その日以来、ケ艾と郭淮の距離はぐっと縮まった。
 理解されぬのであれば一人でもいいのだと、これまでずっと閉ざしてきたケ艾の心は、郭淮によって解き放たれた。それは、司馬懿に認められたことと同等の、あるいはそれ以上の意味を持っていた。もう少し他人に対して期待してもいいのかもしれない、とケ艾に思わせたことが一番の収穫ともいえるだろう。
 話してみたかった、と言ったように、郭淮もまたこれまでより積極的にケ艾に話しかけてくるようになった。その場しのぎの言葉ではなかったのだ、とケ艾は感動し、より一層郭淮への親愛の情を深めることとなり、いつしかケ艾は誰よりも郭淮のことを信頼するようになっていた。
 二人が話す話題は、決して二人ともが共有している話題ではない。それぞれ興味のある事柄が違えば当たり前のことだ。それでも、互いに相手が話す内容に不思議と惹かれた。それは二人ともが持つ共通の性質――知らぬ知識を吸収しようとする、貪欲なまでの知識欲が功を奏したのだろうと、少なくともケ艾はそう思っていた。

 また、郭淮との距離が縮まっていくのと同時に、地図も着々と埋まるようになっていた。
 思うに、ではあるが、これまでなかなか地図が完成しなかったのは、ケ艾の地図への集中力が欠けていたからなのだろう。普段ならばケ艾の行動に興味を持つ者はおらず、全ての神経を地図作りに注ぐことが出来ていた。それが、郭淮の出現により無意識のうちに思考がそちらへ振れてしまっていたのだ。
 するとつまり、地図が完成しなかったのは郭淮のせいということになるのだが、完成するようになってきたのもまた郭淮のおかげである。むしろ今までの地図への執着は、裏を返せば皆から笑われたやりきれない思いを昇華するための手段だった。その負の感情での動力はなくなったが、代わりに充実した心身で作図に臨むことができている。これは素晴らしいことだ。人間変わろうと思えば変われるものだ、と感心するケ艾であった。

 さらに変わったことといえば、ほとんど一人ででかけるだけだった測量に、時折郭淮もついてくるようになったことだ。
 後学のために、といって時間を見つけるとケ艾の元へやってきては、飽きもせずについてくる郭淮は、相当に勉強熱心だ。ケ艾の技術を見様見真似でものにしようとしている。使い道があるかどうか知らないが、無駄な知識などはないとケ艾も思っているので、取り立てておかしいことだとも思っていなかった。
「ケ艾殿はなぜ、お一人で地図を描くのですか?」
 はじめは郭淮のその一言であった。
「…はぁ」
 郭淮からの斜め上の問いかけに、思わず間の抜けた声をあげてしまうのも恒例のようになってきた。呆れているのではなく、頭の中に答えが用意されていない問いかけをされるものだから、必死に言葉を探しているのだ。
 何故、といわれれば、ケ艾には共に出かけるような友人がいなかったからである。またたとえいたとしても、大勢いれば作業がはかどるというものでもない。したがって、必然的にケ艾は一人で出かけるようになっていったのだ。
 それに、地図作りに没頭している時は、他の煩雑なことを考えずに済んだ。一種の気分転換のような感覚もあったので、一人で十分だった。
 そう言えば、ついていくのは迷惑でしょうか、と尋ねてくるものだから、やはり驚いてしまって、はぁ、と答えた。まるで阿呆みたいだ、と自分の受け答えに呆れるばかりだったが、他の誰でもない郭淮の言葉であったし、ケ艾のしていることに興味を持ってくれたのであれば、と同行を許可した。実際、自分の行動を奇人扱いせずに気にかけてくれるのは嬉しかった。
 それが結局のところ、二人が周囲の目のないところで存分に会話をする時間を生み、二人の仲を縮めてくれたものだった。

 郭淮はケ艾が思っていた以上に、豊かな表情を見せる人物だった。軍議の席で見せる、寡黙で冴え渡る策を披露する人物とは随分と違っていたし、戦場でまみえる薄闇の鬼とも違う。もっと人間味のある男だ。
 咳き込むのはいつもと変わらないし、それはとある人物――故夏侯淵の話題の時限定だったが、郭淮の瞳には赤々とした火が燃えるのだ。見ているこちらが火傷するのでは、と思うほどの眩さだった。そして、立派であった尊敬していた、いつもお優しい瞳をして皆から慕われていた、などと熱心に、病弱とも思えぬ力強さで語るのである。
 夏侯淵のことになると熱くなるのは、それなりに付き合いのある者達ならば知っていることではあった。しかし、一体何人がこの熱弁する姿を実際に見たことがあるのだろう。噂で聞いたことがある、という程度の者も少なくないので、郭淮がこれほど熱心に話してくれるのは自分だけの特権のような気がして、ケ艾は密かに嬉しくも思っていた。
 それを踏まえたうえで、郭淮と行動するようになって気がついたのは、郭淮の中を占める夏侯淵という人間の割合の高さであった。何かにつけて、郭淮の口からは夏侯淵の名前が飛び出すのだ。果たして彼の元にいる間に、どれほどの影響を受けていたのか。ついでのように夏侯覇のこともよく話すが、とにかくよほど尊敬していたということなのだろう。
 後から夏侯覇に聞いたところによれば、親しくなった人間相手には容赦なく父さんの話題が出るから気をつけろ、ということらしい。以前ならば、噂には色々な嘘の情報が付随して回ってくるものだし、夏侯覇の話も少し誇大されているのだろう、と思ったかもしれないが、今ならばその意味がよくわかる。ただ、逆に考えれば、それだけ郭淮と親しくなったという証拠でもあるはずだ。そう思えば嫌なことではない。
 そのような人物であったので、多分に夏侯淵の話題が含まれていたものの、これまで赴任してきた様々な地のことを話しながら地図を描いている時間は、ケ艾にとって至上の楽しみとなっていた。なによりその時間が、一人ではないことが嬉しかった。
(もう少し、他の人たちも信じていいのかもしれない)
 頑なだった心に、そんな思いも生まれていた。

 しかし、楽しいばかりでなく、ケ艾には不安もあった。
 それは、ケ艾が元来人付き合いに関して臆病なためかかもしれない。だが、自分だけが郭淮と共にいることを楽しんでいるだけなのではないか、という考えが、ふとした時に思い浮かぶことがあった。
 地図作りに関しては郭淮の方から同行を申し出ているのだし、つまらないと思っていることはないだろうが、どう思っているのか聞いてみたくて、一度、共に街に下りた時に聞いてみたことがある。
「郭淮殿は、自分といて楽しいですか?」
 おそるおそる聞いてみた問いに、郭淮はきょとんとしてわずか首をかしげてみせる。
「えぇ、勿論です。貴方といると、私の知らないことをいくつも学べる」
 即答してくれた郭淮にほっと胸をなでおろすが、この際なのでもう少し踏み込んでみた。
「ですが自分は、あまり面白い話は出来ません」
「それは私とて同じこと――はっ、まさかケ艾殿、私といてもつまらないからと遠まわしに言っているのですか…?!」
「いえいえいえとんでもないです!自分はただ、このようなつまらない人間のどこが、と思っただけで…」
 とんでもない勘違いをされる前にと、ケ艾はいつもよりも早口で言葉を紡ぐ。
「その、自分も郭淮殿といて楽しく思います。郭淮殿はとても博識でいらっしゃいますし、自分などは足元にも及びません。この国の未来を見据えて、前を向いて生きている、この国に欠かせない方で、その、自分にとっても必要な方で――」
(――ん?)
 あれ焦りすぎて何かおかしなことを口走ったかもしれない、とふと口を止めたケ艾に、郭淮がはっとして瞳を揺らす。けれどそれは、ケ艾が思ったような内容ではない。
「前を、向いて…?そう、見えますか?」
「え…あ、はい!」
 何かに反応して郭淮がケ艾のことを見上げてくる。その動作に、どこか弱弱しいものを感じながらも、ケ艾はしっかりと頷いてみせた。
 郭淮は眉根を寄せうつむいて、口元に手を寄せた。彼は考え事をする時、会話中であっても思考し出し、少し困ったような顔になるのだというのもわかってきた。ゆえに、ケ艾は郭淮の言葉を待つことにした。
 やがて顔を上げた郭淮は、緩やかに唇に弧を描き、ふ、と嬉しそうに微笑んだ。
「貴方は――やはり、お優しい方だ」
「!」
 その表情に、どきりとした。
「…以前にもそう、言われましたが…自分には似合わない言葉だと、思います」
 その戸惑いを隠すように視線を郭淮から逸らしながら、前にも思ったことを口に出した。確かに、郭淮に対し親愛の情を抱いている今ならば、なるべくそうあるように務めて郭淮に接しているので、優しいと評してくれるのは嬉しかった。
 だが、前はケ艾の態度が軟化していない時のことだ。そんなケ艾のどこを見て優しいと言ったのだろう、と今更になって疑問に思ったのだ。
 郭淮は、似合わないなどとんでもない、と盛大にケ艾の言葉を否定した。
「ケ艾殿は、私の身体のことを心配してくださった。今だって、私のことを気遣って励ましてくださっている…それを優しいと呼ぶのはおかしいですか?」
「でもそれは、友人であれば当然のことで…」
「前回の時の貴方は、私のことを変わった人間だ、と思っていたはずだ。でも、私の体調を気遣ってくれた。だから、それは貴方の元来持つ心の性質だと思います。私は貴方のそういうところが、とても好ましく思っています」
 目を細めて、郭淮が微笑む。
 言われた意味を理解すると、ケ艾は自分の頬がかぁと赤くなるのがわかった。その上、直前に見た不意打ちのような郭淮の笑みと相まって、心臓がどくどくと音を立てている。
 おそらく正面きって好意を向けられたことが嬉しかったのだ、と思う。そして、真っ向から好意を告げられて気恥ずかしくもあった。その二つの感情が、ケ艾の鼓動を早めている。
 この舞い上がりそうな喜びはとある感情に似ている――漠然と思った。
(いや、そんなことより、こんな気持ちの悪い…!)
 体格のいい男が頬を染めたところなど、一体誰が見たいというのだ。ケ艾は焦り自分の感情を押さえつけようとするが、生憎と気合でどうにかなるようなものではなかった。
 幸いであったのは、郭淮がケ艾から顔をそらして、遠くに見える陽を眺めていたことだ。今のうちにどうにか落ち着かぬものか、と挙動不審になるケ艾には気付かずに、郭淮は感慨深そうに口を開いた。
「夏侯淵殿も…優しい方でした。貴方といい、私は本当に恵まれている…」
(――夏侯淵将軍、も?)
 不思議なことに、郭淮の口から出たその言葉を聞いた途端、ケ艾の心はすっと落ち着きを取り戻した。言葉だけではない、話している最中の郭淮の表情が目の前の光景を映していないような気がして、どこか不安になったのだ。だがそれは気のせいだろうと思うことにした。
 それよりも、郭淮の横顔に目を引かれた。
(この人は本当に…彼の方のことを話す時、澄んだ瞳をしている)
 一切の不純物が混ざらない、美しい瞳だ。本当に、夏侯淵を慕う純粋な思いに心を打たれる。
 きっと郭淮という男は、いつ何時も夏侯淵のことを忘れたことはないのだろう。記憶の中で、いつまでも在りし日の姿で生き続けている。だからこうまで、色褪せぬ思い出への彼の賛美の言葉が美しく感じられるのだ。
(…これほど思われたならば、どれほどの思いであるのか)
 同時にうらやましくもあった。死してなお、目を輝かせてこの人の会話にあがる夏侯淵が。
 郭淮が夏侯淵に見せてきた姿というのは、今のケ艾の前で見せる姿とは違っていたのだろう、と言葉の端々から感じていた。おそらくもっと、感情に忠実に、己をさらけ出していたのではと思っている。やはりどこかケ艾に対しては、自分を押さえているように見受けられる。
 夏侯淵は確かに、ケ艾も尊敬する立派な人物だった。おそらく誰に聞いても、惜しい人物を無くした、という言葉が聞けるだろう。仲間に優しく、敵には厳しく。弓の名手であり、その武功は数限りない。
 自分など到底及ばない相手であると知りながら、しかしケ艾は、いつからか彼と同じ土俵に立てないことを悔しいと思っていた。郭淮が夏侯淵に向けるだけの感情を、自分にも向けてもらえないことがどうしようもなく悔しいと感じることが時折あるのだ。
(どうあっても、郭淮殿の中で夏侯淵将軍と同等の扱いを得るのは無理なのだろう)
 何を今更、と思うようなことだが、ケ艾の中でも気持ちの変化があるのだ。
 自分がもう少し早くに生を受けていれば、郭淮と早くに知り合っていればあるいは――そこまで考えた時、ふとケ艾は自分の感情にはっとした。
(馬鹿な、それではまるで…)
 恐れ多い感情が頭をかすめ、ケ艾はぶるぶると首を振った。
 ちょうどその時、郭淮が食事にしましょうかと近くの店に誘うので、ケ艾はその時は自分の感情について深く考えることをしなかった。深く考えるべきではない、と頭の片隅で響く警鐘の音だけが聞こえていた。






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