「郭淮…お前また寝込んでんのかよ…」
 寝台の上でごほごほと咳き込む郭淮にそう呆れ声をかけることが出来るのは、夏侯覇以外いない。そもそも夏侯覇以外であれば、伏せる郭淮の元へと好んでやってくる者もいなかった。
 ちら、と視線を上げた郭淮は、ふうと息を吐いてまた目を瞑った。
「執務は滞りなくやっているので、問題は…ない」
「そうなんだけどさ。今度は何考えこんでるんだよ、ケ艾殿のこと?」
 何気なく言った夏侯覇の言葉に、郭淮はごっほごほとむせ込んだ。あぁ図星ね、と言われてしまう付き合いの長さが、今は厄介だった。
 だが、確かに夏侯覇が呆れる理由もわかる。今回ばかりは、寝込む日数が長いのだ。複雑な物事を複雑に考えて調子を悪くすることはあるが、それらはせいぜい一日で答えを出してきた。今回はもう数日、一つのことについて考え続けている。
 まぁいいけどさぁ、と言いながら、夏侯覇は勝手に寝台に背を預け座り込んだ。
「内容まで当ててやろうか。ケ艾殿が怪我したの、お前のせいだと思ってる?」
「…半分程度は」
「そんなことないのになー、って、言ってやりたいけど、今回のことに関しては案外そうかもしれないとか俺も思ってるんだよね」
 内容は郭淮の責任を肯定しているようだったが、その表情は笑みを浮かべていた。郭淮が目を開けると、ちょうど寝台にもたれかかった夏侯覇の頭が見える。
「ごほっ…夏侯覇殿からすると、どのあたりが私の責任に思えますか」
「そうだな、大変な時に寝込んでたのはお前のせいかな。だってケ艾殿がお前に言ったことって、そんなに難しいことじゃないだろ。それを難しく考え込んだせいで体調崩したっていうなら頭いいのも考え物だなーって。何をそんなに考えることがあるんだよ」
 あ、父さん以外の世界のことも考えてみろって話ね、と夏侯覇が付け足すので、どうやらケ艾からその旨の話を聞いているのだと理解する。
 好きか嫌いか、という感情を抜きにすれば、確かに理屈では難しい話題ではないとわかっている。世界は広い。人も大勢いる。その中で、人と交われば己の世界は広がり、もっと違った生き方が出来るはずだ。
 だが、そこに思慕の情が絡んでくるならば、郭淮にとっては己の根本を揺るがしかねない問題であるのだ。他人を想うがゆえに、郭淮の世界から夏侯淵という存在が抜ければ、後に何が残るかわかったものではない。そう易々と答えを出すことなど出来なかった。
 黙りこんでいると、うーん、と夏侯覇は首をひねる。
「なあ郭淮、お前さぁ…自分で言うのはなんだけど、俺のことはそれなりに気をかけてくれてるだろ」
「えぇ、夏侯淵殿のご子息ですから」
「じゃあ実は、俺が父さんの息子じゃなかったって今わかったら、俺のことどうでもよくなるのか?」
「…私のことをそんなに薄情な人間だと思っているのですか」
 そんなふうに感情を切ったり貼ったり出来るほど器用ではない。それにたとえどんな事実を告げられようと、これまで築き上げてきた夏侯覇との関係が今更変わることなどないだろう。確かにきっかけは夏侯淵の息子だから、というものであるし、今でもそれは最重要事項ではあったが、もはや必須事項ではなくなってきている。
「…そういうことだと思うんだけどなぁ。お前って賢いのになんでこう…」
「何を言いたいのですか?」
「何って…もうちょっと自分で考えろ!」
 急に怒り出した夏侯覇に、郭淮は首をかしげる。考えてもわからないから考えているのに、自分で考えろとは少し難易度が高すぎはしないだろうか。
 困っていると、はぁ、と大きなため息が聞こえた。
「…俺がいると考えが進まないっていうなら、帰るよ」
「そんなことは言ってませんが…」
「いいよ、帰る。でも、ちゃんとケ艾殿のこと考えてやれよ。お前のこと、心配してたみたいだからさ」
 言うだけ言って風のように去っていく夏侯覇に、一体何をしにきたのだと呆れつつ、郭淮はため息をつく。おそらく彼なりには郭淮のことを心配してれているのだろうとわかっているがゆえに邪険に扱うこともないが、答えを急かされても難しい問題ではある。
「私とて…早く結論付けてしまいたい、けれど」
 相変わらずどちらにも振れぬ天秤が、決断を鈍らせていた。



 ケ艾が郭淮の屋敷へと訪れたのは、その日の夕刻であった。
 まず驚くべきは、ケ艾の回復力の速さである。包帯を巻きつけているものの、すでに足取りはしっかりとしており、とても怪我を負っているようには見えない。ごほごほ咳き込みながら歩く郭淮よりも健康であるように見える。
 そして次に驚いたのが、そんな彼が郭淮の屋敷へ何故きたのか、ということだった。今の展開を想像もしていなかった郭淮は、彼の訪れに非常に焦っていた。
「と、ケ艾殿…もうお身体は…ではなくて、なぜここへ…?」
「夏侯覇殿が、郭淮殿が呼んでいると言っておりましたので…あ、傷のほうは特に、問題なく、少々痛む程度です。ご心配おかけいたしました」
 夏侯覇、と聞いた時、郭淮はしてやられた、と思った。当然のことながら、郭淮はケ艾のことなど呼んでいない。考えがまとまっていないのに、どうして呼んだりするだろうか。
 つまり、煮え切らない郭淮に焦れた夏侯覇が、荒療治だとばかりにケ艾を郭淮の元へと寄こしたのだ。まったく余計なことをしてくれたものである。いや、余計であるとわかっていての行動だとしたら、ひょっとすると嫌がらせなのかもしれない。
「…郭淮殿?」
「は、はい、すみません、どうぞこちらへ…」
 しかし、郭淮に呼ばれたからとここまでやってきたケ艾の気持ちを思うと無下に追い返すこともできず、郭淮は混乱状態を引きずったままケ艾を招き入れた。ただ、その後どうするかなどまったく考えていない。とりあえずこの場をしのぐことしか頭になかった。
 部屋へと通したケ艾に床に座ってもらい、自分もその正面へと座った。殺し合いでも始めるのでは、というぐらいの緊張感が両者の間に漂っている。
(…何から、話せば…)
 どくどくと心音を鳴らして考えてみたが、何から話すもなにもまだ結論は出ていない。しかし、おそらくケ艾は、郭淮が例の話をしようとしているのだ、と思っているのだろう。そうでなければ静かに郭淮の言葉を待っていないだろうし、お互いがこれほど緊張していないはずだった。
 どうしたものか、と手に汗を握りながら考えていると、先に言葉を発したのはケ艾だった。
「この間は」
「はいっ!?」
「…見舞いに来ていただいて、ありがとうございました」
「あぁ、そのことで…えぇとあの節はどうも…」
「とは言うものの、すみません。実はあの時、少し朦朧としていてあまり記憶がないのです。何か失礼な振る舞いをしてはいなかったでしょうか」
「そうだったのですか…いえ、特には何も」
「郭淮殿が来てくださった、ということは覚えているのですが…」
 申し訳なさそうに頭を下げるケ艾に、いえいえそんなこちらこそお休みのところ大変失礼いたしました、と郭淮も慌てて頭を下げた。頭を下げながら、では郭淮が言った言葉も、ケ艾が発した覚えていないのだろうか、と考える。
「なので、違っていたら非常に申し訳ないのですが」
「…なんでしょうか」
「郭淮殿が、自分のことを大切に思ってくれている、というような発言も、自分の願望が見せた夢であったのでしょうか」
「っ、ごほごほごほっ!!」
 大事な部分をしっかり覚えているではないか、と叫びそうになったのを、郭淮はぐっと堪えた。しかしそのせいで息が詰まってしまい、肺から咳がこぼれる。ごほごほ、と咳いていると、すみませんおかしなことを聞いてしまいました、とケ艾が焦って非礼を詫びた。
「申し訳ない、そのように自分に都合のいい夢を見てしまって…」
「、いえ」
 郭淮は片手を上げてケ艾を制した。そして、落ち着いたところで口を開く。
「夢…ではありません。私は確かに、貴方にそう言いましたので」
「!」
 自分で言ったこととはいえ、信じられないといったように瞠目するケ艾に、郭淮はしっかりと頷いてみせた。このまま、あの郭淮の言葉を夢にされてしまうのもよろしくない、と考えたのだ。あれはまごうことなく郭淮の本音であったはずなのだから。
 ケ艾が話の突破口を開いてくれたおかげで、郭淮は話題のきっかけを掴むことが出来そうだった。一度深呼吸してから、己の中の取り留めのない感情を一つずつ言葉に乗せていく。
「ケ艾殿…私は貴方に言われたことをずっと考えていました…」
 ぴく、とケ艾の耳が動いたのが見えた。自分ばかりでなく彼も同じように緊張しているのだ、と思ったら、少しだけ気が楽になり、己の思いを素直に告げてみることにした。これ以上頭の中だけで考えても埒が明かないと思ったのだ。
「言われたことは、全く私には想定外のことで…まだ、答えが出ていません」
「それでも、考えてくださっているのですね」
「はい…」
 考えて、考えて考えて、あの日からケ艾の言葉を思い出さない日はないというほどに考えても、なおどうしたらいいのかわからなかった。
「貴方の…思いは嬉しいし、貴方と過ごした日々の中で、私も貴方に友人以上の想いを…抱いていた、ように思います」
「それは…では、」
 ケ艾の顔が僅か期待に輝いた。確かに今の郭淮の言葉だけを聞けば、多少言葉尻を曖昧に誤魔化しているが、好意を持っているようにしか聞こえない。実際、郭淮も言葉を並べながら、もうそれが答えでいいのではないか、とも思ったりした。何故これが答えではいけないのだ、と自問さえしようとしている。
 しかしその途端、ぐ、と身体が重くなり、がくんと頭が振れた。
「!」
 何事かと考える間もなく、さぁっと血が引き、足先が冷たくなり、指からも力が抜けていく。全ての自由が利かなくなる感覚に、あぁそうだった、と先ほどの問いへの答えを思い出す。
(やはり…逃してはくれないのか)
 郭淮は息を止めて忌々しく思う。視線を床へと落とすと、いつもと同じように黒い影がうごめいているのが見えた。これが、郭淮の言葉を拒絶する全ての元凶だ。それが答えでいいはずがない、と郭淮の心を蝕み、闇の中へと引きずり込んでいこうとしているのだ。
(あぁ――夏侯淵、殿)
 こうなると、もはや郭淮に真っ当な思考をすることは出来ない。郭淮の本心は影に捕らわれ、ただ一つのことしか考えられなくなってしまう。ゆえに、期待を秘めた瞳で郭淮のことを見つめてくるケ艾に対しても、まるで用意されていたかのような答えを告げるだけだった。
「…ですが申し訳ありません。私はやはり、夏侯淵殿のことを忘れられません…」
 あとはもう、以前に考えていたことと同じだ。どれだけ時が経とうとも、夏侯淵のことを忘れることだけは絶対にないだろう。何度考えても、結論はそこへ至ってしまう。そこへ至るようにしか、思考を構築することが出来なかった。
「あの方は私の…全て、です」
 明らかな他人への好意を告げる郭淮の言葉に、ケ艾は傷ついた顔をした。それだけで、心が揺らいでしまいそうなほどに、ケ艾のことを大切に思う気持ちがあるのは確かだ。けれど、それを押し留めるかのように闇がうごめき、言葉を詰まらせる。
 それに呼応するかのように、切り捨ててしまえ、と影がが囁くまま、郭淮は言葉を続けた。
「夏侯淵殿のことを忘れてしまえば、私は私ではなくなってしまう。だから、」
 だからケ艾殿と一緒にはいられない、と首を振った。考えている最中ではあったが、まるでその言葉が結論であるかのように、断定的な物言いだった。
 ケ艾は郭淮の言葉を、一字一句聞き漏らさぬようにと真剣に聞いている。その表情は険しい。ただ、郭淮から思うような答えが聞けずに落ち込んでいるわけではなく、どちらかといえば痛みを堪えているかのようにも見える。
 それから目を背けてしまったのは、いたたまれなくなったからだ。一体何を考えているのかはわからないが、ケ艾の郭淮を見る表情には、その痛みを共有させるかのような深刻さがあった。また、郭淮の中の闇を見透かされているような気がして、恐ろしくもあった。
 目を逸らしたままケ艾の反応を待つ。どれぐらいそうして沈黙を保っていただろうか、時間にしてはほんの僅かだったかもしれない。
 やがて彼は、一つ長い息をはいた。
「…わかりました」
「ッ!!」
 心の中の葛藤を全て飲み込み、諦めたように心を閉ざしていくケ艾のその反応を見た時、郭淮は己の心に痛みが走ったことに気がついた。思わず、ぎゅう、と胸に当てた手を握り締める。
 自分でそう言わせておいて傷つくなど、なんと傲慢で身勝手なことだろう。それらは全て郭淮の行動の結果なのだから、今更心を揺らしていいことではなかった。
 だが――痛い。これは、夏侯淵を失った時以来の激しい痛みだ。忘れかけていた痛み、だ。
 麻痺していたはずのその感覚が、今鮮明に蘇り郭淮の心を締め付けている。
(ケ艾殿に、こんな顔をさせてしまうなんて…!)
 呆れられ、嫌われてしまっただろうか、と思うと更に痛みは増した。そして、このままケ艾が郭淮から離れていく姿を想像して、ふるりと身体を震わせた。それは確かな恐怖だった。
(…私はまた、置いていかれて一人に…なるの、か)
 そう思った瞬間、ぞっとして血の気が引いた。それは嫌だ、とはっきりと思った。夏侯淵のことを忘れたいわけではない、けれど一度与えられた光を奪われ、このまま一人にされるのはもっと耐え難いことのように思えたのだ。
 おかしな気をおこすな、と警告してくる己の中の影に、静かにしろとわめきたてた。だが、それで治まるのならば苦労はしない。むしろ今までよりも強く語りかけてくる声を振りきり、闇に包まれまどろんでいた願望をたたき起こし、郭淮は必死で思考を取り戻す。
(…考えなければ…戒めようとする声があるなら、それよりももっと大きな声で…!)
 とにかく、どうにかしてこの足元の闇から逃れる方法を見つけ出さなくてはならない。だがおそらく一人では無理だ。今まで幾度か試みたことがあったが無理だったのだから、意を決したところで一人でこの底なし沼から抜け出すのは不可能だろう。
 ならば――この手を伸ばしても、許されるだろうか。
「ケ艾、殿」
 先ほどまでとは違い、震える声で呼びかける。ふ、と髪が揺れ、視線が上げられる。
「でも私は、」
 それだけ言葉にしただけなのに、心のうちに住まう影がこの先告げることを予測し、ぶわ、と再び広がった。それ以上の言葉をつむがせるものかと、奥へ奥へと引きずり込もうとするその影は、郭淮の身体全体を飲み込もうとしていた。
 その抗いがたい衝動を必死で振り切って、郭淮は動かぬ身体の代わりに、ケ艾へと心の中で手を伸ばす。
「私は、貴方と共に…生きたいとも思っているのです…私は、どうしたら…!」
 ――忘れたくない、共に生きたい。忘れてしまう、共にはいられない。
 互いに反対へと作用する感情を、どう処理すればいいのかわからなかった。
 だから、どうかその問いに答えを与えて欲しい。そして、この手を引き上げてほしい。闇に沈んだ身体を、心を、ケ艾の手で日のあたる場所へと連れ出して欲しい。他人任せでなどなんと弱い人間であろうか、と己の非力さを恨むが、もうなりふり構ってなどいられない状況なのだ。
(伝わる、だろうか…)
 郭淮はこれほどに、ケ艾に惹かれている。ケ艾の生き方に追従するように、光当たる世界で生きたいと願っている。過去に捕らわれ未来へ進むことを諦める己を叱咤し、生きたいのだ。
「だからっ…ごほごほっ…ぐ、っう…!!」
 搾り出そうとした声は、突如訪れた咳によって遮られてしまう。あるいは、この咳でさえも闇と連動し、郭淮を縛る鎖であったのかもしれない。
 伝えることを諦めては、ケ艾はもう去っていってしまうかもしれない。だが伝えなければ、と思うほどに肺と喉が鈍い唸り声を上げる。おかげで上手く喋れたものではなかった。
 仕方なく、この状況をケ艾はどう思っているのだろうか、と視線だけを上げてみると、こちらを見ていたケ艾と目が合った。先ほどまでの諦めの表情を消し、彼は郭淮のことをどこか驚いたように見つめている。
「ごほ、ごほっ…ケ艾どの、」
「郭淮殿、貴方は――」
 視線が合ったことに気がついたケ艾は、何か言おうとして、しかし後に続く言葉を飲み込んだ。そしてゆっくりと頭を下げ、もう一度、長い息を吐いた。
 それがため息なのか、深い深呼吸なのかわからず、みっともなく縋ろうとする姿にいい加減厭きられたのだろうか、あるいは咳き込むばかりで話が理解出来ないと嘆いているのだろうか、と郭淮はその反応に恐怖する。
(…今更、足掻いたところでもう無理なのだろうか…)
 諦めかけたその時、ケ艾の顔がばっと上げられる。その顔に浮かべた表情に、郭淮は意表を突かれて固まった。
 ケ艾は、穏やかな笑みを浮かべていた。
 それは郭淮の咳も思わず止まってしまうほどに想定外の表情だった。
「ケ、が」
「郭淮殿…申し訳ありません、でした」
 戸惑う郭淮をよそに、ケ艾は一度、深々と頭を下げた。そして瞠目する郭淮が疑問の声をあげる前に素早く顔を上げると、今度は真面目な表情で郭淮のことをじっと見つめた。今度は笑っていなかったが、それでも先ほどまでの負の感情をまとった表情ではなかった。もっと、何かが吹っ切れたような晴れ晴れとした様子さえ窺える。
「自分は今――諦めようとしてしまった。貴方がまだ答えを出せないと言っていたのに、自分では貴方の中の影を消すことなどきっと無理なのだろうと…勝手に判断して、自己完結させようとしてしまった」
「影…」
 いわれて、どきりとする。ケ艾が影という言葉をどのような意味で使用したのか定かではないが、まさか、と期待した。
 ――本当に、伝わったのか。
「しかもそれは、貴方の一挙一動に異常なまでに反応し、期待している自分が…愚かしく見えたからという理由からです。これ以上縋ってはならないと、先に逃げてしまった。先に逃げることで、貴方を置き去りにして、しまった」
「ケ艾殿――」
「しかし、もし自分が思い違いをしていないのであれば…」
 ケ艾の表情に、再び燃え上がるような生気が宿る。
 そして彼は、郭淮の腕を掴むと一気に自分の方へと引き寄せた。
「!!???!」
 突然のことに目を白黒させていると、そのままケ艾の腕の中に抱き込まれる。非常に速い速度での出来事だったように思うが、まったく痛みはなかった。頬にケ艾の胸の部分があたり、少し、薬のにおいがした。あぁ彼は怪我人だった、と思う。
「あ、あの…と、ケ艾殿…!!」
「心音が、聞こえますか」
 慌てる郭淮とは正反対の落ち着いた声でそう言われて、急に何をどうしたのだ、と郭淮の心はより一層焦りを増した。だがとりあえずざわつく心を押さえつけるよう努力しながら、素直にケ艾の胸に耳を当てる。
「…聞こえ、ます」
「相当早いかと思いますが」
 確かに断続的に聞こえる音は、想像以上に早い。ただ、ひょっとするとこれは自分の心臓の音では、と思うほどに郭淮の動悸も早く、相手のものか自分のものか判断に困っていた。
 今すぐ腕を振りほどき離れろ、と己の中で囁く声がある。郭淮が身を寄せ、全てを捧げる相手はただ一人だ、と喚き立てる声は、確かに己のものと同じだった。
 それに耳を傾けるのが嫌で、郭淮はとにかくケ艾の心音だけを集中して拾う。その姿に安堵したように、静かなケ艾の声が郭淮の耳に届いた。
「郭淮殿、自分は今――嬉しいのです」
 唐突に告げられたその言葉の意味は、郭淮にはわからなかった。
「…なぜ、ですか」
「郭淮殿の中で、自分が夏侯淵殿と同等の扱いをしてもらえているのだとわかって…すみません、貴方が悩んでいるとわかっているのに、本当に嬉しくて」
「同等、の…?」
 ケ艾の言葉の意味はまだわからなかった。しかし自分の言葉や行動を振り返ってみて、少し気にかかる点があり、郭淮は言葉を止めた。
 夏侯淵と同等の扱い、とケ艾は言った。確かに、郭淮の中で夏侯淵への思いと、ケ艾への思いが拮抗しているからこそ、こうして今悩んでいる。だがそれは、郭淮にとって異例の事態であったのだと気がつき、ケ艾の腕の中ではっと身体を揺らした。
 思えば、今まで何があろうと振れることのなかった夏侯淵を乗せた天秤が、ケ艾一人の存在で釣り合ってしまっているのが現在の状態だ。つまりケ艾という男は、郭淮の中で夏侯淵と同等の重量を持っていることになる。郭淮にとっては何よりも大切だと思っていた事柄と並ぶ、というのは並大抵のことではない。むしろ、これまで重ねてきた年月の重みが夏侯淵の方に積み重なっているのだとしたら、個人単体としてはケ艾の方が重いのではないだろうか。
 そう考えた時初めて、天秤が揺らいだ。それはわずかに、ケ艾のほうへと。
 同時に、そ、と肩を押されて、二人の距離が離れる。見上げたケ艾は淡く頬を染め、満面の笑みを浮かべていた。郭淮は思わず泣きたくなるような感情に飲まれる。
(なんと…嬉しそうに笑うのか。私はまだ、自分の口から貴方に思いを告げたわけでもないのに…なのに貴方は、本当にまぶしい、)
 だがその眩しさに、どうしようもなく恋焦がれている自分を自覚した。
 この方が好きだ、と改めてそう思った。
 この笑みが好きだ。郭淮を慈しみ、確かな愛情を向けてくれる彼が好きだ。郭淮に、別の生き方を提示してくれたこの男が――。
「…?」
 その時、心の内で何かが光った。
 最初は一つ、小さな光が心の中ではじけただけだった。しかしそれと理解するが早いか、今度はちかちかと幾つもの淡い光が生まれ、瞬き、確実に周囲を照らし始めている。
 自分の中の異変に、郭淮はケ艾を見つめたまま戸惑っていた。
(――これは)
 世界に光が満ちていく。夏侯淵という光を失ったあの日から、彼の影を追い続けるうち闇の中へと沈み込んでいた郭淮の世界に、まばゆい光が満ちていく。
 それは、ケ艾の放つ郭淮を照らし導く光だ。死者である夏侯淵には絶対に生み出すことの出来ない、命の光だ。郭淮がずっとケ艾に焦がれていた理由そのものだった。それが、郭淮の纏う闇をゆっくりと侵食している。
 薄くなった闇の中、求めていた光を得た郭淮は、ついに燻っていた疑問を言葉に乗せた。
「ケ艾殿――私は…貴方と生きて、あの方のことを忘れてもいいのでしょうか…?」
 そんなことを他人に聞いても、答えは返らないだろうということはわかっていた。しかし、ケ艾ならばその答えを知っているかもしれない、と思った。郭淮の闇を照らし始めているこの男なら――。
 しかし返って来た答えは、郭淮が期待したものとは違っていた。
「…いいえ、おそらく完全に忘れることは出来ないでしょう」
「…え?」
 ケ艾からは肯定の返事が返ってくると思っていただけに、郭淮は間の抜けた声を上げてしまった。そこは、夏侯淵のことを忘れて自分だけのことを思ってください、と言うべきところではないのだろうか。しかしケ艾の自信は揺らがない。
「生きている限り、影が消えることはありません。貴方ほど思いが強ければ尚更に」
「…それは」
 言われて、確かにそうなのかもしれない、と郭淮は考えた。郭淮が郭淮である限り、夏侯淵という存在が消えることはない。むしろ、彼の存在によって形を成してきた郭淮にとっては、もはや分離することの出来ない思いであった。
 だからといって、出来ないままではそれはそれで苦しいのだ。
「では、私はこの闇から一生逃れることなど――」
「郭淮殿、影は追うものでなく己の後ろへとついてくるものです。だから、消そうと思って消えるものではないし、逃れるようなものでもない」
「消えな、い」
 今の気持ちのままならば、そこは愕然とするところであった。
 しかし、なぜかその言葉に安堵した。
(――ならば)
 思い出の中でしか生きられぬあの人の事は、意識して考え続けなければ忘れてしまうと思っていた。忘れれば、己の存在意義を失ってしまう、だから忘れてはいけないと意識下に強く働きかけてきた。そう、それはまさに闇の中に閉じ込めるように。
 しかし、どうしても忘れることなど出来ないのならば、郭淮が他の誰かに意識を向けたところでその存在が消えてしまうわけではないのだ。
「では…私は」
 一体何を恐れることがあったのか――また一つ、闇が剥がれ落ちる。
「もし郭淮殿が自分と生きてくれると言うのならば…影を消せなくてもいい、ただ貴方が闇に包まれぬよう、その世界を照らす光でありたい」
 ――光。
 ならばもう、望みは達成されているではないか、と郭淮は思った。
 先ほどから真っ直ぐに郭淮を見つめ、前に進んで生きようとするケ艾の放つ光は、郭淮の頑なだった心を照らし続けている。
 そしてその光を必要としている自分がいる。
(それ以上の理由が必要なのか)
 大体、ケ艾の想いにこたえることで忘れてしまうかもしれない、と言っている時点で、それは郭淮が夏侯淵よりもケ艾へと心を傾かせてしまうから――つまり、ケ艾への想いを自覚しているからに他ならない。
 その感情は、いつもならば闇に囚われ意識の上に長くとどまることのないものだった。だが今は違う。目の前に、これほどまばゆい光がある。郭淮の内から湧く影が、今はその光に照らされ身を潜めていた。
「ケ艾殿、私は…こんな私でも、いいというのですか…」
 再度確認してしまったのは、郭淮の中の闇が消えたわけではないからだ。だからきっと、郭淮はまた夏侯淵とケ艾を天秤にかけるだろうし、夏侯淵のためだけに生きてきた過去を急に吹っ切ることもできないだろう。その思いは決してケ艾を愉快にはさせないはずだ。
 だが、ケ艾はそんな郭淮の思いを理解しながら、笑うのだ。
「はい。自分には貴方が必要なのです。そして叶うことならば、貴方に必要とされたい」
 揺るがぬ答えに、郭淮の心は震えた。これほど真っ直ぐな思いで必要とされて、嬉しかった。ケ艾に求められるたび、世界に光が射し郭淮の心を捕らえていた闇が揺らぐ。そして郭淮に希望をもたらすのだ。
 ケ艾といれば、郭淮はもう己の内に渦巻く闇に囚われることはないだろう。囚われたとしても、きっと彼の手を取ればそこから救い出してくれると確信している。しかしだからといって、郭淮を支え形成してきた大事な影を消されることも、忘れることもない。ケ艾という光によって、影は常に郭淮の後ろへ寄り添うように存在するのだ。
(ならば、私は)
 今ならば、過去に引きずられることなく、己の中の闇に囚われることなく、自分の気持ちが伝えられる気がした。今ここに生きる、郭伯済という男が思う素直な気持ちを――。
「ケ艾殿」
「はい」
 真っ直ぐ見据えてくる瞳を、郭淮も真正面から見つめた。
「私は、貴方の事が――」






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