連日降り続いた雨があがり、ケ艾は数日ぶりに周辺の散策へと出かけた。
 こういってしまうと奇人ぶりがもろに露見してしまうのだが、どうにもこうにも書きかけの地図が気になって仕方がないのである。確かに、地図が気になるのはいつものことである。しかし、今回は少しその度合いが深い。義務のような、使命のような強い感情に揺り動かされている。
 ひょっとすると先日の雨の日、郭淮によって地図がまだ白いということに気づかされたせいで、焦りがでたのかもしれない。なぜこれほどまでに意欲に駆られているのか、ケ艾自身も理解は出来ていなかったが、とにかくこの付近の地図を完成させてしまいたい思いが止まらなかった。
「さて…どこから手をつけるか」
 一人、山の中腹に立ち、一帯を見下ろしながらつぶやく。
 地図を作る、とはいうが、それは文字通りだけのものではない。屯田民を経て水田などの農業を管理する役人についていた頃の名残か、広い荒れた地を見れば食料を作るに適した地であるか、どれほどの収穫が見込めるかを考えるし、武官としての今では高山や森林の配置を見ればその地に布陣した際、どこが陣を構えるに妥当であるか等を小一時間ほど考えることもある。
 地図を見たり、作ることは勿論好きだが、ひょっとするとこうして思考している時間がなにより好きなのかもしれない。ケ艾はふとそんなことを思ったりもする。でなければ、なにもせずにただぼんやりと突っ立って考え続けることもないだろう。
 そんなことを考えていると時間はあっという間に過ぎ去ってしまうので、ある程度空想に耽ると、地図の作成に取り掛かるようにしていた。
 朝はなるべく遠くまで馬を駆けさせ、測量し、昼は作っておいた点心をほおばったまま測量を続け、紙の上に筆を走らせる。距離、方角、高度、面積、その様々を測っている間、ケ艾の心は様々なしがらみから解き放たれ、ただ地図の中に己の存在を見出している。おそらくこういった感覚が、周囲の者に理解されず、果ては気味悪がられる一因であるのだろう。
(まぁそれは、今更だ。気にするほどのことでもない)
 馬鹿にされたとて、ケ艾にとってはなくてはならない感覚であり、感情だ。
 地図とは――ケ艾は思う。地図とは即ち、ケ艾自身だ。ケ艾が実際に推し量り、自分の世界へと取り入れた情報を形にしたものだ。感じたもの、考えたもの、その時々の多様な思いが紙面にまとまったものだ。ケ艾が自らの力で作成したものでありながら、迷い足を止めるケ艾に道を示し、理を教えてくれるものでもある。
 ケ艾は、だから地図を哂う人々のことを信じない。もともと地位もなく成り上がりでここまでやってきたケ艾にとって、信じられるのは自分の力だけだった。その、信じるものが少し変わっただけだ。ただ地図だけを、それらに付随する情報だけを信じているのかもしれない。
 ゆえに、この才を見抜き、認めてくれた司馬懿に対しては並々ならぬ恩を感じている。身分で相手を見たりはしない、その子らも同様にケ艾の忠義を尽くすに異論のない相手だった。
 また、たとえ彼らに認めてもらえなかったとしても、ケ艾はこの魏という国に住む以上、この国のために自分の持てる才を発揮するつもりでいる。身分という名の煌びやかな衣を纏った権力者は多く、そういった輩に尽くすつもりはないが、国とはそれだけではない。一番はとにかく民の暮らしだ。災害少なく、食料多く、大勢の人々が飢えず暮らせる世というのが、同じく昔貧しかったケ艾の目指す世だった。
(そう、誰に理解されずとも、自分の行為がいつか実を結ぶなら)
 けれど、勿論誰か同じ志を持つ人がいれば、と思うこともある。世の中は広く、ケ艾のことを認めてくれた司馬懿のように、そういう相手がいないということはないのだろう。しかしケ艾は、今のところそういった人をほとんど見つけられずにいる。その原因の一端は、自分にあることも一応理解はしている。
 ケ艾はあまり友人に恵まれていない。それは、過去に皆がケ艾と、ケ艾が作った地図とを嘲笑ったからであり、嘲笑う皆をケ艾が無意識のうちに遠ざけているからでもある。恵まれていないのか、恵まれるような行いをしてきていないのか、どちらでもあるのだろう。
 けれどケ艾はそれでも良かった。媚びへつらい、己の生き方を無理やり曲げてまで他人と付き合うよりも、一人己と対話し、地図上にその思いを描いている時が一番充実していた。戦場においては、皆と足並みをそろえればいい。それだけの技量は持ち合わせている。
(…しまった、また手が止まっていた)
 ケ艾は、ふ、と息をついて己の感情を押しとどめると、再び紙面に筆を走らせた。



「おおケ艾殿、地図は出来ましたか?」
 そういう郭淮と出会ったのは、北から東にかけて半分ほど地図が埋まりかけていた頃合だ。
 天気にも恵まれ、地図作成に本格的に取り組み始めてからはや数日。郭淮の社交辞令を聞いたあの日から郭淮と二人きりになることもなく、これまでと同じように公の場での会話を交わすだけだった日々が続いていた。正直、郭淮に地図のことを尋ねられたことすら忘れていたぐらいだ。
 だから、回廊の奥から歩いてくる郭淮に話しかけられるとも思っていなかったし、一瞬、地図とは何の話だったろう、と考えてしまい、はっと思い出し慌ててケ艾は言葉を返した。
「あ…いえ、まだです。ようやく半分ほどといったところでしょうか」
「おや、そうでしたか。やはり正確なものを作ろうと思うと時間がかかるものだ…ごふ、」
 ふむふむと郭淮は相変わらずの顔色で一人うなずいた。暗に出来が遅いと中傷されているのだろうか、とまた穿った見方をしたケ艾は、その心を隠したまま困ったように笑んでみせる。
「南に広がる付近の森が思いのほか複雑でして…」
 そう言ったことは事実であったが、実際のところどうにも出来上がり具合に納得がいっていないというのが完成に至らない最大の理由であった。
 何かが欠けている、と思うのだ。それが何か理解が出来ずに、ひたすらに思考を続けていたら、筆を持つ手が思うように進まない。地図を作るという情熱だけが空回りしてしまっている状態だった。
 見たそのままを描けばいいではないかといわれるかもしれないが、以前にも言ったように地図とはケ艾そのものである。したがって、ケ艾の中で何かが欠けているからそれが地図にも表れてしまっているのだろうが、生憎とケ艾には心当たりがない。今までにない状態なのだ。
 ――簡単な言葉に直すならば、調子が悪い、ということだった。
「確かに、南方は複雑な地形をしていますからね…ごほ…なればこそ、完成を楽しみにしております」
「…はぁ」
 随分と気の抜けた返事をしてしまったが、郭淮が気にしていないようだったので、ケ艾も自分の非礼に気がつかないふりをした。気が抜けているのは返事だけで、脳内では彼の言葉に対し多くのことを考えている。
 ――この人は本当に、自分の描く地図に興味を持ってくれたのだろうか。
 以前は社交辞令であると断定したその類の台詞に、ふと、そんな期待が頭をもたげた。
 けれど、すぐに過去の自分が諦めた表情で囁くのである。期待などするものではない、と。いつだってそういった期待が裏切られてきたのを忘れたのか、と。
(…忘れてなどいない)
 自分を嘲笑った者達の顔がぱっと思い浮かぶ。ゆえに、今だって郭淮の言葉を鵜呑みになどしていない。鵜呑みにしていたなら、きっともっと嬉しいという感情を表現できるはずだ。地図の完成を待ち望んでくれている人など、今までほとんど出会えなかったのだから、まったく信じていたならば嬉しくて仕方がないはずなのだ。けれど、ケ艾の心に飛来するものは空しさだけだ。
 だから、鵜呑みになどしていない。
(…だが)
 わざわざ相手から話しかけてきてくれたのだから、あるいは――と思わないでもない。嫌いな、馬鹿にしている相手に自ら進んで話しかける人間をケ艾は知らない。いや、それが罵倒の言葉であったり、相手を貶すための言葉であるなら別だが、嫌いな相手にこうも興味深そうに話すことが出来るのであろうか。
(いや、だがなべて位の高い者というのは、身分の低いものを見下す傾向がある。それは古来より変わらぬ、世の常)
 ケ艾は基本的に、自分の才を認めてくれた司馬懿達以外の自分よりも上の者を、あまり信用していない。表面上は人当たりよく、当たり障りなく受け流しているが、信用に足ると認めている人物はそう多くない。
 郭淮に対しても同じだ。自分と同じく、司馬懿に重用されているようだが、その内心は何を思っているか知れたものではない。ケ艾と同じように、表面を取り繕っているだけかもしれない。
(だからきっと、今回のことも気まぐれだろう)
 ではまた、と咳をしながらも緩やかに一礼して去っていく郭淮を、ケ艾はなるべく見ないように頭を下げた。そして次に頭を上げた時には、すでに郭淮のことなどケ艾の思考の片隅へと追いやっていたのだった。

 その翌日出かけた地図作りも、結局思うように筆は動かなかった。この際とにかく見たままを描いてしまおう、と思いながら測量もしているが、いつもはすらすらと動くはずの手が鉛のように重く、どうも集中力が欠けている。
 何故これほど集中できないのか――考えても、答えは出ない。地図を見つめその答えを探してみるも、道が示されることはなく、ただ時間だけが過ぎていった。

 そんな日がまた何日か続いた。ずっとこうして無為に時間を過ごしても仕方ないのだが、今日こそは、という期待がケ艾を地図作りへと走らせる。
 その日はいつもと違い気合を入れて、日課であるはずの朝の鍛錬さえも休んで朝早く出かけることにした。しかしその結果は、太陽も沈もうという頃に帰って来たケ艾の落胆した顔を見れば知れるだろう。
「…はぁ」
 なぜこんなにも地図作りがはかどらないのか、今までにない不調に表情を歪めて帰ってきたケ艾を、珍しくも出迎える影があった。
「おっ、ケ艾殿!お帰りー邪魔してるぜ!」
「…夏侯覇殿?」
 ひらひらと手を振るのは、いつもの鎧ではなく身軽な服に着替えた夏侯覇だった。彼はケ艾の屋敷の者のすすめで一人庭の見える部屋へと通されていた。
「え、なにその嫌そうな顔」
「いや、これは夏侯覇殿に対する表情ではなく…それよりも何か、自分に急ぎの案件でもあっただろうか。朝の時点では何も…」
「いやいやいや、急ぎってわけじゃないし、別に司馬師殿になんか言われて待ってたわけでもないって。個人的な用件だよ。もう少し遅くなるなら帰ろうかなーって思ってたし」
 はは、と夏侯覇は人懐こい笑みを浮かべた。父親譲りの優しい笑顔だった。
 夏侯覇とケ艾であるが、別段親しいわけではない。かといってただの知人ですというほど他人でもない。あまり一緒に行動することはないが、顔を合わせれば普通に話もするし、鍛錬をすることもある。友人、あるいは仲間という表現で合っているのだろうか。
 しかし仲間だからと言って、ケ艾が他の人に対して夏侯覇と話すように対応しているかといわれると違う気もしたので、つまりは夏侯覇が社交的であるということなのだろう。ケ艾が、警戒したりせずに話をする程度に。
 夏侯覇が明るく笑うのを見ていたら、少し気を取り直してきた。彼につられるように、ケ艾もゆるりと笑みを浮かべる。
「そうでしたか、しかし自分に用事とは…」
「あぁ、あのさ、ちょっと地図の見方教えてもらえないかなって」
「地図?」
「いやーちょっと郭淮がさ、ケ艾殿に地図の見方でも習ってきなさい、とか急に言い出すもんだから…いやいや、別に読めるぜ?読めるんだけど…」
 もごもごと口を動かして夏侯覇が言うには、どうやら夏侯覇は少し前の戦場で軽い迷子状態に陥ったのだそうだ。一方通行だというのに近道だと突っ込んで行き止まりに会ってみたり、通れるかなと思った道が柵でふさがれていたり、目的の武将のところまでなかなかたどり着けなかったり、とかくひどい有様だったのだという。
 それを心配した郭淮の言葉であったようで、これはまずいなという自覚もあった夏侯覇は、言われた通りやってきたらしい。夏侯覇の父親である故夏侯淵将軍を敬愛し、その息子である彼のことも気にかけている郭淮らしい言葉だが、だとすると逆にケ艾には理解できないところがある。
「教えるのは構わないが…自分でなくとも、郭淮殿も十分に知識があるように思えるのだが」
 そう、郭淮は決して愚鈍な将ではない。地図を読むぐらいならば朝飯前だろう。また、夏侯覇と郭淮との関係は浅からぬものである。ならば、郭淮が手ずからその知識を教授するのが、二人の関係なのではないかとケ艾は勝手に思ったのだ。
「ん?俺もそうも思うけど、でもケ艾殿なら自分などよりよほど詳しいから間違いない、って郭淮が言ったし、じゃあそうなんだろうなぁって」
「――郭淮、殿が?」
 思わず聞き返した声には、驚きと、自分でも意図しなかったほんの微かな期待とが込められていた。
「そりゃ、郭淮も人並み以上には詳しいけど、地図のことならケ艾殿です、って力説されちまって。それにさぁ…ちょっと言いづらいんだけど、この歳になってまであいつに迷子だなんだと子ども扱いされるのも悔しくて…だから頼むよケ艾殿!郭淮よりも詳しくなって、見返してやるんだ!」
 な、と手を合わせ頭を下げてくる夏侯覇に対し、拒否する理由は見当たらなかった。普段なら、自分でよければ、と即答していたはずだ。だが、返事が遅れてしまったのは、ケ艾の中で新たな思いが芽生えていたからだ。
(間違いない、とは…)
 まさか郭淮が、他人に薦め太鼓判をおすほどにケ艾の能力を買ってくれているとは微塵も思っていなかった。まして、地図作りも嘲笑っているのでは、と思っていただけに、思いもかけぬ評価に驚きを隠せなかったのだ。
 一体どういう思惑があるのだろう、とケ艾は考える。実は本当に地図を読むのが苦手なのか、あるいは夏侯覇に教えるのが嫌だったのか。考えて、それはないなと思う。政治のことだけでなく、軍略にも長けたあの男が地図を理解できないはずがないし、これほど強い結びつきをもつ夏侯覇に対して、教えるのを厭うとも思えない。
 では、夏侯覇の言葉自体が嘘であるのだろうか。
(…いや、それも違う)
 夏侯覇というのは、本当に気持ちの良い好青年だ。誰とでもすぐに打ち解け、周囲の雰囲気を明るくし、人の輪の中心になりうる男である。その彼がわざわざ嘘をつくとは思えない。あまり他人を信用していないケ艾だが、夏侯覇の邪気のない実直さは信用に足ると思っている。
 そうなると、ひょっとしたら郭淮の言葉も――よみがえるのは、あの雨の日の言葉だ。
(…本当に、何の思惑もなく、自分の地図を楽しみにしてくれているとしたら…)
 そんなはずはない、と頭をふる。少し長めに伸ばした髪が、曲線を描き揺れた。
 そんなはずはない、けれど、そう囁く声よりも、心臓の音のほうが大きく聞こえた。そうであってくれたらと願う祈りの声が心音に混ざっている。それを必死に散らそうともう一度頭を振った。
「えぇ?!だ、駄目なのケ艾殿?」
「え?」
 夏侯覇の焦った声にはっと我に帰る。そして、自分の動作がいかにも夏侯覇の申し出を断っているように見えたことに気づき、ケ艾も慌てて両手を振った。
「い、いや、申し訳ない、違います、自分でよければ手伝わせてもらいましょう」
 ぱぁっと明るくなった夏侯覇の顔を見て、今はこちらに集中しよう、とケ艾は後で拾うつもりで思考の端に郭淮のことを放り投げた。
 その後夏侯覇とは夕食も共にとり、今日はどうもありがとな、と笑って去っていく青年の背を見送った頃にはすっかり暗くなってしまっていたので、先ほど放り投げた話題を拾うことを忘れ、ケ艾は眠りへとついたのだった。





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