきた。
「ケ艾殿…心配してくれるのはありがたいのだが…どうか。私はもっと沢山のことを学びたいのです、学ばなければならない…」
「郭淮殿のその知識欲には毎度驚かされます。しかしそれは今でなくとも良いでしょう」
「今でなくては駄目なのです…ごほごほごほっ」
「いいえ、十人中十人が休むのが先決だと言うでしょう」
 頑なな郭淮の態度に、少しきつめの言い方をしてしまった。だが、自分は間違ったことは言っていないはずだ、とケ艾は内心で自分の意見に賛同する。
 体調が万全でない時に学習したとて、その効率は悪いに決まっている。ならば少し時間はかかるものの休息を取り、頭の冴えた状態で挑むのが最善である、とケ艾は考えている。聡明な郭淮ならばそれぐらいのことわかっているはずなのに、何故今日はこれほど食い下がるのであろうか。
 ケ艾に強く言われた郭淮は、仕事の手を止めてぼんやりと目の前に広げた紙面を眺めている。なんとかケ艾を言いくるめる言葉を探しているのだろうか。だが郭淮のことを思うがゆえに、ケ艾も譲るつもりはなかった。
(少し休んでいただくだけなのに、なにを――)
「――夢、を」
 ぽつり、と。
「夏侯淵殿の夢を――みました」
「!」
 脈絡なく放たれた言葉に、ケ艾の動きが止まる。手に持った書簡を思わず落としてしまいそうだった。微かに耳に届いた、今にも消えてしまいそうなほどの声が頭の中で静かに響いている。
 そして次の瞬間、さあっと血の気が引いて、急に言いようのない不安に襲われた。それは、また彼の話かと妬みの想いが顔を覗かせたことと、発された郭淮の言葉に、あまりにも感情が感じられなかったからだった。
 言葉を失ったケ艾を気に留めず、瞳の焦点をゆらりと彷徨わせたまま、まるでうわ言のように郭淮は続けた。
「夏侯淵殿が、蜀軍の手にかかって、絶命する――ゆめ」
「ッ!」
 郭淮が何かを諦めたように、ふ、とはかなげに笑ってみせる。その表情を見て、ついにケ艾は手の中のものを取り落としてしまった。顔色はやはり良くない。しかも、感情を感じさせることのない、魂の抜けたような表情をしている。まるで死人のようだ、とさえ思うほどひどい顔色をしていた。
 しかし、夢の内容を聞けばその表情の意味がわかる気がした。郭淮にとってその夢というのは、生涯忘れることの出来ない、心に大きな傷を負った出来事を模しているのだ。
「郭、わ」
「あの日のことを思い出してしまった――あの日、」
 咳きこみ、郭淮は言葉を止める。けれどすぐに、喉から声を絞り出した。
「私が…もっと、もっと沢山のことに精通していれば…地形に詳しければ…、あの…定軍山、天蕩山のことも…」
 ケ艾ははっとした。
 漢中。郭淮が後で見ると言った地図。
(そういう、ことか)
 だから、彼の人が亡くなった夢を見た今でなければならなかったのだ。夢を見たことで、自分自身の無力さを思い出させられ、身をかきむしる程の後悔を内に宿している今でなければ、漢中の地図を学ぶ意味がなかったのだ。少しでも何か行動しなければ自責の念で押しつぶされてしまいそうだったのだろう。そして現実に、郭淮は心の闇に飲み込まれかけている。
(だがそれは、貴方の身をすり減らしてまでしなければならぬのか)
 そんなこと、夏侯淵は望んでいないはずだ、と思う。少なくとも、ケ艾が夏侯淵の立場であったらそう思っている。
 しかし郭淮はケ艾のことも見えていないように、己の手を見つめて肩を震わせている。
「私は…だから、どんな些細なことでも、己の知識としなければ…あの方のため、に、ごほっ!」
 言って、ぜぇぜぇと肺から掠れた息をこぼしながら郭淮は黙り込んだ。いや、黙り込んだのはケ艾に見える現状だけで、内心ではまだ呪詛のように続けられているのかもしれない。
 ケ艾は彼にかける言葉を探したが、どんな言葉も届く気がしなかった。どんな心地よい言葉でさえも、自責の念の前には意味を成さないだろうと思った。
 代わりに、ではないが、彼の異様なまでの執着を目の当たりにして、まさか、という思いが浮かび上がってくる。
(まさか…あの言葉さえも、その真意は)
 そう思うと急に怖くなって、ケ艾は震える口を開いて問うた。
「地図が、」
 郭淮の瞳がちらりとであるが、こちらへ向けられたのを確認して続ける。
「地図が…大切だと自分に言ったのは、夏侯淵将軍のことがあったから、ですか」
 あれはケ艾のことを認めてくれたからではなかったのか。単純に、地図の有用性を理解していたからではなかったのか。そんな思いはなく、ただ定軍山での失態を基準としての、後悔から出た発言であったのか。
 否定してほしかった。もしそうだと言われてしまえば、ケ艾が感じていた郭淮から向けられる想いは全て――。
 希望に反して、郭淮は首を縦にも横にも振らなかった。ただ、視線をケ艾からそらし、遠くの空を見つめながら、静かに口を開く。
「…あの時、貴方のように地形に詳しければ、私は他の策を講じられたかもしれない…夏侯淵殿をお救い出来たかも…」
 そこまで口にして、がた、と突然郭淮が立ち上がった。そして、ふらふらとケ艾の元へと歩み寄ってくる。その瞳は、ケ艾を映していないように見えた。映っていたのはケ艾という――郭淮の、願望だ。
(なん、だ?)
 その足元が、深い闇に覆われているように見えた。足元から広がる闇が、郭淮の身体に纏わりついているように見えたのだ。それは瞬きをする間のほんの一瞬の出来事であったが、禍々しいその様子に思わず慄いて、ケ艾は一歩後ずさった。しかし棚によって道は阻まれてしまう。
「郭淮殿、気を確かに、」
「私も、もっと逞しくありたかった。こんな病弱な身体ではなく、貴方のように…」
 す、と手が伸びてくる。その指先は、少しだけ躊躇う素振りを見せたあと、腫れ物に触るかのように衣服の上からケ艾の肩口に触れた。かっと身体が熱くなる。
「っ郭淮殿!」
「もしそうであったなら、夏侯淵将軍が亡くなったあの日…私はこの身を盾にしてでも、あのお方をお守りできたかもしれない、のに」
「っ――!!!」
 あなたがうらやましい、とつうと肩口をなぞる指先に、このような状況でありながら欲情した。虚ろな郭淮の瞳が、ケ艾から罪悪感を感じることを奪う。
 触れられた箇所が火傷したように熱い。どっと心臓が跳ね上がり、その軽く手折れてしまいそうな手首を思い切り掴んで、細い身体を引き寄せ、自分の下に組み敷いてしまいたかった。ケ艾という男が本能だけで出来ていたなら、迷うことなくそうしていただろう。
 しかし、同じだけの早さで冷めていく心があった。そしてそれはいとも容易く欲望を上回り、消し去ってしまう。
(――とんだ勘違いだったというのか)
 一向にケ艾を映さない郭淮の瞳を見ながら、ケ艾は放心したように立ち尽くす。
(結局のところ、郭淮殿が自分を気にかけてくれたのは全部――あの方のためだった)
 確かに郭淮は、ケ艾のことを認めてくれていたし、尊敬しているといったのも本心からだったのだろう。彼は何一つとして嘘をついてはいない。
 ただ初めから、郭淮という男の行動原理はたった一つしかなかったのだ。それを、ケ艾が浮かれて勘違いしていただけで。
「夏侯淵、殿」
 苦しそうに一言つぶやいて、郭淮はケ艾にもたれかかるように崩れ落ちた。咄嗟に支えた郭淮の身体は熱く、体調が悪化してきたことがわかった。最後のほうはもはや、夢うつつの中での行動であったかもしれない。
 郭淮の身体に手を回すと、激しく脈打つ鼓動を感じ取ることが出来る。
(郭淮殿、貴方は…)
 一体どれほどの後悔を抱えて今を生きているのか――疑問に思えど答えはなく、仕方なくケ艾は急いで郭淮の身体を背負うと、すぐさま休ませるべく彼の屋敷へと急いだ。
 道中、心を占める思いは、郭淮と夏侯淵についてのことだった。
(…この方を一喜一憂させられるのは、あの人しかいないのだろうか)
 ケ艾が気付いていなかっただけで、何を今更、と笑われるだろうか。それでも、郭淮と過ごした日々がケ艾に諦めることを拒否させる。あの日々が全て自分の勘違いであったなどと思いたくなかった。
 だが肩口で、うなされながら夏侯淵の名を呼ぶ郭淮が、ケ艾に嫌でも現実を突きつけてくる。
 自分では駄目なのか――その絶望に、怒りにも悲しみにも似た感情がケ艾を苛んでいた。






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