林檎3



 青々と晴れ渡った空には、雲ひとつ浮かんでいなかった。さんさんと照らしつける太陽の光はカムイの白く凍りついた大地を照らし、しかし積った雪を溶かす程ではない。もともとの気温が低いこの地では多少太陽が照っただけでは雪を溶かすことは難しい。加えて現在では氷山と化したエゾフジから吹き付ける強い冷気がある。カムイの地すべてを凍りつかせようとするその吹雪には太陽でさえ勝てぬのだった。
 しかし今日はエゾフジに巣食う双魔神の活動がずいぶんと緩やかだ。常に吹雪を吹かせ続ける双魔神と言えどその力は一応有限のようだ、ごく稀に、数時間だけこのような時が訪れる。
 その時間を利用し、サマイクルは再度オキクルミの元へと向かう途中であった。人型よりも早く走ることの出来る獣型へと転化し、昼のカムイの大地を駆け抜ける。昼間は妖怪の活動も多少治まっていたが、この前のような失態は避けようとサマイクルは感覚を敏感にしていた。子供の頃ならまだしも、オイナ族の戦士が二度も妖怪に不意を突かれるなどあってはならぬことだ。
 訊ねたいのは一つだ。オキクルミが、國の守り神である宝剣クトネシリカを奪った理由。カムイの地を守っているのだと皆が信じてやまないその剣を、勝手に持ち出した理由だ。
 前回、結局門前払いと言ってもいいほど簡単に追い帰されてしまい理由も何も聞けたものではなかった。ただ理由もなしに村で崇める宝剣を奪う男ではない。そう信じているからこそ、本人の口からはっきりと理由を聞きたいのだ。

(あいつは言葉数が少なく、昔から誤解されやすい男だった……理由があれば、今の村人が考えているあいつに対する批評も、あるいは)

 ウエペレケを出て道なりに走っていくと、やがてオキクルミが一人こっそりと居座る小さな家がある。ウエペケレからは少し距離があるので、腕に覚えのないものはなかなかここまで来ることがないとオキクルミは見越しているのだろう。クトネシリカを奪い返しに行こうとした人々も最近の妖怪たちの活発化に恐れ、今ではサマイクルのみがこの道を往復するのみだった。
 ふとサマイクルは、その途中で見覚えのある風景に足を止めた。もちろんカムイの地は彼らの家のようなものである、大体の場所は見覚えがあって当然だったが、違うのだ。

(そうか、ここで……)

 そ、と前足で雪に触れた。
 あの日、オキクルミに会いに行った帰り道、この場所でサマイクルは妖怪に背後をとられたのだ。とすると、あのリンゴの男―――たしかヨイチといっただろうか―――と出会ったのもここということになる。
 結局礼を言いそびれてしまったのだな、とあの日も今と同じ獣姿だったことを思い出して、サマイクルは少しだけ申し訳ない気分になった。そこで、ひょっとしたらまだこの辺りにあの男がいるかもしれない、と思いサマイクルはひとまず人型へと転じた。どうせオキクルミの住む家へももう距離はわずかだ、運よく出会うことが出来れば何か礼の一つでもしておこうかと思ったのだ。

「まぁ、もういないという可能性もあるのだが……」

 そうつぶやき、雪の上に足を一歩踏み出した時だ。

「危ねぇ!!」
「は?」

 その声を耳にしたものの咄嗟の事に反応できなかったサマイクルの、すぐ頭上をものすごい速度で何かが通り抜けていった。少し遅れて風が面を打ちつける。何事かと急いで振り返ってみると、真後ろの木の幹に一本の弓矢が突き刺さっていた。もう少し下であったらサマイクルは脳天を打ち抜かれていただろう。

「弓……」
「そこの人、当たらなかった、かい?!」

 さらに遅れて弓矢の飛んできた方角から、慌てたような声が飛んできた。同時に弓と声とがサマイクルの中で一致した。噂をすれば影、である。
 心配そうにサマイクルの元へ駆け寄ってきたのは、あの日と寸分違わぬ姿のヨイチであった。すぐ目の前まで寄ってきたヨイチは弓がサマイクルに刺さっていないことを確認してから、安堵の表情を浮かべた。

「良かったぁ、かすってもいないみてぇだなぁ」
「まさか本当に会えるとはな……」
「ん?じ、実はどっかに当たってんのか!?」

 思わずもらしたサマイクルの台詞を自分に対する抗議の声だと思ったのかヨイチがずいと顔を近づけてくるので、いや大丈夫だと答える。良かった、と破顔したヨイチはあぁそうだとめまぐるしく表情を変化させた。

「悪ぃねぇ、弓の練習をしてたら雪に足が取られちまってとんでもない方向へ飛んでいっちまったんだ。わざとじゃねぇんだ、許してくれ!」

 ぱん、と両手を合わせて頭を下げるヨイチがなんとなくサマイクルには微笑ましく見えて、気にするなと声をかけた。ヨイチの弓の腕はすでに一度見たことがある、あれほど的確な弓を放てる者が雪に滑ったというのが空気を和ませたのかもしれない。

「それより、……その」
「あぁ俺はヨイチっていうんだ。あんたはこの地に住んでる人、かい?」
「あぁ、我はサマイクルという。もう少し先の村落に住んでいるのだが……オイナ族というのを聞いたことはないか」

 尋ねれば、ヨイチは考えてから首を横に振った。やはり知らなかったのか、と思い、ならばあの時助けたのがサマイクルであるということも気づかないのだろう。オイナ族を知らぬというなら、転化することも知らぬはずだ。

「ヨイチ……殿はどこから来て、そしてカムイに何用が?」
「ヨイチで構わねぇよ。俺は弓の腕を鍛えるために各地を回ってんだ。そうしたらここにたどり着いたわけなんだが……おぉそうだ忘れてた、さっきのお詫びにこれを」

 サマイクルの質問には答えながら、ヨイチはごそりと、何かを取り出してサマイクルに投げた。前回と同じく反射的に受け取ると、それも前回と同じく真っ赤なリンゴであった。いったいどこからどうやって出したのだろう。そういえば前回もらったリンゴはおいしかったなと、不意に思い出した。

「ヨイチ、これは……」
「でさ、サマイクルさん?このあたりにうすい青色した毛並みのわんこっていたりしねぇか?」

 サマイクルの疑問の声にかぶるようにヨイチが訊ねてくる。決して悪気があるわけではないのだろう、言葉を発したのがほぼ同時であって、サマイクルが途中で言葉をとぎらせたのだ。
 それに自分の疑問よりもヨイチの言葉の方が気になった。薄い青の獣。おそらくそれは獣型のサマイクルのことを指しているのだろう。

「いや、この前このあたりで妖怪に襲われてたのを見かけてよ、そのまま帰しちまったんだが……大丈夫だったかなって心配でよォ」

 こんぐらいの大きさなんだけど、と言って手で表現してみせるヨイチ。自分で表現しているそれは普通の犬のサイズなどではないと気がついていないのだろうか、ちょうど成熟したオイナ族の大きさであった。ウエペケレにはサマイクルと同じ色をした獣はいない、己のことを言っているのだとみて間違いないだろうとサマイクルは思った。

(さて、何と答えるべきか……)
「……あぁ、我らの村にそのような色をした獣はいるが……そうか、妖怪から助けてくれたのか。申し訳ない、助かった」

 この程度の嘘ならばバレはしまい、とサマイクルが妥協した言葉は、ヨイチには真らしく聞こえたようだ。無事だったなら良かった、とにっかりと笑った。
 たかが獣一匹無事だったというだけでなんと嬉しそうに笑う男だろうか、とサマイクルは面の下の表情を緩める。よそから来た者には警戒を厳しくしろと村の者に言ってある手前多少は注意を払っていたが、それさえも解けてしまいそうだ。

「いやぁあのわんこ奇麗な毛並みだったなぁ、そうだ、ちょうどサマイクルさんの髪の色みたいでさぁ。奇麗な色だ」

 他意があったわけではないのだろう。しかし真正面からそんなことを言われてサマイクルは少したじろいだ。そんなことをサマイクルに言った男は一人しかいなかった―――カイポクやらピリカやらは、時折言うことはあるけれど―――その時は、馬鹿なことを、と一言で切り捨てたというのに、その言葉が出てくるまでに少しの時間を要した。

「……、変わったことを言う男だな、お前は」
「そうかい?」

 俺の前の職場では見かけなかったからなぁ、と首をかしげるヨイチ。途端に、あ、と一声大声を上げる。

「あ、そうだ急いで走ってきたから向こうに金丸を置いてきちまった!ちょっと取ってくるから待って……なくてもいいけど、待っててくれよ!」
「あ、あぁ……」

 金丸、と言われても何の名前なのかわからなかったが、サマイクルは思わず返事を返していた。その返事に満足そうに頷いたヨイチは、せっせと走って行く。その際に彼の懐からリンゴがぽろぽろと零れ落ちている。なんなのだあの男は。そう思いながら眺めている間にもリンゴの道が出来上がり、男の姿は見えなくなった。

 残されたサマイクルはとりあえず、手の中のリンゴをくるりと回した。赤くツヤのある皮は、白一色の景色の中でひどく違和感を感じる。しかしとても美味しそうにも見えた。

(……走ってきて、疲れたしな……)

 誰にでもなく言い訳のようなものをしながら、サマイクルはそっと面をずらした。そして通常の人間よりも鋭く進化した犬歯を、赤い皮に突き立てる。じわりと広がる甘みと酸味は今まで食べたリンゴの中でも上位に位置するものだった。

「何をしている、サマイクル」

 背後から声が降ってきたのはその時であった。



林檎 3


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なんだか長くなったので中途半端切り。

私のヨイチに対するイメージがゲームと違っているんじゃないかと思い始めた今日この頃。彼はこんなに騒がしそうに忙しそうな男だっただろうか。