+++ ――生きているのは、何故か。 その問いかけに、答えは一つだった。 郭伯済という男は、ひどく利己的な男である。 同時に、自己犠牲を厭わない人間でもあった。 そんな矛盾した性質を拠り所に、全ての言動が徹底されている。 郭淮という人間は、たった一つの目的によって生かされている。それは、ある一人の男のために、自分の全てを――意思も時間も生命でさえも、文字通り全てをなげうつことが生きる意味であり、そしてその存在を形作る全てであった。ゆえに、相反する二つの性質を併せ持っている。 郭淮は、魏のために生きている。この国を、仕えるべき主君達が願った国にするために、粉骨砕身、病身に臆することなく生きている。国のためならば自分を犠牲にしても構わない、と割と本気で考えているのが郭淮という男であった。 けれど、心の奥に秘めた本心は違うことを考えている。 郭淮が生きるのは、魏のためなどではない。国のためかと言われても、やはり違う。 では何故か、と問われれば、郭淮はこう答える。何のためらいもなく、そうと答えるのが当然であるかのように、平然と。 「夏侯淵殿のため」 短く、単純だが、それ以上のことは何も考えてはいない。郭淮の行動の基準は、全て彼の男に合わせられていた。今は亡き彼の人の意思を継ぐため、それこそが自分のためだと生きているのだ。 それがひいては国のためになるので、その生き方を否定する者はいなかった。郭淮がそれと他人に悟らせなかったし、いたとしても、郭淮はそれを許さなかっただろう。自分自身のこの生き方を、誰にも否定などさせるつもりはなかった。 郭淮はそうやって、内に秘めた思いを周囲には気取られぬよう、しかし確実に己の意思に沿うように生きてきた。夏侯淵のために死ぬために、日々を生きてきた。その生き方に後悔はない。むしろ、誇りに思うぐらいであった。 そしてこれからも、ずっと続いていく日常のはずだった。 (――あぁ、だというのに) 今、その生き方が揺らいでいる。 郭淮を夏侯淵から引き剥がそうとする一人の男の出現によって、たった一つ、それだけでよかったはずの目的が、時折霞んでしまう。強いその生の光が、郭淮が生み出し、郭淮を捉える影を消そうとしている。 それを、苦しみ、悲しむなら良かった。悔しく思い、怒りに変えなければならなかった。 だというのに、悲しむどころかどこか嬉しく感じた。怒るどころか、心地よく恋焦がれるような感情を抱いている。それに戸惑わず、享受することを望んでいる。いつからかはわからないが、確実に心のうちに変化が起こっていた。 何故今になって、生きる者の光をこれほど眩しく、尊く、羨むのであろうか。そんな感情など、絶望を味わったあの日にとうに捨ててしまったはずだ。 (私がこれまで築いてきた全てが揺らいでしまうというのに、それでもあの光が――) まばゆく離れがたい、と手を伸ばしかけている。 (――ケ艾、殿) それが、郭淮の世界に入り込んだ光の名だった。 事実、ケ艾は郭淮にとっての希望であった。文官としての過去も、武官としての現在も尊敬しているのは間違いないし、その能力は高く買っている。 だが、それはケ艾だけを特別視しているのではなかった。司馬一族やそれに組する者たち、魏のためにと日々を生きている者は皆、郭淮の希望である。将から一般兵卒に至るまでの全てが、蜀を滅ぼし夏侯淵の仇を討つ、という目的への希望だ。 勿論、利用してやろう、という悪意はない。そういった点で郭淮は善人だ。他人の命ならば、国のために死ねと命ずるのではなく、生きろと命ずる人間であった。 とにかく、ケ艾に興味を持ったのはそういう理由があってのことだ、と郭淮は思っていた。 けれど知識を獲得すべくケ艾と日々を過ごしていたある時、死を目的とした郭淮の影の世界に光が差し込んでいることに気がついた。それは長らく存在意義を失っていたはずの、まっとうな生への希望である。 命を燃やし、望むべく死へと向かう郭淮に対し、ケ艾は一人、孤独の闇の中でも生へと向かい続けていた。その郭淮と正反対の生き方に、郭淮はいつしか自分でも知らぬうちに憧れを抱いていたのだ。 彼と出会った時のことは、よく覚えていない。 郭淮はその平素は穏やかな性質上、周囲のものには慕われている。波風を立てずに生きていられるのは、周囲の生き様にさほど興味がないからだ。それと、敬愛する夏侯淵が、他の皆からも愛されているため、彼を侮辱されるようなことがなく、郭淮が怒ることはないのだ。 そんな郭淮の目に留まったのが、一人黙々と仕事をこなすケ艾であった。軍議の時などに言葉を交わすことはあったが、決してそれ以上踏み込んでこようとしない。周囲に溶け込んでいるように見えて、その実、誰に対しても心を閉ざしているのだ、というのが郭淮の見立てだった。 それでいて、ケ艾はまばゆい生の光を放っていた。その瞳は曇ることなく、魏の未来を見据えていた。まぶしい、と思ったのは、あまりに真っ直ぐな彼への畏怖と、そして羨望だったのかもしれない。 その、郭淮とは反対の道を歩んでいたはずの男が――。 (私のことを、好き…) どく、と心臓が跳ねた。ごほ、と咳が出たのも同時であった。 (夏侯淵殿、私は一体どうしたら…) 郭淮は自室で横たわり、もう何度目か知らないその言葉を問うていた。 しかし、当たり前だが返る答えはない。その場にいない者に問いかけてどうする、と言われるだろうが、わかっていても己の指針を決めるのは彼の人だけであった。それ以外の生き方など知らなかったのだ。 だが、ケ艾はその生き方を考えろ、と言った。郭淮はそのようにとらえている。 (しかし、今更違う生き方をしろなどと…何故急に) 郭淮には、ケ艾の考えていることはわからなかった。あれほど夏侯淵の話をしていたのだから、郭淮がそう生きられないことなど、ケ艾は薄々感づいているものだとばかり思っていた。 それでも考え続けているのは、ケ艾のことは嫌いではないからだ。いや、ここまでの話を総称するならば、好意を抱いているということになる。つまりケ艾が言ったように、言いよどんだり迷ったりしているのは、少しでも彼に情があることの証明なのかもしれない。 「…私は」 だが、それではいけない、そのようなことを考えてはいけないと郭淮を戒める声がある。それは郭淮の意識下に常在する思考であり、郭淮の思考に巣食いほどけることのない夏侯淵に対する思いだ。これが闇となり、ケ艾に対する郭淮の好意を絡め取り、決定的な答えを出すのを妨げている。 今もまた、郭淮が彼のことをどう思っているのか、明確な答えを出そうとする言葉を喉の奥に閉じ込めてしまった。 けれどふと、まるで今突然思い出したように。 「私は、ケ艾殿のことが…」 好き、と声に出してみると、どどどっと心臓が跳ね上がった。急激なその変化に耐えられず、思わず咳き込む。言葉に出せたかと思うと、これである。いっそ咳でさえも、郭淮の本音を隠したがっているようだ。 胸に手をあてたまま、郭淮は首を振った。 「だが、これは夏侯淵殿に抱いていた思いとは違うのです…これはもっと、緩やかで、穏やかな…それでいて戸惑うような…」 だから違うのだ、と郭淮はつぶやく。この感情は、好きとか嫌いとかではないのだ、と。 ただ、もしこの場に誰かがいて郭淮の独白を聞いていたならば、お前は思い違いをしている、と指摘しただろう。 郭淮は、夏侯淵に対して抱いていたあの感情こそを、愛と勘違いしているのだ。しかしそのように激情を募らせるだけが愛ではない。もっと静かなものだって存在している。 確かにあの激しく燃え上がるような怒涛の感情も、一種の愛だ。だがあれはもっと本能的で純粋なものだった。強いものへの憧憬、忠義、思慕。その人柄にほれ込んで、命の限りを尽くすと息巻いたのは、妄信ともいえるものではなかっただろうか。 郭淮は胸に当てた手で、服の襟をぎゅと握り締めた。 (私は、あの方を裏切れない…忘れたくは、ない) 郭淮の脳裏には夏侯淵の影が見える。郭淮が追い続けてきた影が、手招きをしている。そちらへ行けば闇しかない、とわかっていても、郭淮は闇へと飛び込むだろう。その想いを忘れては、自分が自分でなくなってしまうことを恐れていた。 もし夏侯淵のことを忘れたくないのなら、もうケ艾と一緒にいないほうがいいのかもしれない、と漠然と考えている。郭淮が郭淮でいるためには、彼を切り捨てることもまた必要なのかもしれないという思いのせいだ。そうでなければ、夏侯淵を思う郭淮の気持ちがまたケ艾を傷つけてしまう。 だがその考え方について再考しろ、と言われたことを思い出し、結局振り出しに戻ってしまった。 (私は…彼と共にいたいとも、思っている) 彼は優しい男だ。郭淮への思いを秘めていた間、郭淮の語る夏侯淵の話をどんな思いで聞いてくれていたのだろう。そしてまた、彼は郭淮の新しい生き方の示唆もしてくれていた。 (そう、いつもどおり…過去にとらわれるばかりの私を、ケ艾殿は前を向いて生きていると言った…) それは聞き間違いかと思うほど、郭淮にその自覚はなかった。 だが、彼の目にはそう映ったのか。彼といれば、自分はそう生きられるのだろうか。その期待が、どうしても忘れられない。 そうやって生きられればと思ったこともあったが、どうしても無理だったのだ。郭淮を捉えている闇は暗く、深い。どうあがいても抜け出せぬ檻でありながら、安住の居場所でもあった。 ケ艾は郭淮に、考えろと言った。その言葉通り、必死に考えている。けれどどうしても、自分の気持ちがはっきりとわからなかった。考えれば考えるほどに、夏侯淵のことも、ケ艾のことも、どちらも中途半端になってしまう。そしていつしか、足元を覆う闇が身体全体を包み込むのだ。 (私は…どう、すれば) 考えていたら、また頭が重くなってきた。考えなくては、と思うのだが、いつしか思考まで重く鈍くなっていき、やがて意識もふっと途絶えてしまった。 「おい郭淮!こんな時になに寝てんだよ!!」 ががたん、と豪快な音を立てて郭淮の寝込む寝所へと訪れたのは、鎧に身を包み臨戦態勢の夏侯覇であった。あまりに荒々しい登場の仕方に、はっと目を覚ました郭淮は、思わず嫌そうな表情を浮かべる。 「夏侯覇殿…扉は丁寧に開け閉めなさいと、何度も…」 「あぁ、わり…じゃなくて、そんなことはどうだっていいんだって!話聞いてるんだろ?考えすぎるのもいいけど、早く援軍なりなんなりだす準備してくれよ!」 「援軍?」 一体何の話であろう、はて、と首をかしげる郭淮に、だから、と夏侯覇がじれったそうな声を出した。しかしあまりに郭淮の反応が薄いため、ようやく落ち着きを取り戻し、同じように首をかしげてみせた。 「お前…聞かされてないのか?」 「寝込んでからしばらく、何の情報もないが…今寝ていたのも、ほんの僅かの時間のはず」 「っあーもうそういうことか!功を焦って勝手に判断しやがったなあいつら…」 機嫌悪そうに舌打ちをする夏侯覇に嫌な予感がして、郭淮は詳細をせがむ。 「まさか蜀軍でも攻めてきたのですか?」 「あぁそうだよ、今まで大人しくしてたのにさぁ」 蜀、と聞いて郭淮の灯火がごうと燃えた。けれど、病弱な身体がなかなか立ち上がることを許さず、頭の覚醒も鈍らせている。寝起きは悪くないはずなのだが、調子の悪さには敵わないようだった。それでも執拗に、動け、と叱咤するとようやく上半身を寝台から起こすことが出来た。 思い切り息を吸うと、肺から咳がこみ上げてくる。ひとしきりごほごほと咳き込んでから、ようやく夏侯覇に問う。 「…それで、功を焦ったとは?」 「ん、もう大丈夫か?そうそう、それでここのやつらお前とかに相談なく、勝手に兵を動かしてるみたいなんだ。お前にばっか手柄を取られたくないって言うんだろうな」 「…愚かな。それで無駄に兵を死なせては意味がないというのに」 「軍略の書物でも読んで、自分なら出来るって気になっちゃったのかなぁ」 軽く言ってのける夏侯覇だったが、その言葉の端には確かな侮蔑が含まれている。確かに手柄を得たい気持ちはわかるが、明らかな思慮不足であると考えているのだろう。蜀とはそのような考え方で勝てるような相手ではないのだ。 考えていた夏侯覇が、はっと思い出したように目を丸くさせて郭淮に詰め寄った。 「そう!それよりも、例の事件起こして立場が微妙なのを利用されて、ケ艾殿が先陣きって派兵されたんだよ!こりゃ絶対やばいって!」 「――ケ艾、殿が…?」 ケ艾、という単語が出てきた途端、ぼんやりとしていた郭淮の頭が覚醒した。 ケ艾。郭淮にとっての希望であったあの、男。その希望が今、潰えようとしている。そう理解して、さぁっと血の気が引いた。 素早く寝台から飛び起きた郭淮のその表情は、もはやただの病人ではなかった。戦場に臨むべく、策をめぐらし敵を屠る将の顔をしている。 「夏侯覇殿、状況を」 「あぁ!」 いつもの調子が出てきた郭淮に夏侯覇はほっと微笑むと、聞いた限りの情報をざっと郭淮へと伝えるのだった。 (――ケ艾殿、どうか…!) 戦場へ援軍を出す策を与えてから数日後、郭淮は城の回廊を走るように歩いていた。本当は今にでも走り出してしまいそうなほど急いでいたが、郭淮ほどの位の人間があまりに慌てたところを見せると兵達の士気に関わるため、逸る心を抑えて歩いているのだ。 それは、郭淮の差し向けた援軍が到着した頃にはとっくに蜀軍に囲まれてしまっていたケ艾と、援軍に向かった夏侯覇達が、無事蜀を退けて帰ってきたという話を聞いた直後のことである。目指す先はケ艾の屋敷だ。 近頃すっかり見慣れてしまったケ艾の屋敷の門をくぐり、彼の家人達への挨拶もそこそこに、郭淮は飛び込むようにケ艾の部屋の扉を開ける。 「っケ艾殿!!」 中は暗い。ひょっとして睡眠中であっただろうか、と大声を出した後になって慌てた郭淮だったが、ちょうど正面に設えられた寝台の上に横たわるケ艾の姿を見つけて、はっと息を呑んだ。 胸元までかけた布団の端から、白い包帯が巻かれているのが見える。共に帰ってきた夏侯覇から報告は聞いていたが、怪我をしたのだ、と改めて事実を確認した。 怪我の様子はどうなのだろうと険しい表情を浮かべていると、不意にもぞもぞとケ艾の身体が動いた。そして瞳が開かれ、その顔が郭淮のほうへと向けられる。瞳は細く、いかにも今起きたといったようだった。やはり私が起こしてしまっただろうか、と郭淮は申し訳なく思いながらも、ちゃんと生きて動いているのだとわかって嬉しくもあった。 視線が合ったので、郭淮は手を合わせ頭を下げて見せた。 「ケ艾殿…よくぞ、ご無事で…」 「郭淮殿…」 郭淮の姿を見つけたケ艾が、ふ、と薄く笑った。 「貴方の…迅速な判断のおかげで、助かりました…援軍、感謝いたします」 ケ艾の声に、いつものような力強さはない。矢を射られたのだ、当然だろう。 援軍に向かった夏侯覇の話によれば、ケ艾たちの軍は山間にて後方から蜀軍に追撃されている状況であったらしい。ケ艾の土地勘を生かし、上手く山間に誘い込んだおかげで四面の包囲は避けられたのだが、いかんせん兵力が違いすぎていた。 その状況においてケ艾は撤退のため殿を務め、襲いくる蜀軍を幾度となく退けていた。しかし夏侯覇の援軍が見えたところで敵も焦りが生じたのか、突撃を仕掛け大量の弓矢を投じてきたため、ケ艾は背にいくつか矢傷を負ったのだった。 帰還後、処置は済ませ容態は安定しているが、まだ痛みと熱とに苦しんでいるようだった。それを見て、郭淮は不甲斐なさそうに深く項垂れた。 「ケ艾殿――私はまた、この病身のせいで…!」 貴方に怪我を負わせてしまった、と戦慄く。 郭淮の体調さえよければ、蜀侵攻の情報はすぐ耳に入り、共に戦うことも出来たし、もっと有用な策を講じることも出来ただろう。そもそも郭淮のことがなければ、ケ艾の立場が悪くなることもなく、前線に送られることもなかったかもしれないのだ。そう思うと、郭淮はこの病身に憎悪すら抱いてしまいそうだった。 後悔に郭淮が言葉を詰まらせていると、ケ艾は微かに首を横に振った。 「いいえ…貴方のせいではない。ただ、自分が未熟だった…だけのことです」 「ですが…」 さらに否定の言葉を続けようとしたが、郭淮は言葉を切った。ここで言葉の応酬をして、今この状況のケ艾に負担になるようなことはやめるべきだと判断したのだ。ここへきたのは、ケ艾の安否を自分の目で確かめたかったからだ。それは、もう達成された。 ごほ、と咳き込んで、郭淮は気持ちを静めた。 「…とにかく、無事で…良かった。どうか養生してください…私はこれにて、失礼させて――」 「郭淮殿」 部屋を去ろうとした郭淮を引き止めたのは、郭淮のことを見つめたままだったケ艾の声だ。はい、と振り返ると、少し虚ろなケ艾の瞳と視線が合う。 「…ケ艾殿?」 「もし…ここで、このまま」 言いづらそうに、ケ艾の視線が郭淮から逸らされた。発するのを躊躇うように口の中で言葉を転がしている。相手の心情を読むことには長けている郭淮であったが、ケ艾の無表情ともいえる冷静な表情からは、彼が何を言おうとしているのか予測が出来なかった。 やがて意を決したように再びケ艾の瞳が郭淮を見据える。 「このまま…矢傷が原因で自分が死んだとしたら…自分も夏侯淵将軍のように、貴方の記憶の中に残ることができるのですか…」 「!!!」 予想だにしていなかったその独白のような言葉に、郭淮は目を見張った。 そして、彼がどんな思いで郭淮が話す夏侯淵のことを聞いていたのかを、ようやく推し量ることが出来た。郭淮が夏侯淵を想うように、ケ艾もまた郭淮に想われたいと言っているのだ。 郭淮の話をいつも穏やかに聞いていたケ艾だからこそ、郭淮がどれほどの想いを夏侯淵に向けているのか知っているはずだ。それほどまでに、彼の想いは深いということだった。 (っ…あぁ、だがそのような考えは、貴方には似合わない) 誠に勝手ではあるが、郭淮はケ艾に前向きで明るい思考でいてほしかった。それが郭淮の憧れたケ艾の姿であったからだ。 だが、このような考えを抱かせるほどに彼を追い詰めたのは郭淮だ。夏侯淵の影を振り切れぬ郭淮に焦れて、そんなことをふと考え付いてしまったのだろう。 (ケ艾殿は本当に、こんな私のことを…) 惑う郭淮の沈黙をどうとらえたか、ケ艾は悲しそうに笑った。 「もしそう…ならば、自分は、ここで死んだとしても…」 「ッやめてください!」 郭淮の悲痛な声が、ケ艾の言葉を遮る。瞠目したケ艾に対し、郭淮は苦しげに目を細めていた。 「死なないでください…お願いです、これ以上私から大切なものを奪わないでほしい…!」 「郭淮、どの」 うつむいて、肩を震わせる郭淮にはケ艾の表情は見えていない。だが、驚いているかのような息遣いは聞こえた。 「自分は…貴方の大切なものに、含まれていますか…?」 「当然です!ケ艾殿、ですから…私を置いていかないで、ください」 こぼした弱音は、無意識だった。それこそが本音なのだ、郭淮は悟った。 こんなにもケ艾のことを大切に思っている。もう絶対になくしたくないと思うものに、ケ艾も含まれてしまっている。郭淮はもともと、物への執着心は薄い方だった。あるものを、ただあるように受け止める。そうして、己の病身や、生の長さを受け入れてきた。郭淮が執着してきたのは数えるほどだ。夏侯淵、その子である夏侯覇。その中に、いつの間にかケ艾の名があった。 「それが、貴方の答えであれば…良い、のに」 「答え…?」 「自分が貴方に考えてくださいと言った…答えです」 はっとして、郭淮は顔をあげた。ケ艾の瞳が、期待と落胆を秘めてこちらを見ている。 ケ艾のことを傷つけたくないのなら、彼から離れなければ、と思った。しかし今の感情を見るに、もう手遅れなのかもしれない。離れようにも離れがたいほどに、郭淮はケ艾を大切に思っている。 それと同じ重さで夏侯淵への想いが天秤に載せられている。どちらに傾くことなく、どちらを重くすることも出来ずに、均衡を保っていた。 やはりまだ答えは出せない。沈黙に耐えかねて、郭淮は話を先延ばしにしようと考えた。 「ケ艾殿、その件ですが…、…ケ艾殿?」 呼びかけても答えず、動かないケ艾を不思議に思って郭淮が近寄ってみると、ケ艾の瞳は閉じられてしまっていた。眠ってしまったようだった。 静かになった室内で、郭淮は眠るケ艾を見ながらぼんやりと立ち尽くしている。 ふと視線を動かした先の机の上に、何枚もの書簡が広げられているのが見えた。地図だ、と遠目にもすぐにわかったのは、それが郭淮がケ艾と一緒に出かけて、測量したものだったからだ。 ゆっくりと近づき、机の前に座り込む。 思い出すのは、二人で過ごした日々のことだ。部屋にこもるばかりだった郭淮が、あれほど熱心に出かけられたのは、ケ艾の存在が大きいように思う。ケ艾と出かける、と考えると、不思議と身体の調子もよくなったのだ。病は気からということなのかもしれない。 いつかケ艾が言っていた。郭淮が地図を楽しみにしてくれていると聞いて、とても嬉しかったのだと。普段の無表情に近い顔が崩れ、幸せそうに笑うものだから、郭淮もまた嬉しくなったことを覚えている。生きていることをあれほど前向きに捉えられたのはいつ以来だったのだろう。 「私は貴方といれば、そう生きられますか…?」 その問いかけには、郭淮の願望が込められていた。 この離れがたい想いを愛情というなら――。 その時、ぐ、と足元が沈み込むような感覚に襲われた。 嫌な予感がして下を見れば、じわじわと影のようなものが広がり、どこへ行くのだ、と郭淮の心身を引き込もうとしている。 (あぁ、まただ) この影に引きずりこまれると、思考が停止してしまう。夏侯淵を思う郭淮の気持ちが、影となって奥へ奥へといざなうのだ。この影がある限り、郭淮は一生闇の外へは抜け出せないだろう。 いつもなら、それでいいか、と諦めて生きてきた。抗う理由を思いつかなかったからだ。 だが、今は強い思いで諦めたくない、と思っている。 諦めたくない。今回ばかりは、諦めたくないのだ。 (この闇から…逃れたい) しかし、その明らかな願望も、足元からせり上がってくる影に飲まれると同時に、段々と薄れていった。 <<6 8>> |