今日は朝からケ艾は執務に追われていた。 相応の地位についている身としては、毎日毎日年がら年中地図を作っていればよいというものではなく、他の仕事も回ってくる。決して無能ではないので、人並み以上の仕事はこなすケ艾であったが、それでも多くの案件を言い渡されてはどうしたって時間がかかろうというものだった。 そうして黙々と仕事をこなし、終わった頃には昼になってしまっていた。しかしまだ時間もあるし地図の続きでも描きにいこうか、と準備を整えたケ艾を呼び止める声が、一つ。 「ケ艾殿、ごふごふっ、どうもありがとうございました」 この咳を聞けば、もはや誰とは言わずもがな。開口一番、お礼と咳とを同時に聞かされ、ケ艾は戸惑って、はぁ、と一言漏らすだけだった。 このようになんとも覇気のない返事を、ここに赴任してから一体何度この人に対してしてしまったことだろう、と申し訳なくも思うのだが、色々と突拍子なのが悪いのだ、と責任逃れなことを思ってみたりもする。 「えぇと…郭淮殿、申し訳ありません。そのお礼は何の件だったでしょうか?」 いえいえとんでもない、と当たり障りのない返事で誤魔化してしまおうかとも思ったが、まったく心当たりのないお礼だけに、とりあえず素直に尋ねることにした。あぁ、と慌てたように郭淮が続ける。 「これは、こちらこそすみませんごほごほっ、先日夏侯覇殿から、貴方に詳細な地図の見方を教えていただいたと聞き…私が言うことではないのですが、つい」 「あぁ…」 昨日の夏侯覇との出来事のことか、とケ艾は納得する。確かに、礼を言うべきは夏侯覇であって、郭淮ではない。こういったところが子ども扱いされていると夏侯覇が思う部分なのだろう。昨日の今日で、もうその情報が郭淮に伝わっているということは、夏侯覇はよほど郭淮に子ども扱いされることが悔しかったに違いない。知りえた知識をすぐさま報告に行ったように。 しかしそうやって懐いている姿を見ると、郭淮が気にかけて子供のように扱うのもわかるような気がした。顔の幼さのせいか、どこかほっておけないのだ。 (――そういえば、昨日のことを思い出してきた) 朝から何か忘れている気がする、と思っていたのは、おそらく郭淮のことであったのだと気づく。 昨日の夏侯覇との会話の中で、ケ艾が郭淮に対して思ったことがあったのだ。前日に放り投げた話を思い出すことをしないまま、朝から仕事に没頭したため、今まですっかり忘れていた。 思い出したら、忘れていたのが嘘かと思うほどに気になってくる。 そう、そうだった、目の前のこの男は一体、どういうつもりで自分に声をかけてくるのか――ケ艾には未だにその理由がわからぬままであったのだ。 (聞かねばわからぬだろうが…そんな個人的なこと、聞いても良いものか) そう迷っていたので、ケ艾はとりあえず、世渡り用の言葉をつむいでおく。 「いえ、自分に出来ることでしたら、言っていただければいつでも手をお貸しいたします。同じ国の者として当然であると存じます」 すらすらと紡いでおいて、上手く口が回るものだと感心する。同じ国に、州に、城に住んでいようが、ケ艾を笑う者は笑ったし、馬鹿にする者はひたすら馬鹿にしていた。同じ国の中でも、協力し合うのが当然だと裏心なく言い切る者は少ないだろう。 だからこれは、ケ艾に社交辞令で接してくる郭淮への、社交辞令なのだ。少なくともケ艾は、郭淮の態度をまだそうであると決め付けていた。二人の関係を顧みるならば、そうであるとしか考え付かなかった。 でも、と囁く声がある。 ――でも、相手は本当にケ艾を気にかけてくれているのかもしれない。 (そんなはずはないと、昨日も思ったはずだ) ケ艾は少し苛ついた口調で自身をそう戒め、囁く声には蓋をした。 「同じ国の…そうですか…」 郭淮は語勢を弱めて、ぽつりとケ艾の言葉を繰り返した。はっとして、何かおかしなことを言っただろうか、と顔色を窺ってみると、郭淮はなにやら考え事をしているように見える。ケ艾の態度を不審に思ったのだろうか。 けれどこれ幸いと、会話が途切れたこの隙にケ艾はこの場から離れる口実を思い出した。すでに話題は尽きかけているし、郭淮を目の前にしていると、心のうちがざわざわと騒がしく煩わしかった。それに、もし本当に郭淮に発言の意図を聞くにしても、もう少しケ艾なりに考えてからのほうがいいだろうと思ったのだ。 「すみません、これから城外へと出ますので、用がなければこれにて…」 失礼します、と続けようとしたケ艾の試みは失敗した。不意に何かを思いついたとばかりに、郭淮の目に光が宿ったのだ。 「あの…でしたら一つよろしいでしょうか?」 「え…あ、はい、なんでしょう」 あまりよろしくないです、とはとても言えない。 「これから外に出られるのであれば、私も同行させてはいただけませんか…?ごほっ」 「――はい?」 「地図を描きに行かれるのではないでしょうか。ならばと思ったのですが…あ、いやお邪魔でしたら無理にとは言いませんが…」 どうだろうか、とケ艾のことを見上げてくる表情からは、郭淮の感情は読めなかった。そうでなくとも突拍子もない問いかけに対し、ケ艾は現状についていけずにぐるぐると脳内で疑問を巡らせている。 (…地図を描きにいくと知っていて、同行?自分に?郭淮殿が?…わからん) どういう意図があるのか測りかねて、ケ艾は口ごもった。本当に理解に苦しんでいる。 しかし上官が、そうケ艾にとっては非常に信用出来ないはずの自分よりも位の高い人間が、こちらの都合を窺うように尋ねてきているのに、それを無下に断るわけにもいかなかった。身分の差を考えればそもそもが、ケ艾に拒否権などないのだ。 「…では準備などは、よろしいですか?」 「おぉ!すぐに整えてまいります!ごほごほごほ!!」 「あぁ、そんなに意気込んで急がなくても良いので、どうかご自身のペースで…」 お願いします、と言いかけたその時には、すでに郭淮の姿は彼の屋敷のほうへと消えていた。驚くほどの速さであるが、病弱といってももともと身体能力は低くないのだろう。見えなくなった方角を眺めながら、ぼんやりケ艾は考える。 何故彼が同行を申し出たのか。それはやはり、地図に興味があるからではないのか。今のところ、それが最も納得できそうな答えだった。そうだ、地図に興味のない人間が、地図作りに同行したいなどと言い出すものか。しかし、そう親しくない人間と二人で行動など、普通の人であれば考えもしないだろう。では、何故か。 微動だにせず考え続けた結果、うむ、とケ艾は一つ頷いた。 (――よし、どうしてとか何故とか、そういうことを考えるのはやめよう) 考えたところでわかるはずがないのなら、時間の無駄だ。 きっとケ艾を監視してこいと誰かに言われたのだ。そうでなければ、山の中へ漢方でも探りに行くだとか、暇つぶしに話し相手を探していただとか、そういった彼の都合があるに違いない。なんにせよ、ケ艾はただ自分の役割を果たせばいいのだ。 (今までとて、そうやってやり過ごしてきたのだから) だから好きなようにやらせよう、と郭淮への関心をなるべく持たないように決めたケ艾は、自分もまた遠出の準備をするべく厩へと向かった。 その際、心の中に小さく輝く光の存在があったことには気がついていないのであった。 さて、遠出の準備を終えた郭淮を伴って測量地点までたどり着いたケ艾は、考えるのはやめようと誓ったにも関わらず、やはりまだまだ頭をひねらせていた。 (本当に…なぜこんなことになっているのか…) さっきの決心はどこへ行った、と内心一人で突っ込みを入れるも、当の本人を目の前にして、相手のことを考えるなというほうが土台無理な話であった。そんな簡単なことにも気がつかなかったのは、やはり戸惑っていたからなのか。 地形と地図とを交互に見つめる己の隣で、こうやって作っていくのか、と飽きもせずこちらを見ている郭淮の姿に、ケ艾はしばし筆を持つ手を止め考え込む。作成過程をじろじろと見られることには慣れている。それを、あまり好意的な目で見られないことにも慣れている。人の奇異の視線はいくらだって受けてきた。 だがこのように、興味津々に観察されるのは例を見ないことで、正直居心地が悪かった。 (というより、こうなることぐらい想定しなければいけなかったか…) 自分の見通しの甘さに、ケ艾は肩を落とす。 郭淮とて暇に違いないのに、無駄口も文句も一言も言わない。飽きたら帰っていい、とも言ったのだが、わかりましたと言っただけで郭淮がケ艾の傍を離れる気配はなかった。 ちなみに、ケ艾が考えたような漢方を探しているだとか、そういった様子はない。暇つぶしだとしても、よく考えればこの人がそれほど暇なはずがないし、付いてきた方がよほど暇なはずである。だとしたら監視になるのだろうか、と考えるが、この郭淮という男は本当によくわからなかった。 仕方なく、ケ艾も言葉を発さずに黙々と作図を続けている。しかしここ数日と同じくどうにも満足いく出来になっていなかった。これはおそらく、全く集中出来ていないのが原因であろうとはよくわかっていた。しかし一人の時と違い思索にふけることも出来なかったので、とりあえず郭淮に不審に思われない程度に適当に描いて場所を移っていった。 郭淮は、というと、ケ艾の邪魔をしないようにか、特に言葉は発さなかった。質問でもなんでもしてくれれば答えるだけの用意はあったが、本当にただ見ているだけなのだ。ゆえに、彼が何を思ってケ艾に同行しているのかは、分からずじまいだ。 (これは地図に興味がある、という風に捉えていいものか…) ケ艾がもう少し他人と打ち解けるのが得意であれば、そうやって聞いてみればいいだけの話であったが、そこまで能動的になるほど、ケ艾は郭淮との会話をこなす自信はなかった。 さてどうしたものか、と若干の居心地の悪さを抱えながら獣道を進んでいくと、やがて木々が開け、遠方まで見渡せる場所へとたどり着いた。ここより見える山の端の向こうは、以前に地図を描いたことがある地域だった。ならばここが今回の地図の最端となる。 (ここで、きりをつけるか) 日も沈み始めているし、病弱な連れもいる。ここを測量したら終わりにしよう、と想定外の出来事に疲れていた気力を奮い立たせた時であった。 「――そういえば、『済河論』を以前司馬懿殿に借り受けて読ませていただきました」 ふと話し出した内容に、ケ艾はぴくりと耳を動かした。急にどうしたのだろう、と思ったが、おそらく眼下に流れる川を見つけて、郭淮が不意に思い出したのだろう。 話しかけられれば応えないわけにいかない。 「…それは、ありがたく存じます…いえ、稚拙でお恥ずかしい限りです」 話題に上った書物は以前にケ艾が書いたものであるが、正直なところあれにもあまりいい思い出がない。内容を認めた司馬懿が、ケ艾の提案どおり治水の事業を始め災害が減ったのは良かったが、諸将たちにとっては成り上がりが取り立てられたのがよほど気に食わなかったのか、じりじりとした妬みの視線を感じることも多くなったのだ。まったくお門違いだと思うが、これは一生付きまとうものなのだろうとその時は諦めたものだった。 さて、この場でその話題を持ち出した郭淮は、一体何を言おうとしているのであろうか。これまでの者達と同じように、嫌味の言葉でも投げかけてくるつもりなのか、と思ったら、自然と言葉に険が混じり、饒舌になってしまった。 「おそらく、自分よりももっと詳しく書ける方もいらっしゃるかと思いますが…」 「とんでもない、素晴らしい内容でした!っごほ!」 勢いよく否定した反動で、郭淮は大きな咳をこぼす。聞き慣れたものになってしまったが、思わず振り返って無事を確かめてしまった。 「大丈夫ですか、そう力まずに…」 「あぁ…すみません、ケ艾殿があまりに謙遜なさるので…」 「謙遜というよりは、事実を言っただけかと。司馬懿殿以外は取り立てて目もくれなかったような内容です。きっと頭のいい方ですからご理解いただけただけで、素晴らしいなどとは…」 「またそのように…」 困ったように笑う郭淮であったが、そのような反応をする者を初めて見たケ艾は、それがどういう意味合いなのか測りかねた。馬鹿にしているのかなんなのか、考えるケ艾には気付かずに、郭淮はすらすらと言葉を連ねる。 「運河による地形利用、またそれらを把握することで水害は減り、食糧の備蓄などにも役立っていると聞いています…ごほごほ、失礼。稚拙などと言いますが、私はそうは思いませんでしたし、何より内容が…とにかく素晴らしかった。実際、司馬懿殿もいたく此度の文書をお気に召されたらしく…私はそういったことは不得手ですので、目から鱗の思いで読ませていただきました。実に、素晴らしい内容でした」 「は…」 あぁまた間の抜けた声を上げてしまった、とか、この人はこんなにも連続して言葉を話す事が出来るのか、とか、色々なことも思ったが、それを上回る感情にそれらの思いはざっとかき消されてしまう。 ケ艾はただ、自分に向けられる賛美の言葉の数々が理解できずに、目を丸くするばかりだった。 自分よりも立場が上の人間から、かように褒められたことなど数えるほどしかなかった。それは、自分を取り立ててくれた司馬一族の方々ぐらいである。生まれも貧しく、奇行が目立つと噂を立てられたケ艾はとにかく、同僚や上官からの評価はあまり高くなかった。 それが今、何やらものすごく絶賛されている。夢か幻か、などと大げさなことを思ってしまうほどには、ケ艾の他人不信は筋金入りであったのだ。それについては自分でも理解している。理解しているからこそ、絶賛の嵐に心が追いついていなかった。 (――だが) そんなケ艾の中に、先ほどは気がつかなかった光が存在を主張し始めていた。昨日否定したはずの期待が、再び巣食い始めていた。じわじわと、それは水滴が石を削るのにも似ていた。 (この方はひょっとして…本当に、) ケ艾の思うような疚しいところなど何もないのだろうか。ただ善意で話しかけてくれているというのだろうか。そうやって腹の探りあいをせずに付き合える相手を数多く持たないケ艾にとって、郭淮の言動は未知のものに近かった。ゆえに、混乱している。 「私も以前、兵糧不足で苦い思いをしたことがありましたから、食糧問題が改善されるのは実に喜ばしいことです…ケ艾殿の提案のおかげで、この国はまた一つ大きくなったのだと思います」 「自分は…」 過去を思い出して遠い目をする郭淮を見て、ケ艾の中に一つの勇気がわいてきた。そして、このタイミングを逃したら二度と聞けないような気がして、意を決してケ艾は重たい口を開いた。 「あの…郭淮殿、無礼を承知で聞いてもよいでしょうか」 「なんですか?」 「なぜ…自分と、このように…その、話したりされるのでしょうか」 ケ艾の口から出た疑問は、それが精一杯であった。先ほどまで饒舌に動いていた口が、驚くほどに乾いている。また、ついに聞いてやった、という達成感と、こんなこと聞いてどうしようというのか、という戸惑いがケ艾の中でせめぎあっていた。 ケ艾の言葉に、郭淮は少し、困ったように眉根を寄せた。相手よりも位の低い者にそんなことを聞く権利などなかっただろうか、自分の行動を後悔しかけたが、よくよく見れば、郭淮は怒ったり不快に思ったりしているのではないようだった。ただ、なんと説明すべきかと言葉を探しているだけのように見える。 やがて、こんこん、と喉を鳴らした郭淮が、ゆっくりと口を開いた。 「それは――私がずっと、貴方と話をしてみたいと思っていたから、です」 「自分と、ですか?」 「えぇ、ケ艾殿とです」 じっとケ艾を見据えてくる瞳に、仄暗いものはない。むしろ、本当に病にかかっているのかというほどに、瞳の奥は澄んだ色をしている。 (郭淮殿が、自分と、話を?何を、どうしてだ) 郭淮の答えは、さらにケ艾を困惑させた。そうして沈黙していると、困ったような眉だけはそのままに、郭淮は視線を泳がせた。 「その…私はとても臆病でして」 「…はい?」 「笑ってもらっても構わないのだが…私はこういった風貌で、会話の要所要所で…ごほごほ…このように咳き込んでしまうことも多い。こんな病人に話しかけられるのは好ましくないだろうかと考えていたら、貴方を前にしてもどうにも言葉が出てこず…今まで機会を逃していました…」 幾度か話しかけてみようと思ったのですが、と郭淮は言うが、ケ艾には覚えがない。だがそれは、ケ艾が無意識のうちに周囲との接触を拒んでいたためだ。たとえ郭淮がケ艾の方を向いて話したそうにしていても、ケ艾が気づくことはなかったのだろう。 「ですがあの書庫で出会った日、あの時は雨音にまぎれてみれば聞き取りづらくても多少許されるかなどと思って話しかけてみたのだが…突然話しかけられて迷惑だっただろうかとか、雨のせいにするのは卑怯であったかとか、色々と…ごほごほ…考えて、あまり上手く話せず…」 それで次話しかけるタイミングも逃してしまって、数日後にようやく話せたのだ、と郭淮は言う。彼が語るのは、ケ艾には思いもよらなかったことばかりだった。 (なんという、ことだ) 郭淮がケ艾に話しかけてきたのは、沈黙に耐え切れなくなったから、などという理由ではなかったのだ。落ち着きすぎるような、あるいは棒読みのように聞こえた言葉の裏では、もっと色々な思いを抱えていたのだ。それは、ケ艾が思うような悪意あるものではなかった。 そう驚くのと同時に、こんな繊細なことを考えていた人相手に、内心では自分のことを嘲笑うかもしれないだとか、優しくかけられた言葉も社交辞令なのだろうとか、そのようにしか考えられなかった己がひどく矮小なもののように思えた。急に、自分の今までの生き方を恥じたくなった。 勿論、よく知らない相手にケ艾がそう思ってしまうのも理由はある。事実郭淮のような人間のほうが少なかったのだから、ケ艾の見立ては仕方のないものだった。 (しかし自分は結局、自分の思うようにしかこの人を見ていなかったのか) それでは見えるものも見えなかったはずである。過去の体験に縛られ、視野がまったく狭くなっていたのだ。地図を見たり、軍を動かしたりするのは得手でも、相手の心情を読むことは不得手だった。 だが、まったく接点がなかったはずの相手がそんなことを思っていたなどと、どうして予見できるだろうか。もし、相手は自分と話をしてみたいはずだ、などと思っている者がいれば、それこそ思い上がりも甚だしいものだ。 戸惑うケ艾の隣で、郭淮は話を続けた。 「それからもまた、ずっと、切欠を探してはいたのですが…今日このような機会を得ることが出来て、本当に良かったと思いながらも、どうにも緊張して会話も出来ず、ケ艾殿のご迷惑にしかなっていなかったかと思うと申し訳なくぐえっほげほげほ!!!」 「だ、大丈夫ですか?」 緊張が頂点に達したのか、申し訳なさが積もりに積もってしまったのか、感情的になり咳き込んだ郭淮に心配そうな眼差しを向ける。しばらくごほごほとしていた郭淮だったが、やがて落ち着いたのか顔を上げた。 「ごほ…すみません、会話の最中だというのに…」 「今回のことは迷惑だとは思っていませんので、そう思いつめずに…」 「…ケ艾殿は、お優しいですね」 「っ、いえ、自分は…」 優しくなどない、と心のうちでは断定しながらも、郭淮の儚げな笑みを見たらその言葉が出てこなかった。そう思ってくれている彼の期待を裏切りたくない、という欲が出たのだ。 だが本当は、自身の性質を理解しているケ艾だからこそ、優しいという言葉が自分にふさわしくないことはよくわかっていた。人を穿った見方で疑うことしか出来ず、郭淮に対してさえそう接していたのに、優しいなどと言われるはずがないのだ。 そんな葛藤などまったく意に介さずに、郭淮は笑う。 「ケ艾殿がそう思っていなくても、私はそう思っています。えぇと…それで、理由でしたか」 ふぅ、と息をついて、郭淮はケ艾の持つ地図を覗き込んだ。まるで、自分が覗き込まれているような気がして、もう少し優しいという言葉の真意について尋ねようと思っていたケ艾は、身を固くして黙り込んでしまった。それには気づかずに、郭淮は真剣な表情で言った。 「地図は…正確な地図は、とても大切だと私は思っています」 「!」 「だから私は、立派な地図を作られる貴方を尊敬して…います。それでは、貴方と話してみようと思った理由にはならないだろうか…?」 「そんな、自分なぞを尊敬などとそのような恐れ多い…!」 ケ艾の口から素直に飛び出した言葉は、これまでのものとは違って謙遜などではなく、本当にそう思ったがゆえに思わず飛び出してしまったものだった。 (自分を尊敬などと滅相もない、むしろ尊敬すべきはこの方ではないのか…) 臆面なく心の内を話し、素直に相手を褒めることが出来る郭淮こそ尊敬すべきだ、とケ艾はそう思った。ひょっとすると、この時点でケ艾は郭淮への感情を改めていたのかもしれない。しかし、ケ艾は自分のそんな気持ちに気づかぬほどに高揚していた。 (それに――この方は、自分のことを認めてくれるというのか) 今の郭淮の言葉は、ケ艾が待ち望んでいた言葉ではなかっただろうか。そう思うと、胸の内に秘めた期待が次々と存在感を主張してくる。 地図を、自分を認めてもらいたいと強く願っていたケ艾が、これまでほとんど得られなかった言葉。笑われ、貶され、変人扱いされてきたケ艾を認め、一転してお前のやっていることは立派だと、見事だと常人へと引き戻してくれる言葉。それを、郭淮の口から聞くことになるなど思ってもいなかった。 だが確かに、嬉しい、と思う自分がいる。 「私は本当にそう思っているのだが…」 しゅんとして視線を地面に落とす郭淮に、急に心臓がど驚くほどの勢いで脈打ち始めた。普段は冷静沈着を常としているだけに、このように平常心を保てないのは久しぶりだった。 彼の言葉一つ一つが、ケ艾の渇きを潤していく。突如降ってわいた言葉は、まさに天恵のようにケ艾の心に染み渡っていく。じわ、じわと、石のように頑なな心が溶かされていく。 (だが…自分は、) それでも、まだあと一押し足りなかった。 過去の出来事に、身体を、心を縛られているケ艾には、まだ郭淮の全てを信じる勇気はなかった。人と交わることに随分と臆病になってしまっているのだ。いくら求めていた言葉を手に入れたからといっても、すぐに相手の心まで信じることが出来なかった。 (ここまでで諦めれば良いものを…一度見えた希望に、こうも欲をだしてはいけないのに) わかっていても、人を信じるのに今以上の理由を求めようとしている。 きっと、長い間一人で気を張って生きてきたせいで、今になってこの身の拠り所を探しているのかもしれなかった。本当は、誰も信じられない自分を寂しくも思っていたのだ。 人を信じたい、とずっと思っていた。けれど、皆ケ艾の信頼を裏切る人ばかりだった。だがいくら強がっていても、一人では生きていけない。その能力はあっても、心がいつか水を失った花のように枯れてしまうものだった。 (だからもし、郭淮殿が本当に自分のことを認めてくれるというのなら、自分は――) 信じたい、と思う。信じさせてほしい、と期待した。 黙りこんだケ艾に対し、それに、と郭淮が付け足した。 「それに――私は嬉しいのです。貴方のように、魏の、この国の未来のために、共に歩むことのできる頼もしい方がおられることが――本当に」 だから貴方に興味を持つことを許してもらいたい。そう言いながら、郭淮の視線ははるか遠く、広大な魏の地を眺めている。魏国のためにと秘めた決意が、瞳の中で凛と輝いていた。 国のため――その曇りのない眼差しに、ついにケ艾の心に纏う強固な石の塊が崩れ去った。 (あぁこの人は、きっと) 信用してもいい人だ、と素直にそう思った。思ってから、信じるまでは早かった。 この郭淮という人物は、魏の未来を本気で考えているのだ。魏への思いがこの人を動かしているのでは、と思うほど、そのまなざしは強く郷土を見据えている。 思えば彼の行動はいつもそうであった。蜀の侵攻があったときも、功ではなく国と人の命を優先して撤退させたという話も聞いている。それは尊敬に値する行為であった。 そして、ケ艾を他の価値を付随せずに正面から見てくれていることに対して、感動するほどの思いがあった。判断基準は、身分や生まれでない、いかに国のために尽くしているか。おそらく、ただそれだけなのだ。それは唯一ケ艾が他の者に負けはしないと思っていた項目であった。 あれほど内心を疑って信じられなかったのが嘘のように、たったの二言三言で全面的に信頼を寄せてもいいと判断している。ケ艾のことを理解してくれて、かつ国を思う心を大切にしている人物。そのような相手にめぐり合えたことが、ケ艾は嬉しかった。郭淮にはそんなつもりはないのかもしれないが、本当に嬉しかったのだ。 そうとなれば、早速ケ艾には詫びなければいけないことがあった。ざ、と片膝を地面に付き、両手を合わせ頭を下げる。 「郭淮殿」 「ケ艾殿、急に何を…?」 「これまでの非礼をどうか許していただきたい」 非礼、と首をかしげる郭淮に、ケ艾はこくりと頷いた。 「自分はその…貴方のことを誤解していました。自分に話しかけてくるのは、何か裏があるのではと勘ぐってしまった」 そんな風に思っていたなど、隠し通してしまえば相手に不信感を抱かせることもない。だが、ケ艾はそういった点では融通の利かぬ男だ。己の非礼を許してもらうことを相手に乞うて清算することでしか、新しい関係を築けないのだ。 「貴方には微塵も、そんな邪な思いはなかったというのに…申し訳ありません」 「そのようなこと…私に許しを乞わずとも結構。ケ艾殿がそう考えるのも、仕方のないことだ…」 なにせ私はこのように得体の知れない風貌であるので、と郭淮は笑う。言うほどおかしくなどない、と言い添えようかと思ったが、自分も一度幽霊かと見間違えたことがある手前、言葉にすることが出来なかった。 それに、重要なのはそこではない。郭淮はケ艾の非礼を受け入れた上で、咎めることなどしないと言っているのだ。なんと寛容な方か、とケ艾はますます感激した。 「郭淮殿が許してくださると言うのなら――自分も、もっと郭淮殿と話をしてみたいと思います」 「私のほうこそ、許していただけるのですね」 「当然です。では改めて――になるのでしょうか、これからも共に国のために歩んでいきましょう。宜しくお願いいたします」 「えぇこちらこそ…是非、そのお力をお貸し願いたい」 その時ぎこちなく、けれど嬉しそうに微笑んだ郭淮を、ケ艾は忘れることはないだろう。それぐらいに、彼の言葉はケ艾の概念を変えたのである。 しかしその時何故郭淮がこれほど嬉しそうであったのか、当時のケ艾には少しもわかりはしなかったのだった。 <<2 4>> |