「好きだ、と言ってくださるものかと思っていたら、とても眩しいです、と言われるとは思いませんでした」
 ケ艾が個人的に所有する竹簡を、窓の淵に腰掛けながら眺める郭淮のほうを見ることなく、ケ艾は紙に筆を走らせながらぽつりとつぶやいた。同時に、がたん、と鈍い音がしたのは、その郭淮が持っていた竹簡を床に落とした音だ。
 ふ、とおかしげに細められたケ艾の瞳が向けられ、郭淮は慌てふためいて口を開く。
「あ、いえ、あれはその…暗闇の中にあることに慣れていたので、貴方の光が余りに眩しくて、つい言おうと思っていたこととは別のことを口から…!」
「えぇ、確かにあの後すぐに好きですと言ってくださいましたが」
「そうしたら思い切り抱きしめてくるものですから、本当に苦しかった…」
 ふぅ、とため息をつく郭淮の方へと身体を伸ばし、ケ艾は苦笑を浮かべながら拾った書簡を手渡した。すみません、と受け取った郭淮に、ですが、と言葉が付け足される。
「好いた相手が自分への好意を告げながら目の前にあれば、致し方ないことだと存じますが」
「お待ちください…ごほ、私にも責任があるというような言い方ですが、そもそも目の前に引き寄せたのも貴方だ」
 当時の状況に口を挟めばケ艾は、それはそうなのですが、と困ったように眉根を寄せた。
「それは貴方が――手を、伸ばしてきたように見えたので、その手を引き救い上げなければと思ったまでです。まぁそれに少し…欲が、混ざりましたが」
「っ、ごほごほごふっ!!」
 咳きこむ郭淮に、ケ艾はしれっとした表情で大丈夫ですかと声をかける。
「…その反応を見るに、自分の思い違いではなかったようですね」
「そう…です、ね」
 そこまで正確に郭淮の心の内が読み取られていたとは思わなかったため、盛大に驚いてしまった。
 あの日――郭淮がケ艾との世界を歩むと決めた時、確かに郭淮はケ艾に助けを求め、手を伸ばした。その意図を読み取り、ケ艾は郭淮を闇の中から救い出してくれた。そのおかげで、今がある。それは素直に感謝しているところだ。
 これまでは、夏侯淵の話題になると皆腫れ物に触るような接し方をしてきた。勿論、それは郭淮がそうであるように望み仕向けてきたものでもあったが、夏侯淵のことならば仕方がないと諦めてかかる者ばかりであった。
 けれどケ艾は、なお郭淮を救おうと足掻いてくれたのだ。そのおかげで自分は大切なものが何か気付くことが出来たのだと郭淮は思っている。しかしケ艾は、少し考えるような仕草をした。
「…ですが自分も、途中で色々と諦めていたところはあります。それでも貴方が懸命に話そうとするものだから気持ちが伝わった。つまり諦めていたのは貴方も一緒ではないのでしょうか」
「…そうかもしれません、ごほっ」
 言われてみれば確かに、以前の郭淮は影を追い、闇に囚われていることをもはや諦めていたのかもしれない。逃げ出そうとも考えていなかったし、それは逃げ出す目的がなかったからだ。
 受け取った竹簡を膝の上に置き、郭淮は外を眺める。
 世界は変わらず美しい。澄み渡る空には天に向かって雲が伸び、遠くに見える山の端は青く茂り空との境界を鮮明に映す。歩く人々の顔には活気が溢れて、その生を謳歌している。
 その光景を、郭淮はある時を境にして、闇の中から見つめていた。そこから見る光景はどこか仄暗く、郭淮の瞳に鈍い色しか映さなかった。まるで死んでいるようだと思ったこともあるが、事実、心が死んでいたのかもしれない。
 しかし今は、光がある。常に、隣で世界を照らす光がある。
「私は、世界がこれほど明るいものだと――忘れていました。思い出せたのは貴方のおかげです」
「自分こそ、郭淮殿に認めてもらえなければ、今でもずっと一人で地図を眺めていたでしょう」
 お互いに、少し前の自分を思い出すと、その生き方の偏狭さに言葉を失うばかりだった。何も見えず、ただ己の世界に閉じこもって、それが当然とばかりに生きてきた。
 だがそれは、何かを諦めて生きていたのだ。全ての道理が通る世の中ではないが、諦めていたのは人として生きるために大切なものだった。それを切り捨てた先にあった世界など、なんと矮小でつまらないものだっただろうか。
 では、今は。

 ――生きているのは、何故か。

 その問いに対し、郭淮はこれまで夏侯淵のためだと返してきた。
 それ以外の理由など、自分には存在しえぬものであり、あってはならぬものだと思っていた。
 けれど今は少し違う。
 大切なもののため、生きるために、ただ生きているのだ。そこに小難しい理屈はない。
 その生き方を思い出させてくれたケ艾に、郭淮は手を伸ばす。視線が合い、その手が、そ、と優しく握り返された。伝わる熱と、鼓動で、生きていることを実感する。
 足元には、まだ郭淮を過去へ留めようとする影がうごめいている。薄くなることも、消えることもないだろう。だがその影を纏って、前へ進むのだ。追うのではなく、時折その影を振り返り、自身の歩いてきた道を確認することで、確実に前へ進んでいる証拠として思い出せばそれでいい。
「郭淮殿」
 郭淮の名を呼ぶまばゆい光の声がする。
(――あぁ)
 あの日からようやく、未来に向かって歩き出すことが出来たのかもしれない、と思った。



斯くて闇中に光求め   完


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